結論:推理小説としては薄い。だが「探偵が負ける」一点で今も読まれる理由がある
ドイル「ボヘミアの醜聞」は、謎解きの面白さを期待して読むと肩透かしを食う短編だ。犯人も密室もなく、トリックと呼べるのは「火事だと思わせて隠し場所を吐かせる」一手だけ。それでも読み継がれているのは、ホームズが女性ひとりに出し抜かれて終わるからで、その一点の出来が作品全体を支えている。推理の快感より、人物の格を味わう一篇だ。
最小限のあらすじ
一八八八年三月、ワトソンが久しぶりにベイカー街を訪ねると、覆面の依頼人が現れる。正体はボヘミア王。結婚を控えた王は、かつて関係のあった女優アイリーン・アドラーとの二人きりの写真を握られており、これが婚約先に届けば破談になると訴える。ホームズは写真の奪還を引き受け、変装して彼女の家に乗り込む。
※ここから結末に触れます。
「ボヘミアの醜聞」の魅力:アイリーン・アドラーが『かの女』と呼ばれる理由
冒頭の一文が、結末の種明かしを先に済ませている
書き出しは「シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも『かの女』であった。」である。語り手ワトソンは続けて、ホームズが恋愛感情を持たない「精密機器」のような男だと念を押す。つまりこの短編は、読者に「その機械が一度だけ狂った話」だと最初に予告している。そして最後の一文で、ホームズが彼女の名を出すときは常に『かの女』という敬称を使う、と同じ言葉に戻って閉じる。始まりと終わりを同じ語で挟む構成は単純だが、短編として締まりが良い。
ホームズの勝ち筋を、わざと読者の前で一度成功させる
中盤の見せ場は、ブライオニ荘の前の乱闘だ。雇った群衆に喧嘩を起こさせ、手のひらに隠した紅で怪我人を装い、家に運び込ませ、ワトソンに発煙筒を投げ込ませる。ホームズ自身が種明かしで言う通り、「女性というものは、家が火事になれば、本能的に最も大切とするものへ駆け寄る」。心理の裏をつく計画としては実によくできている。ここで作者は、ホームズに一度完勝させている。だから後半で、その勝利が彼女の手のひらの上だったと分かったとき、敗北の落差が大きく効く。負けを描くために、まず勝たせておく順序が巧い。
手紙一通で「格」を逆転させる終盤の処理
アイリーンが残した手紙は、変装を見抜いた経緯を、女優として男装に慣れていたからだと淡々と明かす。ホームズの帰宅時に「おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん」と声をかけた細身の青年は彼女だった、と読者はここで気づく。第二章の終わりに置かれた、ホームズが「聞き覚えがある」と首をひねる場面が、きちんと伏線として回収される。派手さはないが、読者が一度は通り過ぎた一行を後から意味づける、小さな伏線回収として手際が良い。
王の態度が、ホームズの最後の一手を際立たせる
王は写真が戻らなかったと知っても、「その逆であるぞ」と上機嫌になり、報酬の指輪を差し出す。ホームズはそれを断り、アイリーンの写真だけを求める。依頼人の身分の高さに頭を下げず、握手の手にも見向きもしない。報酬より、負けを認めた相手の記念を選ぶホームズの去り際は、この短編でいちばん人物が立つ場面だ。
同じ作家の別の短編を読むなら、発想の突飛さを楽しむ「赤毛連盟」の感想、トリックの穴と傑作性を扱った「まだらのひも」の感想と読み比べると、本作が謎解きの作品ではないことがはっきりする。
忖度なしの欠点・違和感:ホームズは本当に「負けた」のか、推理が弱い理由
冒頭の演繹ショーが、本筋と何もつながっていない
ホームズはワトソンの靴の傷から女中の不器用さを、紙の透かしからボヘミア産の紙とドイツ人の書き手を言い当てる。「見てはいるが、観察していない。」「僕は十七段あると知っている。」という有名な台詞もここで出る。キャラクター紹介としては楽しい。ただ、この一連の推理は、依頼人が「ボヘミアの貴族」と名乗って現れる事実を先取りして見せるだけで、事件の解決には一度も使われない。写真の隠し場所を突き止めるのは、手紙の紙質ではなく、発煙筒の芝居である。看板に掲げた推理力が、肝心の事件では出番がない。
「隠し場所を吐かせる」一手だけで、中盤が持つのかという疑問
ホームズは、王が雇った者が二度も家捜しして失敗した家に、半日の下見でたどり着き、写真は自宅にあると断言する。根拠は「女性は元来秘密主義で、自分で隠すことを好む」という一般論だけだ。ここは推理というより、勘の裏付けに近い。さらに乱闘の舞台は、通行人から近衛兵、刃物研ぎ屋まで全員が雇われ役で、費用も人手もかけすぎている。うまくいったから爽快に読めるが、アイリーンが慌てて隠し場所へ走らなければ、全てが空振りに終わる計画だった。計画の成否が相手の反射的な行動ひとつに懸かっていて、探偵の頭脳が勝負した感触が薄い。
王とアイリーンの過去が、「醜聞」の重さを支えきれていない
題名の「醜聞」の中身は、五年前の写真と手紙だけだ。結婚の約束も法的な書類もなく、王自身が当時はほんの皇太子で、「若気の至りなのだ」と言う。ところが、その程度の過去で王室が揺らぐという説明は、王の口から語られるだけで、婚約先の家憲の厳しさも、王女の性格も具体的な場面としては出てこない。さらに王は結末で、彼女が自分の身分に釣り合っていれば良い妃になったと嘆くが、それなら最初から彼女を「鉄の心を持つ女」と恐れる必要があったのか、人物の扱いがぶれて見える。読者が危機を実感できないため、依頼の緊迫感が全体に薄くなっている。
ワトソンが、窓の外に立つだけの道具になっている
ワトソンは「何もしてはいけない」と言われ、合図で発煙筒を投げ、火事だと叫ぶだけの役に回る。本人が「ホームズに対する背信行為ではないか」と良心の痛みを語る一節はあるが、その葛藤は次の場面で何の結果も生まない。語り手に倫理的な揺れを一度持たせたのなら、アイリーンの手紙を読む場面で、その揺れを受け止める反応を見たかった。語り手の感情は、手紙の驚きにかき消されて終わる。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- ホームズものを初めて読み、最初の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』の入口として何から手に取るか迷っている人
- 探偵が圧倒的に勝つ話より、一度だけ思い通りにならない話が好きな人
- 謎解きの論理性より、変装や芝居のような作戦の面白さで読む人
反対に、緻密なトリックや意外な犯人を求める人には向かない。そういう読者は、先に「赤毛連盟」から入るほうが満足しやすい。本作は、ホームズの有能さに慣れた後で読むと、『かの女』の一言の重さがいっそう分かる。青空文庫の大久保ゆう訳なら無料で読め、分量も短編として短いので、一晩で読み切れる。


