結論:海の場面は圧巻、だが語り手が出しゃばりすぎる
有島武郎の「生まれいずる悩み」は、北海道・岩内の漁夫で絵描きを志す青年を描いた中編で、遭難の場面と山を前にしたスケッチの場面だけなら文句なしの名場面だ。ただし、その肝心の青年の内面を、語り手の「私」が「想像で書く」という形で押し切るため、読んでいる最中に何度も「これは誰の苦しみなのか」と引っかかる。書き手の自己陶酔が混じる劇薬寄りの一作で、芸術と生活の板挟みに身に覚えのある人には刺さり、物語の起伏を求める人には重い。
最小限のあらすじ
北海道の農場で原稿に向かう「私」は、十年前に札幌の家へ絵を見せに来た少年「君」のことを思い出す。ある日、その君から鉛筆のスケッチ帳三冊と手紙が届き、私は岩内から訪ねてきた巨漢の漁夫・木本と再会する。ここから先は、私が想像で書く君の一日だ。荒れる冬の海で漁をし、家族を養いながら、それでも「絵がかきたい」と思い詰める君の姿が描かれる。
初出は1918年4月の大阪毎日新聞(一部所載)、単行本は同年9月に叢文閣から出ている。
※ここから結末に触れます。
「生まれいずる悩み」の読みどころ:遭難と山のスケッチが一級品な理由
「死にはしないぞ」と幻の船:遭難の場面の凄み
六章の遭難は、この作品でいちばん文章が生きている場所だ。帆柱が折れ、船が転覆し、君が冷たい水の中で考える。上っ面はあわてているのに、心の底だけが不気味に落ち着いている。その底にあるのが「死にはしないぞ」という一行で、生きたいという本能の論理的結論として、何度も同じ言葉で繰り返される。
そこに挟まるのが、吹雪の向こうを矢のように走る船の幻だ。船首を下に向けたまま波の上を進み、やがて水から離れて、胴が消え、白い帆だけが薄れていく。生死の境で見る幻覚だったと気づく流れは、説明を足さずに情景だけで不気味さを出していて、作者の観察の確かさが分かる。ここは長いので覚悟が要るが、途中で投げないでほしい箇所だ。
山を前にしたスケッチで、芸術と生活の板挟みが具体的になる
悩みの中身が最も具体的に見えるのは、八章の山の場面だ。君は雷電峠のふもとの雪原で、切り株に座り、山の皺ひとつ襞ひとつに意味を見つけようとスケッチを重ねる。ところが描き上げた絵を見て、「自然の影絵に過ぎない」と自分で否定し、また次のページをめくる。満足と自己否定が数行ごとに入れ替わる運びは、創作をしたことがある人なら身に覚えがあるはずだ。
手紙の「山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニカイテミタイ」という一文も強い。うまい文章ではなく、技術が追いつかない人間が、感じていることを無理に言葉へ押し出した文章だからこそ、語り手が涙ぐむのに納得がいく。
家族への負い目:絵を描くことが「すまない」になる構造
君が苦しいのは、絵を描きたいからだけではない。絵を描いている間にも、家では父と兄と妹が働いている。調剤所の友人Kに「親父にも兄貴にもすまない」と言ってしまう場面は、悩みの正体を一言で示している。父が食卓で「今夜ははあおまんまがうめえぞ」と言う場面で幸福を感じる君が、同時に絵を諦められない。どちらかを悪者にしないから、この二重生活は逃げ道のない苦しみとして読める。
スケッチ帳と手紙という「物」が、二つの時間をつなぐ仕組み
構成の面で評価したいのは、農場で原稿に向かう「私」の現在と、想像で書かれる君の一日が、スケッチ帳と手紙という具体的な物でつながれている点だ。君本人はまず絵と手紙という形で届き、次に木本という巨漢の使者として現れる。読者は君の姿を直接見る前に、紙の上の痕跡と他人の口を通して君を知る。だから後半で語りが君の内側へ潜り込んだとき、「これは私が絵と手紙から組み立てた像だ」という前提を、読者は無意識に持ち続けることになる。
この枠組みは、冒頭の数章が少し退屈なことの言い訳にもなっている。事件らしい事件は起きず、思い出と再会の確認が続くからだ。ただ、その静かな助走があるから、六章の遭難で文章が一気に荒れる落差が効く。助走の長さを我慢できるかどうかが、この作品の最初の関門だと思う。同じ作家の長編「或る女」のように人物が前へ前へと動く小説とは、読む筋肉の使い方がまるで違う。
忖度なしの欠点・違和感:語りの構造と君の描き方に感じる不満
