出家とその弟子 感想ネタバレ|泣ける名作か、説教臭い戯曲か

結論:終幕の臨終場面は文句なしの名場面。ただし、そこへ辿り着くまでの「説教の量」は覚悟が要る

倉田百三「出家とその弟子」は、親鸞が弟子の唯円や息子の善鸞と向き合う六幕の戯曲だ。読み終えて残るのは、物語の面白さよりも、登場人物が口にする言葉の強さのほうである。青空文庫で約12万7千字、舞台の筋は意外に少なく、親鸞が長台詞で語る場面が何度も続く。

劇的な展開を求める人には、はっきり退屈な作品だ。一方で、「善人も悪人もない、人間はみな不完全なまま救われている」という一点を、これほど執拗に、しかも最後の臨終の場で逆転的に突きつけてくる日本の戯曲は多くない。名作だが、読者を選ぶ。劇薬ではなく、むしろ薬湯のようにじわじわ効く作品で、効き目が出るのは第六幕の終わりである。

最小限のあらすじ

序曲は、地上を歩く「人間」と顔を蔽った「死ぬるもの」の対話で始まる。本編は、猟師の日野左衛門の家に、雪の夜、旅の僧・親鸞たちが宿を乞う場面から動き出す。左衛門は僧を嫌って親鸞を打つが、その家の幼い息子・松若が後に出家して唯円になる。年月がたち、唯円は遊女かえでと恋に落ち、親鸞は勘気を受けた実の息子・善鸞と会うべきかどうか苦しむ。唯円の恋の苦しみ、善鸞の放縦と孤独、そして親鸞自身の老いが、物語の軸になる。

※ここから結末に触れます。

「出家とその弟子」の魅力と名言の読みどころ:親鸞が弱さを隠さない独自の深掘り

序曲の「皆悪人じゃ。罪の価は死じゃ。」が、全編の前提を先に置いている

序曲で、顔を蔽った者は人間にこう言い切る。「皆悪人じゃ。罪の価は死じゃ。」人間が確かなものだと信じた征服欲、友情、恋、学問を、彼は次々に壊していく。人間が最後にすがる「子供」も、煙突から落ちた事故で奪われる。ここで提示されるのは、人間は何を積み上げても壊れるという前提だ。

この序曲が巧いのは、本編を読む前に読者の足場をいったん崩しておくことだ。本編の親鸞が語る念仏の教えは、教義の説明として始まるのではなく、「壊れないものはあるのか」という序曲の問いへの答えとして読めるようになる。構成として、冒頭の数ページで作品全体の問題を設定した手際は確かだと思う。

「悪人しかしない」と言い返す親鸞:第一幕の宿の場面が一番劇として強い

全編で最も劇的なのは、実は第一幕である。左衛門は僧を嫌い、「わしは悪い事しかしませんでな」と親鸞に絡む。親鸞はそれに怒らず、「いいえ。悪い事しかしないのは私の事でございます」と返す。さらに、左衛門が自分を悪人と知っていると言うと、親鸞は「あなたはよいところに気がついておられます。私とよく似た気持ちを持っていられます」と受ける。

この場面の強さは、善人の側が高みから悪人を諭すのではなく、いきなり同じ場所に降りてくるところにある。しかも、杖で打たれたあとで「私はむしろあの人は純な人だと思っていますのじゃ」と言うので、教えが言葉だけでなく行動として見える。宗教書として読むより、この一場面で十分に戯曲として成立している。ここを読んで合わないと感じたなら、先へ進んでも評価は変わらないだろう。

「救いには一切の証はありませんぞ」:法悦を誇る知応との対比が教えを立体にする

中盤、弟子の知応は「法悦は救いの証拠」と説教する。それを聞いた唯円は、法悦が湧かない自分は救われていないのかと不安になる。ここで親鸞は、自分も病気のときは死を恐れ、煩悩に催され、法悦はすぐ灰のように散ると打ち明ける。そして言う。「救いには一切の証はありませんぞ。」

