結論:妻の変貌は圧巻。ただし夫の苦悩が台詞で説明されすぎる、笑いながら後味の悪い佳作
五千円を盗んだ男の女房が、翌日にはその店で笑いながら酒を注いでいる。太宰治「ヴィヨンの妻」の面白さは、この反転の速さと、語り手が一度も怒らないという異様さにある。
語りの設計は一級品だ。一方で、肝心の夫・大谷の苦悩は本人の口から説明されてしまい、妻の変貌ほどの切れ味がない。暗い太宰を読みたい人には向くが、救いを求めて読むと肩透かしを食う。
最小限のあらすじ
深夜、泥酔した詩人・大谷が帰宅し、続いて中野の小料理屋「椿屋」の夫婦が乗り込んでくる。大谷は店の五千円を盗んで逃げたのだ。語り手である妻は、後始末をすると約束し、翌日その店に出向く。
夫が戻るまでの人質として店で働き始めた妻は、客あしらいの才能を見せ、「椿屋のさっちゃん」として評判になっていく。
ヴィヨンの妻の独自の深掘り:「です・ます」の語りが生む可笑しさと恐怖
なぜ妻の語りは「ございます」調なのか
全編が妻の独白で、文体は「おかえりなさいまし」「ございます」と丁寧そのものだ。この丁寧さが、書かれている内容の乱暴さと食い違うところに、この作品の笑いがある。
第一章は、椿屋の主人が大谷の悪事を延々と語る場面で、一文が際限なく伸びていく。借金、女、記者、盗み。聞かされる妻は、思わず噴き出してしまう。「夫の詩の中にある『文明の果の大笑い』というのは、こんな気持の事を言っているのかしら」と妻は考える。笑ってしまうこと自体が、すでに妻が夫の側の人間になりかけている合図だ。創作者の目で見ると、長い他人の語りを妻の笑いで受け止める構成は、読者の感情の逃げ場をうまく作っている。
「ヴィヨンの妻」というタイトルの意味は何か
妻は電車の中吊り広告で、夫が「フランソワ・ヴィヨン」という題の論文を書いていると知り、理由もわからず涙を流す。タイトルの出どころはここだけで、作中でヴィヨンについて説明されることはない。
この省略は正しい。妻は夫の仕事を理解していないのに、理解していないまま泣く。教養のない妻が詩人の苦悩に感応してしまう、という人物の置き方が、この一場面で決まっている。
さっちゃんの「才能」が見えるのはどこか
中野の店で、客の下品な冗談に「名馬も、雌は半値だそうです」と返す場面がある。それまで坊やに添い寝するしかなかった女が、ここで初めて水を得る。「自分のこのからだがアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい」という妻の思いは、希望というより自己放棄に近い。明るさの下に空洞があるから、読者は笑いながら不安になる。
この二重底を、説明せずに行動と台詞だけで見せているのが、本作の最も巧いところだ。
ヴィヨンの妻の忖度なしの欠点・違和感:夫の苦悩は台詞で語りすぎ、結末は唐突
大谷の「死にたい」「神がいるのか」が説明的すぎる
帰り道の対話で、大谷は「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです」と言い、さらに「おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです」と語る。内容自体は作品の核心だが、書き手の目には、人物の内面が台詞で一気に開示されたように見える。
第一章で大谷は、他人の口から語られた「悪党」としては十分に立体的だった。ところが本人が喋り出した途端、人物像が作者の問いの代弁に変わる。妻の笑いがせっかく見せた怖さが、ここで少し薄まる。
「女には、幸福も不幸も無い」は設定として都合がよい
大谷は「女には、幸福も不幸も無いものです」「男には、不幸だけがあるんです」と言い切る。妻はわからないと答えるが、その直後に作品が妻の生き方をこの言葉どおりに動かしていくため、男の勝手な理屈を物語が追認する形になってしまう。妻が自分の頭で選んだというより、夫の理屈の中で動かされているように読める場面があり、そこが引っかかる。
※ここから結末に触れます。
工員に犯される場面があまりに軽く、唐突に終わる
「神がいるなら、出て来て下さい! 私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました」という一文は、本作で最も強い。しかし、その前後の処理は驚くほど淡泊だ。雨の夜に送ってくれた工員ふうの若者が玄関の式台で寝て、翌朝「あっけなく」手に入れられた、と一行で済まされる。
省略の技法としては理解できる。だが、続く場面でもう妻は普通に店へ出て、夫の隣で何事もないふうに話している。事件が妻に与えた衝撃は、最後の「人非人でもいいじゃないの」にしか反映されない。ここは読者に委ねたというより、重い出来事を物語の転換装置に使って、その後を書く手間を省いたように見える。
「人非人でもいいじゃないの」は救いか、諦めか
結末で夫は新聞の悪口を読み、「人非人」と書かれたことを気にして、五千円を盗んだのは妻と坊やに正月をさせたかったからだと弁解する。それに対する妻の返事が「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」だ。直前に妻自身が踏みにじられている以上、この言葉は夫への赦しにも見えるし、道徳そのものを手放した者の開き直りにも見える。
この両義性は魅力だが、私は少し作りすぎだと思う。夫の弁解は、第一章で語られた女遊びや記者への暴力、店の女の子への手出しと並べると、あまりに都合のいい後付けだ。妻が「格別うれしくもなく」と応じる一行があるから救われているが、それがなければ、夫の自己弁護がそのまま美談になってしまう危うさがある。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
約2万字、青空文庫なら1時間ほどで読み切れる。向いているのは、太宰の「自分語り」の暗さに疲れた人だ。本作は語り手を妻にしたことで、同じ破滅を外から見られるため、「斜陽」や「人間失格」より風通しがいい。
比較したい人には、「斜陽」が戦後の没落を女の側から書いた長編として近い。同じ酒と破滅の男でも、「人間失格」は本人の告白で、本作は妻の視点だという違いがはっきりする。読む順番は、本作で語りの面白さを掴んでから長編へ進むのがおすすめだ。
逆に、夫に厳しい決着を期待する人や、被害を受けた妻の心理をきちんと追ってほしい人には向かない。後味の悪さこそが、この小説の味だからだ。初出は『展望』1947年3月号。ただ、その時代の空気を知らなくても、さっちゃんの笑いだけで読み切れる。




