三重吉「赤い鳥」感想ネタバレ|幻の恋は甘すぎるか

結論:恋の核は美しいが、そこへ着くまでが遠すぎる

鈴木三重吉「赤い鳥」は、童話雑誌「赤い鳥」の創刊者が書いた、同名の別物の小説だ。評価は「一夜の幻を描く最後の三分の一だけなら秀作、全体としては助走が長すぎる」。

顔も名も知らない女との一夜を、目に包帯を巻いた青年の側から描く発想は鋭い。だが、そこに至るまでの暴行事件、警察、入院、母と宿の主婦のやり取りが重く、童話の三重吉を期待して読むと肩透かしを食う。恋愛小説として読むより、「見えないこと」の小説として読むと評価が上がる作品だ。

最小限のあらすじ

病弱で頭痛持ちの青年・冷吉は、翻訳小説で読んだ、赤い鳥を逃がして男のもとへ走る女の場面を忘れられずにいる。祖父との折り合いが悪く、母にねだって海辺の宿へ出かけた三月、夜道で酔った男に提灯で目の上を打たれ、左目の視力を失いかける。入院した眼科病院で両目を包帯で覆われた冷吉は、隣の部屋から聞こえる鳥の声と、診察室で隣り合った女の声に心を寄せていく。

※ここから結末に触れます。

「赤い鳥」の結末の意味とは:見えないから成立する恋の構造

冒頭の翻訳小説と、病室の恋が二重になっている

書き出しは「冷吉は自分には考へる女がなかつたものだから、讀んだ物の中の、赤い鳥を遁がして出て行く女を、自分の女にして考へてゐた。」である。冷吉の恋の相手は、最初から現実の女ではなく、本の中の女だ。画家が壁画のマグダーレンに似た娘を愛し、娘は赤い鳥を籠から放して男に従う。この挿話が冒頭にある以上、後半で冷吉が隣室の女に赤い鳥を重ねるのは必然であり、読者は先が読める。ただ、この「読める」ことが欠点にならないのは、作者が先を隠す気をはじめから持たず、重ね合わせそのものを主題にしているからだ。

冷吉は、診察室で袂を踏んだ女の「落ついた品位のある言葉」だけで、勝手にその女を赤い鳥の持ち主に仕立てる。小女に尋ねて鳥は赤くないと分かると、その女ではないと見切りをつけ、小女を「馬鹿な女である」と切り捨てる。恋の根拠が鳥の色だけで、現実の女を見ていないことが、この一場面でよく出ている。

バルコニーの夜は、視覚を奪ったことで書けた場面

最大の見せ場は、冷吉が手探りでバルコニーに出る夜だ。「あなたそこは危うございますからお止しなさいまし。」と隣から声がかかる。それが、あの診察室の女の声だった。女は椅子を勧め、「私は?」「ほゝゝ御存じ?」と、顔を知らないことをからかうように問いかける。目が見えないという条件が、年上の女の優位と、少年のような冷吉の怯えを、そのまま会話の温度に変えている。

そして女が「私の鳥?」と聞き返したところで、場面は切れる。次の段落はもう冷吉が自室で寝直す場面で、部屋の中で何があったのかは一行も書かれない。この省略は大胆で、ここが作品でいちばん巧い。書かないことで、翌朝の冷吉の「赤い/\花の咲きつゞいた甘い日向の中に漬つたやうな氣分」が、読者の側の想像と釣り合う。

視覚を封じた分、声と気配が文章の主役になる

包帯で両目を覆われた冷吉にとって、世界は音と手触りだけで届く。隣室の鳥の声、診察室で聞いた女の言葉、廊下の足音。作者はこれらを説明せず、冷吉が聞き取ったものとして並べていく。ここで効いているのが、語りの距離の近さだ。地の文が冷吉の耳から離れないので、読者も同じように「見えないまま」想像を膨らませる側に回される。

この設計は、後の省略とも噛み合っている。見えない人物の視点で書く以上、部屋の中で起きたことを語り手が知る手段は限られる。省略は技巧であると同時に、視点を守った結果として必然的に生まれたものだ。創作をする立場から見ると、視点の制約をそのまま見せ場の仕掛けに転用しているのが上手い。逆に言えば、前半の事件の場面で視点がやや外に広がるのが惜しい。後半ほど徹底していないため、全体の文体の統一感は落ちる。

空になった隣室と、鳥の比喩が反転する仕掛け

翌日、母から隣が空いたと聞かされ、女は去っている。冷吉の思いは「たつた一日飼つてゐたばかりの鳥が、いつの間にか遁げて了つたやうなものである。」と言い換えられる。冒頭では女が鳥を逃がしたが、ここでは冷吉自身が、飼っていたつもりの鳥に逃げられる側になる。逃がす側から逃げられる側へ立場が入れ替わる構図は、作者の設計の確かさを示している。