この対比がうまいのは、親鸞の教えを「正解」として一方的に与えず、知応という別の立場の弟子を置いて衝突させている点だ。親鸞は知応を間違いとは言わず、「法悦の相続できる人は恵まれた人だ」と祝福した上で、証を求めること自体を一種の自力だと退ける。若い唯円の不安が出発点なので、観念的な議論に生活感が出る。

序曲の煙突と、臨終の屋根:死の描写が終幕で反復される

序曲で人間の子は、友人に頼まれて煙突に登り、腐った釘で落ちて死ぬ。終幕の親鸞は、弟子たちへの最後の説教で、さまざまな死に方を挙げる。その中に、さっきまで冗談を言いながら働いていた大工が、足を踏みはずして屋根から落ちて死ぬ、という例がある。序曲の煙突の死と明らかに響き合う。

序曲では死は一方的な「刑罰」として人間を打ちのめした。終幕では、同じ偶然の死が、それでも仏は救うという話の中に置き直される。六幕を通して、死の意味が反転する仕掛けになっていて、これは説教の量を引き換えにしても読む価値がある構成だと思う。

善鸞に最後まで「信じる」と言わせない:終幕の結末の意味

最大の山場は、臨終の場面だ。親鸞は、勘気を解いて呼び寄せた善鸞に、「お前は仏様を信じるか」「信じると言ってくれ」と迫る。ところが善鸞は、「わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません」と伏してしまう。勝信(かえで)が事前に「信じるといってください」と頼んでいた、まさにその場面である。

ここで善鸞が嘘でも信じると言えば、感動的な和解の場面になっただろう。しかし倉田は言わせない。親鸞は目を閉じて苦悶し、それから「それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ」と言って息を引き取る。信じられない者を、信じられないまま、救いに含めてしまう結末である。教えの内容として一貫しているだけでなく、劇としても、観客の期待をあえて裏切る選択として強い。これがこの戯曲の一番の独自性だと思う。

「出家とその弟子」の欠点・違和感:読みにくさと「説教劇」の限界を忖度なしで言う

登場人物が全員、作者の代弁者になっていく:台詞が長すぎる問題

辛口で言うなら、第二幕以降、台詞が圧倒的に長い。親鸞の念仏の説明は、遠方から来た同行衆への答えにしても、一度の発言が一つの講話になる。たとえば同行衆に「念仏して浄土に生まれる証拠があるのか」と問われた場面では、弥陀の本願から釈尊、善導、法然へと理屈を連ねていく長い論法で答える。内容は立派だが、舞台で上演するとなると、その間ほかの人物はほぼ聞き役に回る。

戯曲としての弱点は、聞き役の人物がそれぞれ別々の人格を持った他者として立ち上がりにくいことだ。同行衆が六人出てきても「同行一」から「同行六」の番号付きで、感想が親鸞を持ち上げる方向で揃っている。反論や拒絶が出る場面は少ない。第一幕の左衛門が強烈だっただけに、そこから先の対話の相手が、親鸞の教えを受け止める器になってしまうのは惜しい。

同じ結論の繰り返し:「みんな助かっているのじゃ」が何度も出てくる

親鸞の核心的な言葉は、中盤で「みんな助かっているのじゃ。ただそれに気がつかぬのじゃ」と語られ、終幕でも「みな助かっているのじゃ」と再び語られる。これは意図された反復だろう。ただ、その間に挟まる幕の多くが、同じ結論に別の角度から近づいていく構造なので、読者は結論の予測がついてしまう。

とくに第五幕の、弟子たちが唯円を責める場面では、親鸞が「皆ゆるして仲よく暮らす」ことを説き、僧たちが次々に折れて「やはり私が間違っていました」「私もゆるします」と言う。あまりに素直に納得するので、対立が劇として深まらない。理屈は通っていても、人間が簡単には変われない現実感が薄い。ここは、説得で全員が解決する展開が早すぎて、ご都合主義に見える。

