「カインの末裔」感想ネタバレ|仁右衛門の放火と結末は救いか

結論:文章の暴力は一級品。ただし、読者を主人公に寄り添わせる気は作者にない

有島武郎「カインの末裔」は、北海道の小作農・広岡仁右衛門を、同情も説教もなしに追い詰め切る中編だ。自然描写の圧力と、方言の会話が持つ生々しさは、大正期の小説の中でも抜けている。一方で、事件の一つが回収されないまま放り出され、地主と小作の対立も図式的に見える。読んで楽しい本ではないが、「貧しさは人を善良にしない」という事実を突きつけられたい人には、劇薬として効く。

最小限のあらすじ

晩秋、痩せ馬を引き、赤ん坊を背負った妻を連れた仁右衛門が、胆振の松川農場に流れ着き、小作人になる。一年目の春は馬と道具を買い揃えて意気込むが、長雨と不作、賭博、周囲との衝突が重なり、赤ん坊を亡くし、馬も失う。農場の誰からも孤立した彼は、小作料を一文も払わないまま冬を迎える。

※ここから結末に触れます。

「カインの末裔」の仁右衛門はなぜ嫌われ者なのか:人物造形を解剖する

「彼れ」から「仁右衛門」へ:名前を遅らせた語りの仕掛け

冒頭の第一節、主人公は最後まで「彼れ」と呼ばれる。名前が出るのは、事務所で契約書に判を押す場面だ。作者はここで、わざわざ括弧書きの断りを入れる。「仁右衛門(これから彼れという代りに仁右衛門と呼ぼう)」。名前を持たない流れ者が、書類に判を押した瞬間に「松川農場の小作人」という枠に組み込まれる。名前が与えられる瞬間と、支配される瞬間を重ねたこの処理は、短いが効いている。

この人物の核は、一文で説明されている。「人間の顔――殊にどこか自分より上手な人間の顔を見ると彼れの心はすぐ不貞腐れるのだった。」暴力的な男の根にあるのは怒りより先に、劣等感と怯えだ。大男が人の気配に身づくろいをし、その自意識にまた腹を立てる冒頭の描写から、この矛盾はすでに仕込まれている。

「まだか」という諢名と、笑う仁右衛門の気味悪さ

背が高すぎて、顔を見上げてもまだ上にあるから「まだか」。この諢名は恐怖と滑稽さを同時に運ぶ、うまい仕掛けだ。そして仁右衛門は、恐ろしいだけの男ではない。馬車追いの溜まり場では「一はたりはたらずに」と無邪気に笑って博打を始め、居酒屋では女の膝で「大きな愚かな子供」になる。ただ、その笑いが人を引き寄せる力を持っているからこそ、後の暴力が不気味になる。善悪のどちらにも収まらない点が、この人物をただの悪役にしていない。

小作契約と天理教:悪を一人に背負わせない構造

小作料は一反歩二円二十銭、豊作でも割増しはしないが凶作でも割引はしない。帳場が読み上げる契約条項は、農民を締め上げる仕組みとして具体的に並べられる。それでも小作人たちは、赤痢で死にかけた赤ん坊に、笠井が紙片を丸めて水に浸したものを飲ませるような、天理教の呪いに頼る。仁右衛門はそれを一瞬は「有難い」と思い、後に「笠井の四国猿めが、嬰子事殺しただ。殺しただあ」と泣き叫ぶ。この絶叫の根拠は何も示されない。ただ、彼が頼れるものを持たず、頼った相手を恨むしかない状況は、これ以上なく伝わる。

同じ作者が人の内面に踏み込む手つきは、「生まれいずる悩み」の感想でも書いた。本作の語りは、それよりずっと突き放している。

季節で区切る七章構成:自然が先に勝っている

全体は(一)から(七)までの七章で、晩秋の到着から翌年の冬の出発まで、ほぼ一年を追う。春は雪解けの畑が湯気を立て、仁右衛門が「十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた」と未来を夢想する。そこへ六月の長雨、盛夏の旱、秋の再びの雨と、自然が順に畑を壊していく。人間の失敗より前に、天候が先に彼の計画を潰している。仁右衛門の乱暴さは、勝ち目のない勝負の八つ当たりとして読める。つまり彼は悪人である前に、負けが決まっている側の人間だ。この順序の置き方が、読後の後味を単なる「嫌な男の話」にしない。

さらに、夫婦の関係の描き方も見逃せない。到着した夜、三枚の塩煎餅を奪い合い、「白痴」と吐き捨てて妻を負かす場面は、この夫婦の力関係を数行で見せる。その同じ男が、赤ん坊の埋葬では墓穴を掘りながら突然泣きおめく。暴力と脆さが同じ人間の中に同居していると、読者に信じさせるだけの具体がある。

結末の馬殺しと放火:「救い」でも「敗北」でもない終わり方

最後の冬、函館の屋敷で場主に「馬鹿」と笑われた仁右衛門は、帰り道でこう思う。「親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。」彼は翌朝、前脚の折れた馬の眉間に斧を打ち込み、皮を剥ぎ、藁縄の片端を囲炉裡にくべ、もう片端に刻んだ藁を振りかけて小屋を出る。吹雪の中、妻と国道を歩き、最後の一文はこうだ。「二人の男女は蟻のように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。」

