夜叉ヶ池 感想ネタバレ|設定は傑作、終幕の殺戮が乱暴すぎる

結論:「鐘を撞かねば村が沈む」という設定は鏡花屈指。ただし終幕は、その設定を自分で台なしにする

泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」は、一日三度鐘を撞かなければ竜神が解き放たれて村が水没する、という一本の約束だけで全編を引っ張る。この設定の強さは、鏡花の作品のなかでも指折りだと思う。

一方で、約束が破られてからの終幕は、因果も論理も投げ捨てた殺戮と心中で押し切る。設定に惚れた読者ほど、最後の数ページで肩を落とすだろう。名場面と乱暴な幕切れが同居する、評価の割れる怪作だ。

最小限のあらすじ

越前の琴弾谷の鐘楼には、夜叉ヶ池の竜神を封じた約束がある。明六つ・暮六つ・丑満に鐘を撞かなければ、池から津波が起きて村が沈む。

東京から来た萩原晃は、死んだ鐘撞きの老人に頼まれてこの鐘を引き継ぎ、村娘の百合と暮らしている。そこへ二年ぶりに親友の山沢学円が現れる。一方、池の主の白雪姫は、白山の若君への恋に焦がれ、鐘さえなければ飛んで行けるのにと歯噛みしている。

夜叉ヶ池の鐘が怖い理由と、鏡花の戯曲としての魅力を分解する

※ここから結末に触れます。

「撞かなければ滅びる」鐘の設定はなぜ強いのか

この鐘は、村を守る道具として描かれていない。竜神が「我が性は自由を想う」と言う約束を、忘れさせないための鐘だ。つまり村は、人間の信仰ではなく、竜神の我慢によって生きている。晃が語る伝説を読むと、この構図がはっきりする。

しかも、その約束はすでに村人に忘れられている。晃が若者に伝説を話すと、村のものは哄と笑い、寺の和尚までが昔話なら桃太郎のほうが結構だと言う。誰も信じていない約束を、ただ一人、律儀に守る男がいる。この非対称が、三度の鐘に笑えない緊張を与えている。

鐘の音が鳴る瞬間を舞台に出さなくても怖い、という設計も巧い。鳴らすか鳴らさないかの二択に物語を絞ったから、後半の「撞くまい」という晃の一言が、それだけで取り返しのつかない行為になる。

白雪姫と百合は「恋で人間離れした女」の鏡像になっている

白雪は、恋のためなら村が沈んでもいいと言い切る側にいる。「義理や掟は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ」という台詞は、この戯曲でいちばん危険な、そして魅力的な一行だ。

対する百合は、人間の側から同じ純度の恋を生きている。しかも二人は、百合の子守唄ひとつで結ばれる。剣ヶ峰からの文を読んで鐘を砕けと命じる白雪が、遠くから聞こえる百合の唄に聞き惚れて、刃を収める場面だ。怪異の頂点で、いちばん小さな日常の声が勝つ。この反転は、鏡花の戯曲の技術として見事だと思う。

ちなみに、聞き手と語り手の距離で怪異を成立させる巧さは、短編の「高野聖」で既に見せている手だ。「夜叉ヶ池」では、その役を学円が引き受ける。

学円という「外から来る人」の置き方が親切

学円が梨を剥きながら宿を乞い、「談話」を茶代にする場面は、冒頭の長い対話にもかかわらず退屈しない。百合の側が旅人の話を代価にする習わしを、観客に自然に教える役目も果たしている。

さらに、晃がなぜ白髪の仮髪をかぶるのかという謎を、友人の再会が解いていく。説明台詞だらけになりがちな設定開示を、再会劇に載せた手際は、劇作家として堅い。

純愛の強さを短い時間で描き切る点では、同じ作家の「外科室」と並べて読むと違いがよく見える。

鯰入の文箱の場面が見せる、鏡花の喜劇の腕

中盤、剣ヶ峰からの使者・黒和尚鯰入が、運んでいる文箱が急に重くなったと怯える場面がある。山女に手を出した罪で、中身は自分の処刑状ではないかと疑うのだ。鯉七は馬士が腹を割かれかけた昔話までして脅し、いざ蓋を開けると、中身は水ばかりで、そこから姫が現れる。

笑わせておいて、そのまま怪異の登場へ滑り込む。恐怖と滑稽を一続きに処理するこの運びは、鏡花が舞台の呼吸をよく分かっている証拠だと思う。人ならぬ者たちが人間くさい臆病さで会話するから、後に白雪が見せる苛烈さが、より異様に立ち上がる。

さらに、この場の鯰入・鯉七・蟹五郎は、のちに村が滅ぶ側の描写を支える役でもある。笑える連中が白雪の味方として働くので、彼らが村人を屠る終幕に、読者はいったん笑いの余熱のまま立ち会ってしまう。この仕掛けは巧いが、同時に後述の残酷さを和らげてしまう両刃でもある。

