結論:犬の章は近代文学の屈指。だが後半は、冒頭で張った罠を自分で踏み抜いている
二葉亭四迷の「平凡」は、約8万3千字のうち、ポチという仔犬が来て死ぬ十数章だけで元が取れる小説だ。犬殺しに撲殺される場面は、泣かせにかかる気配が薄いのに、胸に刺さる。一方で、東京に出てからの文学青年の放蕩譚は、語り手が自分で嗤う「古手の思想」の長話に傾き、中盤以降は冒頭ほどの切れ味が出ない。
劇薬というほどではないが、「自虐の語り」を味わえる人にしか勧められない。浮雲のような筋の推進力を期待すると外れる。
最小限のあらすじ
語り手の古屋は三十九歳の役所勤めで、内職の翻訳で食いつなぐ冴えない男だ。暇ができたので、昔の自分を「自然主義」風に飾らず書くことにし、題を「平凡」と決める。幼い日は祖母と両親に甘やかされ、拾った犬のポチを溺愛した。やがて上京し、伯父の家の書生になり、従妹の雪江への初恋、文学への傾倒、放蕩へと進んでいく。
「平凡」の魅力と読みどころ:語りの仕掛けと犬の章を分析する
「書方は牛の涎」という宣言が、小説全体の保険になっている
第二章で語り手は題を決める。「平凡! 平凡に、限る。」。続けて、近ごろの自然主義は経験した愚にもつかないことを技巧なしにだらだら書くものだと皮肉り、「で、題は「平凡」、書方は牛の涎。」と宣言する。つまり、読者が退屈を感じる前に、語り手が先回りして退屈を認めてしまう構えだ。
これは巧い。冗長さも脱線も、「牛の涎だから」で免責される。同時に、この宣言は同時代の自然主義への当てこすりにもなっている。作者が自分の語り手を使って流行を笑う、二重の仕掛けである。三十九歳で老け込んだと自称しながら、愚痴の合間に「あッ、はッ、は!」と笑って見せる第一章のリズムも、口語体の達者さを示している。
ポチの死は、なぜここまで効くのか。犬殺しの場面の組み立て
ポチは雨の夜に家の前へ鳴きながら迷い込み、母が「おやおや、まあ、可愛らしい!」と声を漏らす。主人公は「可哀そうだったのだ」と言い、愛していたからではないとまで言う。この、愛より先に憐れみが来るという捉え方がまず誠実だ。
死の場面は、語り手の主観が壊れる順に書かれる。放課後、道の先から荷車が来て、子供たちが「犬殺しだい」と叫ぶ。語り手は全身の血が止まるように感じ、「ポチは?」と頭に閃く。しかし車の菰の下に何があったのかは、自分の目では確認できない。帰宅して母の「殺されたとさ……」を聞く。直接の目撃を意図的に外し、炭屋の爺さんの饒舌な伝聞に殺し方を語らせるのが肝だ。語り手はその後を聞かずに奥へ引っ込み、「キリキリと二三遍廻った」という一節だけが頭に残って泣く。ここで読者に見せるのは死そのものではなく、死の描写に耐えられない子供の聞き方である。感情を説明せず、聞く態度で悲しみを測らせる手つきは、百年以上前の作品としては相当に進んでいる。
祖母と両親の描き分けと、「無教育な親」への逆説的な感謝
勝気な祖母、人のいい父、いつも襷掛けで働く母。第三章から五章にかけての人物は、短い描写でほぼ輪郭が立つ。とくに第五章で、教育のない親だったから型にはめられずに済んだと語り手が感謝する逆説は、後の自己批判の伏線にもなっている。ただし、それを「だから私は駄目になった」と読ませるのは、語り手自身の言い訳としても読める。そこが面白い。
某大家の訪問場面:軽蔑する語り手を、さらに軽蔑する構造
古屋は処女作を見てもらうため、評判の小説家を根岸に訪ねる。立派な邸宅を想像していたのに、実際は見すぼらしい家で、主人は襟垢のついた着物の陰気な人、庭には樹から樹へ紐を渡して襁褓が幕のように干してある。古屋は「甚く軽蔑の念を起した」。ここで語り手は、名利の外に超然としているはずの自分が貧乏臭さで人を見下したと、次の章で自分にツッコミを入れる。
この二段構えが「平凡」の一番の発明だと私は思う。若い日の傲慢を描き、その傲慢を三十九歳の語り手が検分する。語り手は進歩した人物としては描かれず、むしろ今も同じ癖を持ち続けていることが文面から漏れる。大家の「好い処もあるが、もう一息だ」という煮え切らない評を「同情は「え切らん」の別名だ」と悪態で返す箇所も、反省と逆恨みが同居していて、人間の見苦しさが生々しい。
「内ン中の鮑ッ貝、外へ出りゃ蜆ッ貝」:内弁慶の自覚が語りの核になる
第六章で、友達に囃された言葉として「内ン中の鮑ッ貝、外へ出りゃ蜆ッ貝」が出てくる。家では祖母の甘やかしで王様、門を一歩出れば苛めっ子の勘ちゃんに怯える。この内弁慶の構図は、書生として伯父の家で小さくなり、文壇では自惚れる古屋の姿にそのまま延びている。幼年期の挿話が、後半の人物像の予告として働いている点は、構成としてきちんと効いている。伯父に「先生」と呼ばされて「はアい」と返される主従の儀式の滑稽さも、同じ線の上にある。
