結論:前半は日本語の極上品。だが「革命」の看板は、最後まで中身が追いつかない
太宰治の「斜陽」は、没落貴族の母と娘を描いた小説として、前半が圧倒的に美しい。母のスープの飲み方ひとつで、一つの階級が消えていく気配を読者に伝えてしまう。
一方、かず子が高らかに掲げる「恋と革命」は、相手の上原があまりに貧弱なため、後半になるほど宣言だけが空回りする。名作の看板に疑いはないが、手放しの傑作ではなく、「美しさと危うさが同居した劇薬」と呼ぶのが一番正確だ。
青空文庫版で約9万字。『走れメロス』のような一気読みの軽さはない。読み通す価値はあるが、期待する中身は人によってかなり変わる。
最小限のあらすじ
終戦の翌年、東京・西片町の屋敷を売った29歳の「かず子」は、病弱な母と伊豆の山荘で暮らし始める。そこへ南方から、麻薬中毒を抱えた弟の直治が帰ってくる。かず子は、かつて六年前に会った作家・上原に三通の手紙を送り、「あなたの子供の母になる事」を望む。母の病が重くなるなか、かず子は自分の恋に賭けようとする。
「斜陽」の魅力を解剖する:お母さまの描写、「恋と革命」宣言、直治の遺書
冒頭のスープの場面は、なぜ「貴族の没落」を一発で伝えるのか
物語は、母がスープを一さじ吸って「あ」と小さく叫ぶ場面から始まる。この一場面だけで、作品の主題がほぼ全部入っている。
読点で呼吸を刻んだ長い一文が、母のスプーンさばきを「燕のように」軽く追いかける。「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ」という直治の台詞を、地の文の描写で裏づける構成だ。マナーに外れているのに、なぜか本物に見える。説明ではなく所作で階級を描いている。
しかも「あ」は、娘のかず子にとっては離婚の恥の記憶、母にとっては行方の知れない直治への思いを呼び起こす合図になっている。冒頭の一文字が人物の内面への入口になっており、小説の書き手として見ても、これほど経済的な導入は珍しい。
書き手の視点で付け加えると、この導入は「先に設定を説明しない」勇気の産物でもある。没落、戦後、財産税といった背景を並べれば数行で済むところを、作者はスープ皿の前の一瞬に預けた。読者は説明されないぶん、自分で気づく楽しさを得る。この冒頭に魅力を感じた人は、そのまま第一章を最後まで読んでほしい。母と娘の山荘での静かな暮らしが、後の展開を知っていると一段と痛々しく見えてくる。
蛇の挿入は、母の死を予告する伏線として機能している
蛇の卵を焼く場面から、母が蛇の影におびえ、庭先に「卵を捜している」母蛇が現れる流れは、前半の山場だ。かず子は母蛇と母の顔を重ね、自分の胸の中に「蝮みたいにごろごろして醜い蛇」がいると感じる。
この「胸の中の蛇」は最後まで効いてくる。聖書の「蛇のごとく慧く」を引いて上京する第六章、母の臨終の直前に再び蛇が現れる場面と、モチーフが三度返ってくる。母が静かに死に、かず子が逆に「悪がしこい生きもの」に変わっていく流れは、象徴のレベルできれいに設計されている。
面白いのは、この蛇が単純な「悪」や「不吉」の記号に収まらない点だ。蛇は母を脅かす存在であると同時に、かず子が生き延びるために身につける力の名前でもある。母が蛇を恐れ、娘が蛇を自分の内に飼う。この対比によって、二人は同じ家の人間でありながら、まったく違う時代に属する存在として描き分けられている。物語の筋より先に、モチーフだけで世代交代を語ってしまう手際は、前半の最良の部分だと思う。
「人間は、恋と革命のために生れて来たのだ」は何を言っているのか
母の死後、第六章は「戦闘、開始。」の一行で始まる。かず子は聖書の一節を長々と引いたうえで、冬の夜道を歩きながらこう言い切る。「人間は、恋と革命のために生れて来たのだ」。
ここでの「革命」は政治運動ではない。既婚の作家の子を産み、私生児の母になることで「古い道徳」を押しのける、という個人の宣言である。結末の手紙でも、かず子は「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます」と書く。
ただし、社会の変化を扱っているようで、実際に動いているのは一人の女性の私的な決意だけだ。この「革命」という大きな言葉と中身のズレこそ、この小説の最大の読みどころであり、同時に最大の弱点でもある。弱点の話は次の節に回す。
直治の遺書は、なぜ「僕は、貴族です」で終わるのか
第七章は、直治の遺書がほぼ丸ごと一章を占める。ここは、かず子の語りとはまったく別の声が響く、この小説の心臓部だ。
直治は、貴族の生まれであることが生きる足かせだったと打ち明ける。洋画家の妻への報われない恋を告白し、「僕には、希望の地盤が無いんです」と書く。さらに「結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから」と言い切る。そして遺書は「僕は、貴族です。」で終わる。