勝ったわけでも、反省したわけでもない。復讐としての放火はあまりに小さく、椴松の林に呑まれる二人の姿は、自然に押し潰される蟻のように描かれる。この「読者に判断を渡さない終わり方」は、寓話的な冒頭の旅と対になる環構造としてよくできている。冒頭の二人も、同じように風の中を黙って歩いていた。

「カインの末裔」の欠点・違和感:笠井の娘事件と類型的な敵役

笠井の娘への暴行事件は、なぜ回収されないのか

競馬の日の夜、笠井の娘が林の中で見つかる。犯人は書かれず、村は「証拠はないのに仁右衛門に違いない」と決めてしまう。仁右衛門自身も、あの日の記憶が「笠井の娘」のところでぷつりと切れる描写で止まる。蹄鉄屋が馬を届けた夜に小屋にいなかったという事情も、疑いをさらに濃くするだけだ。

意図的な宙吊りだと読めば、村が一人を犯人に仕立てていく過程を描いたとも取れる。だが私は、この処理を雑だと思う。事件は仁右衛門の孤立を決定づける最大の出来事なのに、物語はその後、小作料の不払いと退場の話へ自然に流れ、事件の真相も、その重さも、二度と主題にならない。孤立させるためだけの道具として使われている。読者がもっとも知りたい点を、読者に委ねたまま終えるのは、構成上の逃げに近い。

競馬の場面にも同じ癖がある。あと一息で先頭に並ぶところで、場主の子供が埒の中へ入り、笠井の娘が駆け込み、その華やかな着物に驚いた先頭の馬が仁右衛門の前へ切れ込み、彼の馬は前脚を二本とも折る。偶然が三つ連なって、宿敵の娘が彼の転落の引き金になる。因果の鎖としては鮮やかだが、あまりに出来すぎていて、作者が仁右衛門を落とす手を先に決めているのが透けて見える。自然の圧力を描くときの説得力に比べ、人間関係の偶然の組み方は、ひと昔前の芝居のように都合がよい。

場主と笠井が「型」に収まりすぎている

白熊の毛皮、大火鉢、強烈な葉巻の匂い、「馬鹿」と部屋が揺れるような高笑い。函館の屋敷の場面は、地主の「別世界」ぶりを描き込んでいて迫力がある。だが場主の人物像は、その一場面で完結する、威圧する側の記号に近い。笠井も、天理教の世話人で、卑屈で、物識りで、金もあるという属性が最初に並べられ、最後まで同じ型のまま動く。仁右衛門の内面の揺れが細かいだけに、周囲の人物が平板に見える落差は小さくない。

獣の比喩が多すぎて、人間の細部が削られる

仁右衛門は「野獣」「当惑した野獣」「猛獣」「四つ足」と、繰り返し獣に譬えられる。夫婦は蟻になり、妻は「犬に出遇った猫」の敵意で迎えられる。序盤の効果は大きいが、中盤以降は同じ系統の比喩が続き、人間としての具体が薄れる。「彼れの前にあるおきては先ず食う事だった」のように、比喩を使わず条件だけを書いた文のほうが、よほど重く響く。読者を圧倒したい作者の力みが、ここでは少し目立つ。

名前のない妻が、最後まで「付属品」のまま終わる

仁右衛門の妻は、最後まで名前が与えられない。足を引きずり、乳が出ず、夫に殴られて銀貨を渡し、夫と佐藤の妻との関係を知れば「嫉妬がましい」言葉を向けようとする。ここまで具体的に書かれながら、彼女の内側は、泣く、手を合わせる、ついていく、という動作でしか見えない。墓地の前で「わざとらしいほど高い声を挙げて泣きながら」手を合わせる最後の姿は強い像だが、それは語り手が外側から眺めているからこそ強く見えるだけだ。

仁右衛門の中身は細かく掘るのに、同じ貧しさの底にいる妻の中身は掘らない。この偏りは、主人公の孤独を際立たせる効果と引き換えに、作品の視野を狭くしている。赤ん坊を失ったのは夫婦二人のはずなのに、悲しみの描写は夫の側にだけ深く入る。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 救いのない小説、登場人物に共感できない小説を、構造を見ながら読むのが好きな人
  • 北海道開拓期の小作制度や、「地主と小作」の力関係を、物語の形で体感したい人
  • 方言の会話の迫力に慣れていて、台詞を声に出すように読める人

逆に、主人公に感情移入して読みたい人、事件の真相がきちんと明かされる物語を求める人には向かない。読む順番としては、有島の長編「或る女」の前に、この作品を先に読むのをすすめる。こちらのほうが短く、有島の文章の強さを先に確かめられるからだ。

初出は「新小説」1917(大正6)年7月号。青空文庫で全文が読めるので、まず冒頭の旅の場面だけでも開いて、文章の重さが肌に合うかを試してほしい。