結論:会話の芸は一級品。ただし、物語の核心を「人づての説明」で済ませる小説だ
久保田万太郎「春泥」は、新派の役者たちの愚痴、軽口、嫌味をそのまま聞かせる会話の芸で読ませる長編だ。青空文庫版で約8万字、舞台の裏で飯を食う人間の呼吸はここまで書けるのかと驚く。一方で、物語の中心にある若宮柳絮の死の理由は、現場を見せずに登場人物の口から説明される。ミステリーとして読むと、この説明の渡し方に肩透かしを食う。
新派や歌舞伎の周辺に興味がある人、台詞の応酬を味わうのが好きな人には良い作品だ。事件の謎解きや、感情を揺さぶる劇的な場面を期待する人には、かなり地味で、人を選ぶ。
最小限のあらすじ
舞台は関東大震災から数年後の師走の東京。新派の役者・田代は、同じ「由良一座」の小倉、三浦と向島を歩き、震災で焼け落ちた町や、焼死した仲間の吾妻のことを語り合う。会社と一座の縁が切れるらしいという噂が流れるなか、女形の若宮を担いだ新しい一座の話が新聞に出て、三人の名前も勝手に載っていた。師匠への義理と、自分の先行きの間で、田代たちは揺れる。
「春泥」の読みどころは?向島の会話劇が描く、新派の黄昏
冒頭の向島の散歩が、そのまま小説全体の設計図になっている
冒頭、渡しを上がった三人は、通りがかった女を巡って「チビ三郎の内儀さん」だの「役者のかゝァ」だのと、遠慮のない口をきく。三浦が毒を吐き、小倉は句をひねり、田代が割って入る。この三人の役割分担が最初の数ページで固まり、以後ずっと崩れない。向島の土手、牛島神社の跡、長命寺、百花園と、震災で変わった景色を歩きながら、会話の内容は少しずつ「一座はこれからどうなるのか」へ寄っていく。景色と不安が同じ速度で重くなる作りで、冒頭の一章ぶんだけでも、この作家の腕が分かる。
とくに巧いのは、田代が百花園のあずまやで漏らす一言だ。「そんなような、心細い、なさけない気になったんだ。」と、自分でも原因が分からない不安だけを口にさせる。事態の説明をせず、気分だけを置いて章を閉じる。この引き際の上手さは、後の章でも何度も出てくる。
震災の傷跡の描き方も抑制が効いている。吾妻の死を巡って三浦は「その水が燃えたんだ。――たのみにおもうその水まで燃えてながれたんだ。」と言う。悲惨さを形容詞で飾らず、ぶっきらぼうな江戸弁の事実だけで、川へ飛び込んだ者が助からなかった光景を想像させる。語り手が泣かないぶん、読者のほうが先に沈む。この書き方は、会話劇の長所がもっとも直接に出た部分だと思う。
三羽烏と西巻の章:同じ一座の中の「温度差」が、人物を立たせる
「三羽烏」の章では、視点が兄弟子の西巻金平に移る。もとは魚屋の担ぎ売りで、芝居欲しさに盤台を川に投げ込んで役者になった男だ。他の三人が旅回りで苦労して由良の門を叩いたのに対し、西巻だけは三十年、師匠の影のように離れない。だから彼は、会社と手が切れるという話を真に受けない。同じ一座でも、育ちが違えば危機の感じ方が違う。この温度差が、後で効いてくる。
終盤近く、西巻は新聞の特別記事で、自分の知らないうちに一座の解散と若宮一座の旗揚げが書かれていると知る。そこで彼は「……が、だれがいなくなったって俺はいる。――俺だけはそばにいる。」と呟く。主人公格の田代ではなく、脇の老人にいちばん強い台詞を持たせている。人物の配置が上手いと感じるのは、こういう箇所だ。
劇場の話が、そのまま世の中の話になる「うたむら」の場面
日本橋の元芝居茶屋の主人「うたむら」と田代が、鮟鱇鍋を挟んで話す場面は、この小説の社会史的な白眉だ。茶屋も出方も不要にされ、遠州屋が事務所で女給に「どちらの遠州屋さんでいらっしゃいます?」と木戸を突かれる逸話は、笑える話なのに、読み終えると背筋が冷える。新派も女形も、同じ流れの先にいる。田代が酔って「新派というものはこのさきどうなりましょう?」と尋ねる必然性が、ここで一気に腑に落ちる。
※ここから結末に触れます。
若宮の自殺から墓参りまで:「あとから分かる」構造と、答えのない終わり
三人が「菊の家」で飲んでいる最中、男衆の吉沢が由良の呼び出しに来る。行ってみると、由良、筑紫、汐見が眼を伏せていて、由良は黙って一通の手紙を出す。信州の片田舎から届いた、若宮柳絮の書置だった。小倉と田代は汐見と一緒に上野から汽車に乗る。ここで「むほん」の章は終わる。
