三重吉「桑の実」感想ネタバレ|宙ぶらりんの結末が惜しい

結論:恋の一歩手前だけで読ませる腕は本物。ただし事件は起きず、終わり方は読者に丸投げだ

鈴木三重吉の「桑の実」は、小間使いの娘と子持ちの洋画家が、同じ家で暮らすうちに少しずつ近づく様子を、約9万字かけて書いた新聞小説だ。台所と庭の細部だけで人の心の揺れを見せる技術は一級品で、とくに前半から中盤は読ませる。

一方で、事件らしい事件はほぼ起きない。雨の日と食事の場面が延々と続くため、筋の運びを期待する読者には劇薬というより、むしろ睡眠薬に近い。傑作と呼ぶには、構成の詰めが甘い。

最小限のあらすじ

身寄りのない娘おくみは、亡き洋画家の未亡人・平河さんが営むカッフェーに身を寄せ、次の奉公先が決まらずにいた。そこへ、平河さんの亡き夫が世話をした、フランス帰りの洋画家・青木さんの家で、婆やが辞めるまでの手伝いを頼まれる。青木さんは別居中の妻を実家に残し、四歳の久男と弟の洗吉との三人暮らし。十日ほどのはずの手伝いは、いつしか二月ばかりに延びていく。

「桑の実」の場面の意味と、おくみ視点の語りを解剖する

桑の実を手渡す場面は、何の象徴なのか

題名になった桑の実の場面は、中盤、十三章にかけてのくだりにある。庭の手入れをしていたおくみを、青木さんが生垣の外から呼ぶ。生垣の向こうに生えた桑の木から取った実を、変なところから手の平に覆って差し出すのだ。おくみは黒く熟した実を両手に受け、汁で指先を薄紫に染める。

この場面がうまいのは、愛の告白でも何でもないのに、二人の体の距離だけが急に近づく点だ。家の者が誰も入らない生垣の裏の草むらに青木さんが分け入り、頭に蜘蛛の巣をつけて戻る。ここは「家の外へ一歩はみ出す」動作そのもので、男が娘に近づく合図として読める。

さらに二階で二人きりで実を食べると、青木さんは赤いほうを口にして「酢つぱかつた」と言う。熟した黒い実は甘く、未熟な赤い実は酸っぱい。これは私の読みだが、まだ熟れていない二人の関係を、実の色が代弁しているのだろう。ここで青木さんは、自分から言葉にしてしまう。

「おくみさんはずつとこの儘私の家にゐてくれないかなあ。」

続けて「ね、お嫁に行くまでこゝにゐて下さいよ。」と言い添える。「嫁に」と言いながら、その相手が自分だとは決して言わない。この寸止めの言い回しが、この小説の呼吸を決めている。

おくみの目に寄り添う語りと、過剰な敬語が生む距離感

地の文は、おくみの目と耳に寄り添って進む。青木さんの動作はほぼすべて「仰る」「お出でになる」「お附けになる」と、おくみから見た敬語で書かれる。読んでいくと、敬語のせいで青木さんが少し手の届かない人に見え、そのせいで彼の何気ない一言が大きく響く。

たとえば、庭先で青木さんが「おくみさん、背中に糸が附いてるよ。」と言う場面だ。取ってやろうと言われて、おくみは顔を赤らめる。これだけで、敬語の壁にひびが入った瞬間だと分かる。敬語という文体そのものを、距離の物差しに使っている点は、書き手として素直に感心する。

もう一つの見せ場は、おくみが久男に語りかける場面だ。夜、泣き出した幼子を負ぶって門口に出て、街灯の下の影法師を指して「長い/\影法師」と言い聞かせる。大人の恋とは別の、母のいない子と身寄りのない娘が寄り添う場面で、ここに三重吉らしい、子どもに向けた語りの優しさがある。

家事の細部と風景描写だけで「恋愛を書かない恋愛」を成立させる設計

この小説の恋は、台詞では進まない。進むのは、青木さんの不断着の縫い直し、山羊の乳、豚肉のシチュー、来客のための小鰺の三杯酢といった、手仕事の積み重ねだ。婆やに目上の人のように扱われて、おくみがもじもじと困る場面など、生活の細部が彼女の性格をそのまま描く。

青木さんが「何だか暗いところから日向の中へ出たやうに。」と言う台詞も、物語の要になる。彼にとっておくみは恋人というより、荒れた生活に差し込んだ光に近い。家事の人としての彼女と、女性としての彼女が、読んでいて重なったり離れたりする。ここが一番の読みどころだ。

派手な伏線のない小説だが、風景の置き方には一貫した設計がある。冒頭、深夜のカッフェーの戸を開けたおくみは、外の暗がりを見上げる。

「頭の上には、たつた一つ黒く消えかけた星が、小さい詛ひのやうに瞬いてゐる。」

身寄りのない自分の先行きを、「詛ひ」のような星に重ねた一文だ。十五章の夜、おくみは眠った久男を背負って門口に立ち、青木さんの靴音を待つ。そのとき空には「それかなきかに小さい星が微に流れた」。同じ夜空の星でも、冒頭は不吉に瞬き、ここでは流れて消える。おくみの心が、境遇への恨みから、誰かを待つ気持ちに変わったことを、台詞でなく空の描き方だけで見せている。この静かな呼応は、読み返したときに初めて効いてくる。