夜叉ヶ池の結末が乱暴すぎる、と感じる理由を具体的に挙げる

晃が「鐘を撞かない」と決める動機が薄い

前半の晃は、八千人の命と鐘の約束を背負う人物として積み上げられた。「三ヶ国と言わん。越前一ヶ国とも言わん」と言い、村を見棄てられない理由を語っていたはずだ。

ところが終盤、百合が鎌で胸を切った直後に、晃は鐘を撞くまいと言い出す。感情としては分かる。だが、二年かけて築いた責任感の倒れ方が、数行で終わってしまう。ここに一幕分の逡巡や、約束と愛の板挟みがあれば、結末は重くなったはずだ。

学円が「打つな、お百合さんのために、打つな」とあっさり背中を押すのも気になる。理性の側にいた人物が、同じ速さで感情に倒れるので、判断を委ねられる人間が舞台に一人もいなくなる。

村人は「全員殺されて魚になる」ほどの罪を背負っているのか

村側の描き方は、はっきり戯画だ。演説調の教員、「諸君努力せよ」の村会議員、葉巻をくゆらす代議士。雨乞いの犠牲に百合を差し出す論理も、彼らがいかに愚かで醜いかを見せるためだけにある。

代議士の穴隈鉱蔵が「女郎一人と、八千の民、誰か鼎の軽重を論ぜんや」と言い放つくだりは、確かに憎らしい。だが、憎らしさを一人に集めるほど、他の村人の個性が消えて、全員が同じ濃さの悪役に見えてくる。これは構造の問題で、作者の筆が荒いという話ではない。

そこまで書くなら、せめて一人でも迷う村人を置くべきだった。迷いのない愚者を並べておいて、最後は「皆、魚に」と一括で片づける。罰として爽快ではあるが、そこにあるのは物語の必然ではなく、作者の怒りの処理だ。子どもも老人もいたはずの六ヶ村八千人を、悪役の延長で全員水に沈めるのは、さすがに乱暴だと思う。

白雪が「ご褒美」のように結末を持っていく

終幕、白雪は鐘楼に立ち、村人を眷属たちとともに屠り、新しい鐘ヶ淵を「御夫婦の住居にしょう」と言う。晃と百合は水底の鐘の上で微笑み、学円は合掌する。美しい絵ではある。

だが、これは竜神が約束を破られた結果の災厄であって、恋人たちの救済ではない。そこを一枚の美しい絵に畳んでしまうから、読後に残るのは悲劇の痛みより、舞台効果の勝利感だ。恋の純度を信じる鏡花の美意識は分かるが、犠牲になった側への視線がほぼゼロなのは、構造上の欠陥だと言いたい。

また、与十と鯉七、蟹五郎の掛け合いなど、前半の怪異の楽しさに比べ、終盤は台詞の密度が荒れて、理屈より速度で押し切る印象が強い。

晃の語る「白雪の昔話」が、伏線として働ききらない

晃は百合を巡る争いの最中に、かつて白雪という処女が牛に乗せられ、村を焼いて池に身を沈めたという話を持ち出す。百合の運命と重なる、いわば予告編だ。ところが、この話は晃が言い放つだけで、村人の誰も動揺しない。伝説が「忘れられた約束」の一部として機能しないので、前半に積み上げた信仰の薄れという主題と、うまく噛み合わないままだ。

この伝説を、冒頭の鐘の由来と同じ重さで語り直していれば、終幕の水没は「約束を破った報い」としてもう少し理屈が立ったと思う。現状では、怒りと愛が先に立ち、伏線は飾りに留まる。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、筋の整合より、設定の強さと台詞の力を味わえる人だ。鐘を撞く男の孤独や、人ならぬ者の恋の描写を読みたい人には、前半は間違いなく面白い。

逆に、悪役の掘り下げや、結末の因果の納得感を重視する人には勧めにくい。後半の全滅劇は、勢いを楽しめるかどうかで評価が真っ二つに割れるはずだ。

鏡花を初めて読む人には、いきなりこの戯曲よりも、語りの構造が見えやすい「高野聖」か、短く鋭い「外科室」を先に勧める。「夜叉ヶ池」は、鏡花の文体にある程度慣れてから読むほうが、台詞の古風な言い回しに足を取られず、怪異の場面の楽しさを素直に受け取れる。ト書きの装束の描写(鯉七の黒白鱗の帷子、蟹五郎の赤毛頭に緋の衣など)が、舞台を想像する手がかりとして濃いのも、読み物として楽しい点だ。

青空文庫の本文は約3万字で、戯曲なので一気に読み切れる。まず前半の学円と百合の対話、そして白雪が百合の唄に聞き惚れる場面だけでも読んでほしい。そこに鏡花の怪異と人情の混ぜ方が最も濃く出ている。結末の乱暴さは、そのうえで自分の目で確かめてほしい。

なお、底本の末尾には、この作品が大正二(一九一三)年三月のものと記されている。