遊女の世界の描き方が型どおり:村萩とおかあさんの悪役ぶり

第四幕第二場の遊女屋の場面は、かえでの苦しみを見せるための場として必要なのはわかる。だが、同じ店の村萩は皮肉を並べる意地悪な朋輩、「おかあさん」は煙管でかえでを打つ権力者という、役割が割り当てられた人物にとどまっている。かえでの話では、おかあさんは唯円を台所の魚をくわえて逃げる泥棒猫にたとえたという。その罵倒も、罵倒の言葉として強い一方、人物としての動機は見えない。

かえで自身も、「あのかたは鳩のように純潔な優しいかたです」と言うほど、唯円を理想化した恋に染まっている。浅香との姉妹のような関係は丁寧で、ここは良い。ただ、恋の相手の唯円がやつれて苦しむ側であることを思うと、遊女の立場の現実を作品が掘り下げたのは、あくまで唯円の苦悩を際立たせるためまでに見える。倫理を説く戯曲なのに、遊女の「その後」への関心が薄いと感じた。

善鸞が語られる人物にとどまる:「報告」で進む劇の弱さ

善鸞は物語の重要人物でありながら、中盤では唯円の報告の中で語られる場面が多い。木屋町で遊女や太鼓持ちと酒を飲んでいた、父に会いたがっている、念仏を信じられないと泣いた、といった話は、すべて唯円の口を通して聞かされる。善鸞の側の人物像を、舞台上の行動で見せる場面が少ない。

その分、終幕で善鸞が親鸞の枕元に立つ場面の衝撃は大きい。ただ、それは前半の溜めが利いているという面と、一人の登場人物を最後まで舞台から遠ざけたまま扱っているという面の両方がある。親鸞が「会えない」と苦しむ第三幕の論理も、「周囲の人々の平和が乱れるでな」と言いながら、実際は自分の愛情が偏ることへの恐れだと告白するまで、読者にはやや回りくどい。

十五年を飛ばす第六幕:二人が結ばれた過程が舞台上では見えない

第五幕では、親鸞が唯円に「誓ってはならない」「縁あらば二人を結びたまえと祈れ」と教える。そのあと第六幕は十五年後に飛び、唯円には二人の娘がいて、かえでは勝信という名で髪を切った姿で登場する。祈りが通じたということなのだろう。ただ、どう結ばれたのか、何を乗り越えたのかは、少なくとも第五幕から第六幕の間では描かれない。

親鸞が「恋は成るとも成らぬとも決まらぬ」と諭した直後に結果だけを見せるのは、教えの正しさを証明する都合のよい運びにも見える。祈りの結果を余白に置く狙いは理解できるが、読者としては、あれほど丁寧に苦しみを描いた二人の「その後」に答え合わせが欲しかった。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、物語の筋ではなく「人間は悪いままで救われるのか」という問いそのものに付き合える人だ。歎異抄に興味がある人、宗教や倫理の問題を文学で読みたい人にはとくに合う。逆に、事件や展開で引っ張られる小説を好む人、長い台詞に集中力が続かない人は、中盤で止まる可能性が高い。

読み方のコツは二つある。第一幕と序曲、それから第六幕の終わりだけを先に読み、作品の入口と出口を確かめてから中盤に戻ることだ。それだけでも、この戯曲が何を言いたいのかはかなり掴める。もう一つは、中盤の長い台詞を一語ずつ理解しようとせず、「誰が誰に何を問われているのか」だけを追って読み流すこと。親鸞の言葉は反復が多いので、読み飛ばしても迷子にならない。

初出は雑誌「生命の川」の第一巻第二号から第二巻第二号(1916年11月16日~1917年3月5日)で、青空文庫の注記によれば掲載は第四幕第一場までだ。単行本は1917年6月10日に岩波書店から出ている。完成された全体は単行本で読むものだと考えて、最終幕まで通して読んでほしい。