貴族という身分を呪い続けた人間が、死ぬ間際に、その言葉で自分を名乗る。この一行は、否定し続けた出自を最後に引き受ける降参の言葉にも、誇りの宣言にも読める。どちらかに決めきらず、両方の意味を残している点が見事だ。
もう一つ注目したいのは、遺書の声がかず子の語りと決定的に違うことだ。かず子は「お母さま」と敬語まじりの女性語で語るが、直治は「僕」「姉さん」と、荒れた口調と告白の甘えが混ざった文体で書く。同じ家で育った姉弟の声がここまで書き分けられているから、母の「あ」で始まった物語が、最後は二人の別々の叫びに分かれていく。さらに直治は、洋画家を「ただ出鱈目にカンヴァスに絵具をぬたくって」いるだけだと罵りながら、その妻には焦がれ続ける。軽蔑と憧れが同じ視線の中で揺れる、複雑な人物像だ。
※ここから結末に触れます。
忖度なしで言う「斜陽」の欠点・違和感:上原の貧弱さと後半の失速
上原二郎という「革命」の相手が、あまりに弱い
かず子が「虹」「M・C(マイ・チャイルド)」と呼んで恋い焦がれる上原は、実際に登場すると、すっかりくたびれた飲んだくれである。かず子自身が「一匹の老猿が背中を丸くして部屋の片隅に坐っている感じ」と書くほどだ。歯が抜け、顔はむくみ、「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」と無意味な乾杯の歌を繰り返している。
もちろん、これは意図的な落差だろう。理想化した恋と現実の男のギャップは、物語としてアイロニーになる。だが問題は、その後だ。かず子が上原に感じていたはずの魅力が、会ってからも読者に伝わらない。台詞は気取った断片ばかりで、人物としての厚みがない。
そのため、「この男の子を産む」というかず子の決断が、恋の必然ではなく、作者が結論を用意するための手続きに見えてしまう。革命の相手が空っぽなら、革命そのものが空疎に見える。ここが構成上いちばん惜しい点だ。
手紙という形式の多用で、物語の推進力が落ちる
後半の三分の二ほどは、かず子の手紙、直治の遺書、再びかず子の手紙で占められる。中でも第四章のかず子の手紙は長く、「待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども」と、感情の吐露が畳みかける。
この独白自体には熱があり、読ませる文章でもある。ただ、場面で見せるべきところを告白で済ませているため、同じ温度の語りが続くと読者の体力が削られる。前半の、庭の蛇や雪や梅の花といった具体的な景色の力と比べると、後半は言葉の勢いで押し切る場面が増える。中盤以降の失速感はここから来ている。
「革命」を語るわりに、現実の生活がほとんど見えない
かず子は結末で「私は、勝ったと思っています」と書き、「革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです」と続ける。威勢は良いが、妊娠後にどう暮らすのか、金も後ろ盾もない女がどう子を育てるのかは、ほとんど描かれない。
前半では畑仕事や「お金が無くなる」恐ろしさを具体的に書いていた作者が、終盤で急に現実の生活の話をやめてしまう。そのせいで、かず子の勝利宣言が、読者の目には現実を見ない強がりに映る余地を残している。この余地を意図的な曖昧さと取るか、詰めの甘さと取るかで、評価は大きく割れるだろう。
私は後者寄りだ。曖昧さが効くのは、読者が「描かれなかった部分」を想像できるだけの材料が積まれている場合に限る。この作品では、前半で生活の細部を丁寧に積んだ分、終盤にそれが消えると、省略ではなく放棄に見える。直治の死という重い出来事を挟んでいるぶん、その後のかず子の足取りをもう数行でも具体的に見せてほしかった。そうすれば「勝った」という宣言に、読者が頷くか疑うかを選べるだけの手応えが生まれたはずだ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、次のような人だ。
- ストーリーの起伏より、文章の呼吸と人物の所作を味わいたい人
- 終戦直後の没落と価値観の崩壊を、一つの家族の目線で読みたい人
- 『人間失格』の次に、太宰の「女性の語り」をじっくり読んでみたい人
逆に、ドラマチックな展開や、納得のいく恋愛劇を求める人には勧めにくい。上原との関係に説得力を期待すると、肩透かしを食う。
太宰を初めて読むなら、まず短い『走れメロス』や、女性の一人称が近い『女生徒』から入るほうが入りやすい。男性側の自己崩壊を描いた『人間失格』を読んでから戻ると、直治の遺書の重さがより際立つ。
全体の読み方としては、第一章と第七章(直治の遺書)を軸にして、間の恋愛パートは「かず子の主観を疑いながら読む」くらいがちょうどいい。そうすると、この小説が単なる恋愛成就の物語ではなく、母の死、弟の自死、そして一人の女の孤立した決意をめぐる、不穏で美しい作品であることが見えてくる。