この切り方は大胆で、事件そのものをいきなり省略し、次の章「夕焼雲」では一か月が経っている。若宮の死が劇的に描かれないぶん、残された者たちの空虚さがそのまま読者に移る。ここは、この小説が最も志の高いところだと思う。
若宮の死が知らされる前、田代が自宅へ戻る場面も忘れがたい。四日ぶりに会う妻のために、仲見世で名所焼を買い、雪の夜道を円タクで急ぐ。出迎えた妻は歯が痛むのか片頬に江戸ざくらを貼り、結い日を過ぎた銀杏返しのほつれが下がっている。田代は理由を深く聞かず、いきなり肩を引きよせて抱きしめる。会社の話も師匠の話も出ないこの数行が、のちの空虚さの対照として働いている。派手な事件の前に、こういう私的な温度を置ける作家は少ない。
帰京した田代に、師匠の由良は言う。「いゝからまァ、飲め、たんとずッこけろ、若いうちはそのほうがいゝ。」酒を厳しく禁じてきた人が、である。若宮が田代の半分でも飲んでいれば、あんなことにはならなかったかもしれない、という後悔が背景にある。台詞一つで、師匠の変化と若宮への思いが同時に見える。
三十五日の墓参りを終えた三人は、由良と別れ、谷中の墓地から諏訪神社、道灌山へ歩く。眼下に広がる「新しい東京」の煙突の林を見ながら、小倉は句を考える。「淋しさやうかびて遠き春の雲」。物語は答えを出さず、三人は「菊の家」へ向かって終わる。事件の謎も、新派の行方も、解決せず、ただ日常が続く。この終わり方は、題材に合っていて誠実だ。
「春泥」の欠点は?若宮の動機が「三浦の推測」でしか語られない問題
最大の欠点:核心の説明が、会話の中で一気に流し込まれる
なぜ若宮は死んだのか。この疑問を、田代は終盤まで引きずる。そして道灌山へ向かう道で、三浦が「若宮のおやじやおふくろってものがどんなしだいだかってことをよ」と語り出す。育ての親は実の親ではなく、芳町の芸妓おそのとの仲を引き裂かれ、十一月の芝居で演じた悪い親兄弟に苦労する芸妓は若宮自身の話だった、と小倉が補う。
筋立てとしては面白い。しかし、これを三浦と小倉の会話で一気に流し込むのは、創作する側から見れば乱暴だ。それまで会話の呼吸で積み上げてきた小説が、最後だけ説明役に頼る。しかも、この説明が本当に正しいのか、作中で確かめる方法がない。若宮自身の言葉は、うたむらの主人の前で田代が語る「嫌でたまらない」という一言のような、他人が伝えたものが中心だ。核心だけが伝聞で、そこに作者の逃げを感じる。
人物の「口調の同質化」:誰が喋っているのか分からなくなる
三浦は「ずけりと」毒を吐き、田代は「戯談だろう」を繰り返す、というように、癖で人物を立てる手法は有効だ。だが長く読むと、この癖が単調になる。「ずけりと」「戯談だろう」「――」「……」が何十回も出てきて、台詞の中身より記号のほうが目に入る箇所がある。ダッシュと三点リーダの多用は文体の個性でもあるが、読書のリズムを何度も止める。
中だるみ:同じ構図の場面が反復される
向島、「うたむら」、「菊の家」、田代の家と、酒を飲んで噂を話す場面が連続する。その一つひとつは巧いが、「一座が危ない」「若宮一座の話がある」という情報の積み増しが少なく、同じ構図を繰り返している印象が強い。長編に必要な「次に何が起きるか」の牽引が弱い。会話の味を楽しめない人は、ここで脱落するだろう。
吾妻一郎の死が、設定としてしか使われない
冒頭で、震災で焼け死んだ吾妻の話が長く語られ、読者は「この物語は喪失の話だ」と思う。だが吾妻はその後、若宮の伯父として「囮」だったという設定の説明に回収され、感情的な核にはならない。冒頭に置いた重い話が、後半では背景に退く。もう少し若宮の死と響き合わせてほしかった。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 新派や歌舞伎など、明治から昭和初期の芝居の世界の空気を、物語を通して感じたい人
- 筋よりも、台詞のやり取りの呼吸や、人物の口癖の味を楽しむのが好きな人
- 謎が解けなくても、残された人間たちの空虚さを味わえる人
逆に、すっきり解決する物語や、感情を揺さぶる劇的な場面を求める人には向かない。まず冒頭の向島の一章を読み、会話のリズムが気持ちよく感じられるかどうかで、続きを読むか決めるのがよい。そこで合えば、「うたむら」の場面と、終盤の墓参りの章までは確実に楽しめる。