※ここから結末に触れます。
「平凡」の欠点と違和感:中盤以降の失速と、結末の唐突さを辛口で斬る
東京編で、語りの熱が落ちる。雪江は「記念」止まりの人物である
上京後の古屋は伯父の家に預けられ、伯父を「先生」、その妻を「奥さん」と呼ぶよう命じられ、掃除や取次をやらされる。この書生扱いの描写自体は笑えるし、「小狐家」の勘定高い主人の造形は戯画として良く出来ている。
問題は雪江だ。茶目っ気のある勧工場の場面で一度は生き生きと立ち上がるのに、肝心の初恋は「霜げて物にならなかった」と総括され、のちに処女作「初霜」を雪江の署名で出す小道具に収まる。語り手が惚れていたことを自覚していなかったというくだりは心理として面白いが、その恋が語り手の変化に何も残さないので、読者の側には余韻が溜まらない。ポチの章で積み上げた愛着の濃度と比べると、人間の女性のほうが薄いという倒錯が起きている。
「実感」の説教が、語りの自虐を説教に変えてしまう
文学青年の友に触れられた「人間の宝」や「恋の真髄」を、語り手は愚言と切って捨て、空想より実感だと論じる。後半では、某大家を軽蔑した自分を「矛盾ではあるが、矛盾が私の一生だ」と整理する。この総括の一文はよく効いているが、その前後の理屈の連続は長い。自虐で笑わせていた語りが、「古手の思想」「木地の吾」「別天地」と抽象語を重ねるうちに、読者に講義をする声へ変わる。冒頭で牛の涎と笑った語り手が、後半では自分で涎を垂れているわけだ。
しかも、この理屈は語り手の経験を裏づける場面と噛み合いきらない。「文心即淫心」と言い切る場面の根拠は、友とのやりとりと処女作の失敗くらいで、読者は説得ではなく断言を浴びる。創作者の目で見ると、ここは理屈で言わせず、場面を一つ足して見せるべきだった。たとえばポチの章は、一言も「無垢の喪失」と説明しないのに、それを読者に感じさせた。同じ作品の中に、説明せずに伝える手本が前半にあるのに、後半はそれを使わない。この落差が、後半を惜しいと感じる最大の理由である。
父の死の場面は強いが、そこに至る金の使い方が型どおりでもある
終盤、お糸さんという女に入れあげた古屋は、国元への送金を後回しにし、父の病を知らせる母の手紙が届く。それでも手を握った瞬間に「親が大病だのに……」が頭をよぎる。この一瞬の躊躇は、人間の見苦しさを正直に書いていて良い。電報で「父危篤直戻れ」と知り、帰郷して遺骸を前に「ああ済なかった……」と泣く流れも、理屈を捨てた痛切さがある。
ただ、父の死に至る手順は、放蕩して仕送りを忘れ、親の病に気づくという、類型の力を借りた進行でもある。ポチの死が予測不能の細部で立ったのに比べ、こちらは読者がほぼ先を読める。語り手の「取返しのつかなさ」という主題は、犬の章のほうがよほど鮮烈だった。
唐突な幕切れは、未完か、それとも意図か
最終章は、父の死のあと母を上京させ、小説を諦めて役所勤めになり、結婚して子を得て母も亡くなった、という略歴の要約で閉じる。そこで文学を論じる語りは、文章の途中で「ヽヽヽヽ」と点が並び、「(終)」となる。そのあとに「二葉亭が申します。此稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません。」と断り書きが付く。
語り手の手記が途中で切れた体裁にして、作者が編者として顔を出す仕掛けだ。冒頭の自虐を引き取る遊びとしては洒落ている。だが、前半で「家族への感謝」という感情の核を作りながら、最後は文学論で止まるので、読後に残る重心がずれる。意図的な断絶と読むにしても、最後に置く声は父母のことであってほしかった。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 幼少期の犬との暮らしを書いた章だけでも読みたい人。第十二章から第十九章までを独立した短編のように読んでも成立する
- 明治の言文一致を、語りの芸として味わいたい人。口語の呼吸と自嘲のリズムは見事
- 主人公の駄目さを笑い、同時に自分の過去を重ねてしまう人
読む順番としては、第一章と第二章で語りの調子と「牛の涎」の宣言をつかみ、第十二章からポチの章に入り、その後は東京編を急がず、気になる章だけ拾い読みしても差し支えない。全体を通して読むときは、前半の犬と家族、後半の文学と放蕩を、同じ人間の二つの顔として見ると、語り手の言う「矛盾」の意味がつかみやすくなる。
逆に、筋の起伏やロマンスの盛り上がりを求める人、近代小説をはじめて読む人には、読み通すのはやや骨が折れる。まず二葉亭の代表作を「浮雲」の感想で確かめてから、語りの成熟と自虐を見る一冊としてこの「平凡」に進むと、比べて読める。