終盤の「赤い鳥を飼つてゐたい」という願いも同じ線上にある。退院の日、冷吉は「自分がもう目が暗くないのが拙らない。もう一度暗い目になりたい。」と考える。ここで恋は、女そのものから、暗い目で女を思い続ける自分の状態へすり替わる。恋の対象が実在の人間から、記憶と想像の中の像へ移っていく過程が、物語の本当の結末である。

三重吉の別の短編と並べると違いが際立つ。「千鳥」は片袖という形のある物に思いを預けたが、こちらは形のある物が最後まで手に入らない。「桑の実」の宙ぶらりんの終わり方と比べても、本作は宙ぶらりんであることを主題にした分、納得感は高い。

「赤い鳥」の欠点・違和感:読みにくさと冷吉という語り手の甘さ

本題に入るまでが長く、事件の描写が恋の主題と噛み合わない

冷吉が提灯で打たれるまでの前半は、宿屋、あいまい屋の女たち、酔った男とのやり取りと、描写が細かい。ところが、後半の恋に直接つながるのは「目が見えなくなる」という一点だけだ。警察の取り調べ、示談を持ちかける加害者の使い、宿の亭主の動きといった挿話は、現実感を出すという以上の働きをしていない。加害者が訪ねてきても母がろくに見もせず追い返して、事件は恋に何の影響も与えない。伏線ではなく、放置された枝になっている。構成として、ここは削れたはずだ。

母と宿の主婦の長い会話が、場面の速度を殺している

入院直後の、母と主婦が粥やミルクや砂糖の話をする場面は、生活の質感としては本物だが、冷吉は「蒲團を被つてゐた」だけで、場面の中心にいない。主役が聞き役に回ったまま会話が続くので、読む側の集中が切れる。母の「みんなお前さんが自分で招いた事だ」という叱責は人物としては生きているが、同じ型の嘆きが何度も繰り返され、その分だけ中だるみする。

冷吉の偏見が最後まで検証されない

冷吉は、付き添いの小女を「薄汚い田舎の女」と決めつけ、顔も見ないまま行儀も知らない下品な子だと思い込む。一度は追い返したことを悔やむが、それも「貧乏人の女だから」情けなかろうという同情の域を出ない。作者がこれを語り手の未熟さとして書いているのかは判断が難しい。もし意図的なら、結末で冷吉が少しでも変わらないことに説明がほしい。変わらないまま「暗い目になりたい」と言い出す終わり方は、病を美化する甘さを帯びている。

バルコニーの場面が「できすぎ」に見える問題

弱点をもう一つ挙げるなら、肝心の再会があまりに都合よく用意されている点だ。診察室で袂を踏んだだけの女が、偶然にも隣室の客で、しかも夜に同じバルコニーへ出てくる。冷吉が手探りで出る時刻に、女がちょうどそこにいる必然性は書かれていない。偶然を重ねて恋を成立させるのは、短い小説ではよくある手だが、前半で現実の細部をこれだけ積んだ作品だと、ご都合主義が余計に目立つ。幻のような一夜を狙うなら、前半の写実はもっと絞り、後半と同じ夢の質感に寄せたほうが、この偶然も自然に飲み込めたはずだ。

左目の行方が曖昧なまま終わる

院長は「どうも不思議」「もう少しじつと經過を見ないと」と言うだけで、左目がどうなったかは最後まで示されない。恋の余韻に比重を置いた結果だろうが、物語の発端が負傷である以上、読者としては、重い傷の結末に触れずに終わるのは座りが悪い。右目が回復した時、冷吉が「物足りないのは同じである」と感じる描写が唯一の答えだが、これは身体の回復を主題から外す選択にすぎない。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、筋の起伏より、一つの感覚の状態を丁寧に追う小説が好きな人だ。見えないことで強まる声や気配の描写、省略で恋を成立させる手並みを味わえる。三重吉を童話作家としてしか知らない人が、別の顔を見る一冊としても価値がある。

「赤い鳥」という題から童話的な甘さや、明るい愛らしさを想像した人は、期待を一度捨てたほうがいい。読後に残るのは甘さよりも、手に入らなかったものを抱え続ける人の、少し自己陶酔じみた切なさだ。そこを「美しい」と取るか「身勝手」と取るかで、評価は大きく割れる。読み終えたあと、冷吉の願いを自分なら肯定できるかを考えてみると、この小説の読みどころがはっきりする。

逆に、事件から恋へ一直線に進む構成を求める人、旧字旧仮名の長い文を読むのが苦手な人には、前半が苦行になる。青空文庫の本文は旧字旧仮名で、約3.6万字ある。読むなら、病院に入る場面から始め、バルコニーの夜と翌朝だけ先に読んでから、気に入れば前に戻る読み方を勧める。末尾に「明治四十四年三月」と記された、ごく初期の三重吉を知る資料としても、読む価値はある。