※ここから結末に触れます。

結末の帯と蒲団:恋の代わりに手仕事で終わる最後の一文

おかみさんが探してきた新しい婆やが決まり、おくみは平河さんのところへ戻ることになる。青木さんは、もっとおくみを借りたいとおかみさんに頼んだが、聞き入れられなかった。庭先では「僕はおくみさんが行つてしまふのは何だか厭だね。」と、ごく淡々と言う。

この小説は二十六章で終わり、おくみが去るのか残るのかは本文で決まらない。ただし、最後の一文は見事だ。

「おくみはそれとは言はないで、今日の帯を表にするお蒲団の、裏と綿とを買ひに行くのであつた。」

自分の帯をほどいて、青木さんの夏蒲団に仕立てる。しかも本人には何も言わない。想いを口にしない女が、手仕事で気持ちを残していく。この結びだけを取り出せば、美しい。

忖度なしの欠点:中だるみ、動かない物語、そして結末の「宙ぶらりん」

桑の実は退屈か?事件のない約9万字の中だるみ

率直に言えば、後半は長い。十七章あたりから梅雨の場面が続き、バケツで雨漏りを受け、山羊の餌を洗い、蚊帳を吊る。二十一章では来客の昼食の支度と食卓の会話が、ほぼ一章を占める。生活の細部を積み上げる手法自体は悪くないが、同じ種類の場面が続くと、読者は「また家事か」と感じてしまう。

家事が積み上がるのに、物語の上の前進はほとんどない。おくみがこの家にいる理由も、出ていく理由も、章が進んでも新しくならない。新聞連載の一日分として読むなら心地よいが、通して読むと、同じ位置で足踏みをしている印象が残る。

惜しいのは、変化をつけられる場面が実際にあることだ。二十一章の来客は、青木さんとフランスで自炊をした画家仲間の秋本さんで、二人は昔話に興じる。食べ物を買い忘れた話や、運河べりでかたつむりを集めて「夕方の御馳走」にしようとした話は、おくみの前では見せない青木さんの屈託のない顔を覗かせて、愉快だ。ところが、この顔は後の章にほとんど響かない。せっかく別の面を見せた人物が、翌章からはまた寂しげな画家に戻ってしまう。

青木さんの造形の甘さと、舞台裏に隠れたままの妻

青木さんは「優しいが頼りない画家」で、造形が最後まで動かない。初めて顔を合わせた日に「どうして子供なんてものが生れるのかな。余計な事だと思ふんだけど。」と言い、後には「久男さへゐなければいつそ一人でどこかへ下宿でもするんだけどね。」とまで言う。親としての冷たさは、はっきり書かれている。だが、その冷たさがどこから来るのか、変わっていくのかは掘られず、「寂しい人」というやわらかな像に溶けてしまう。

別居中の妻の扱いも弱い。彼女はヒステリーのようになって実家に帰っているという伝聞だけで、本人は一度も登場しない。青木さんは「でも細君なんていゝ加減なものだからね。」と軽く流す。ここで結婚が決着していないことが、おくみとの関係の最大の障害のはずなのに、物語がそこを掘り下げないため、二人の将来にかかる重みが伝わらない。

敬語の過密と、繰り返される「身の上の頼りなさ」の内省

敬語の距離感は利点だが、過密になると読み疲れる。「仰る」「お出でになる」が一頁に何度も並び、会話文の意味より先に敬語の形が目に入る。

おくみの内面も、似た考えを何度も回る。身寄りがないこと、継母の便りが絶えたこと、どこにも帰る家がないこと。これらは序盤の数頁と中盤の夜の場面で、ほぼ同じ形で繰り返される。確かに切実な悩みだが、深まらずに反復されると、読者は「これは前にも読んだ」と感じる。もう一歩、状況を動かす出来事が欲しかった。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向くのは、事件より空気を読む人だ。台所の湯気や雨音、庭の桑の実の色で、人の気持ちを察していく小説が好きな読者には、強くすすめられる。恋の告白がないまま、距離だけが縮まっていく時間そのものを味わえる人に向く。

反対に、起承転結のある筋を求める人や、結末できっちり決着をつけてほしい人には、この小説は向かない。青空文庫の版は二十六章で終わるので、おくみの行く先を知りたいという期待は満たされない。

同じ作者の作品なら、片袖の結末を描いた「千鳥」の感想も書いた。三重吉「千鳥」感想ネタバレ|片袖の結末は美しいが身勝手と読み比べると、三重吉の書き方の幅が見えてくる。通読が重いなら、まず桑の実の場面とおくみが久男をあやす夜の場面、そして最後の一文だけを拾い読みしても、この小説の核心は掴める。