「想像で書く」と宣言した語りが、後半で自分の保証に頼りすぎる
四章で私は「君の寛大はそれを許してくれる事と私はきめてかかろう」と、想像で君の生活を描くと宣言する。つまり五章から八章までは、実在の相手を作者が勝手に代弁している、と作品自身が認めている。創作者として、この宣言の使い方が甘いと感じる。なぜなら九章では「僕のこれまでの想像は謬っていない事を僕に信ぜしめる」と、自分で自分の想像の正しさを保証してしまうからだ。読者に確かめる手段はない。想像であることを武器に自由に書き、最後に正しさを自分で担保する。この二重の逃げ道が、内容の切実さを少し安くしている。
「巨躯なのに繊細」という君の造形が、理想化に傾いている
再会した君は、牡牛のように太い首の巨漢なのに、少女のように敏感な魂を持つ、と語り手に讃えられる。三章の「なんという無類な完全な若者だろう」は、人物描写ではなく崇拝に近い。腕力は岩内一、親思い、素直、寛大、しかも絵の才能は本物らしい。これだけ美点が揃うと、矛盾や嫌な面がなくなり、君は一人の人間というより、都会の知識人が思い描く「土の子」の見本に近づく。九章の「自然に哺まれた叡智」という言い方も、その延長線上にある。
才能の根拠が語り手の称賛だけで、「私」の悩みも回収されない
君に絵の才能があるのか、という作品全体の問いに、読者が自分で判断できる材料がほとんどない。絵を褒めるのは私と友人Kで、Kは友だちだから信用できないと君自身が疑っている。肝心の私の評価は、本物の芸術家にしか見えず描けない自然の肖像画だ、という断言調だが、具体的にどこがどうなのかは語られない。一章で提示された私自身の迷い(信仰を離れ、仕事に失望し、文学者として立つ覚悟)も、君の描写が始まるとほとんど消え、九章で祈りの形に戻るだけだ。「私」と「君」は鏡のはずなのに、鏡の片側が途中から曇ってしまう。
結論を出さない結末と、重すぎる自殺未遂の置き方
八章の終わりで君は崖の縁に立ち、「ただ一飛びだ。それで煩悶も疑惑もきれいさっぱり帳消しになるのだ」と考える。正気に戻るきっかけは、十二時の交代を告げる海産物製造会社の汽笛だ。このきっかけは生活の音が命を引き戻すという点で皮肉が効いている。ただ、そこで君はうずくまって泣くだけで、物語は君の選択に触れないまま、九章の語り手の祈りで終わる。「君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ」という呼びかけは美しいが、君がどの道を選ぶのかは分からない。それを、神から直接示されるべきことだとして預けてしまう結末は、構成としては誠実でも、物語としては読者に宿題を渡して終わりにしている。
文体:比喩の過剰と、人称のゆれ
五章の出船の場面では、漁夫たちの動きをLargo pianissimoからAllegro Moltoへ移る音楽にたとえる。着想は面白いが、すぐ後に海鳥、朝焼け、峠の形と比喩が続き、読み手の体力を使う。人称も、基本は「私」だが三章に「僕は期待に裏切られた」という箇所があり、九章は「僕」で語られる。意図的な切り替えと読めなくもないが、確認できる範囲では説明はない。気になる人は気になるだろう。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 仕事や家庭と、創作や夢との板挟みを抱えた経験のある人。君の「どちらにも真剣になれない」苦しみは古びていない
- 荒れた冬の海の描写や、極限の場面の文章を味わいたい人。六章だけでも読む価値がある
- 有島武郎を、長編以外の姿でも知りたい人。長編「或る女」とは違う、作者自身の迷いが透ける語りが読める
逆に、はっきりした結末や、人物同士の対立で話が進む小説を求める人には向かない。まず六章の遭難と八章の山の場面を読み、そのうえで「想像で書く」という語りを受け入れられるかを試してから、全体に進むのが失敗の少ない読み方だ。
読み終えたあとに残る問いも書いておく。君は絵を選んだのか、家族と海を選んだのか。作品はそれに答えないが、答えがないからこそ、創作と生活の両立に悩んだことのある読み手は、自分の場合を重ねて考え続けることになる。感想を誰かと話したくなる点は、この作品の確かな強みだ。


