「水晶の栓」感想ネタバレ|ガラス義眼オチは笑うか呆れるか

結論:敵役は一級品、謎解きは肩透かし。ルパンが負け続けるから面白い長編

「九から八引く一残る」。ルブランの「水晶の栓」で、悪役ドーブレクが食堂のカーテンに向かってこう言い放つ場面は、ルパン物の中でも指折りの屈辱シーンだと思う。主役が罠にかかって袋の鼠になり、敵に名前入りで嘲笑される。この一場面だけで、この長編を読む価値はある。

ただし、題名になった「水晶の栓」そのものは、謎として期待するほどの働きをしない。栓を追う前半の大騒ぎは、後半でほぼ無意味だったと明かされる。しかも終盤は駆け足で、盛り上げた対決の決着が要約のように流れていく。敵の造形と「ルパンが翻弄される」構成を楽しめる人向けで、緻密な謎解きを期待する人には薦めにくい。

なお、ここで扱うのは青空文庫で読める新青年編輯局訳(1921年8月「新青年」夏季増刊)で、全体は約6万5千字、七つの章に分かれている。

最小限のあらすじ

九月末の夜、ルパン一味はアンジアン湖畔の代議士ドーブレクの別荘に忍び込む。だが部下のジルベールとボーシュレーの争いで書記が殺され、二人は逮捕される。ルパンの手元に残ったのは、二人が奪い合った水晶の栓ひとつ。それも翌朝、寝室から消えていた。

ジルベールとボーシュレーは死刑を宣告される。ルパンは二人、特にジルベールを救うため、栓の秘密と、ドーブレクが握る「二十七人連判状」を追い始める。

※ここから結末に触れます。

水晶の栓の謎と悪役ドーブレクの魅力:独自の深掘り

「九から八引く一残る」が示すドーブレクの格

第二章で、警視庁のプラスビイユが家宅捜索をする。ルパンはその一部始終を食堂のカーテンの陰から眺めている。帰宅したドーブレクは、女中の話と自分が数えた人数の差から、隠れている「九人目」の存在を言い当てる。ルパンを「ポロニャス殿」と呼び、ハムレットの台詞まで引いて、悠々と玄関まで送り出させる。

この場面がうまいのは、ドーブレクが殴り合いに強いからではなく、観察と計算で勝っている点だ。ルパンの専売特許である頭脳戦で、ルパンが負ける。その後ルパンが門の外で怒鳴り散らす場面で、読者はこの悪党の格を信じる。主役の屈辱を悪役の魅力に変換する手つきは、創作者として素直に感心した。

水晶の栓の正体とガラス義眼オチ:伏線は張られていたか

栓の中に連判状が隠されている、という推理は途中で崩れる。メルジイ夫人の打ち明け話で、手元の栓は注文時の見本にすぎず、中身は空だと分かるからだ。本物は、ニコルに化けたルパンが最後にプラスビイユへ見せる、ドーブレクの左目のガラスの義眼の中にあった。

この着想自体は大胆で、記憶に残る。伏線の張り方も、実はそれなりに丁寧だ。ドーブレクは一貫して二重の眼鏡をかけ、そのことは登場時にきちんと描かれる。ルパンが後に語る「外部より容易に看破せられざる様巧妙なる細工を施されたし」という注文文は、栓の話に見せかけて、実は目の話だった。同じ文が二つの意味を持つ仕掛けは、種明かしの瞬間に効く。

ただし後で述べるとおり、読者が自力でこのオチへ辿り着ける作りにはなっていない。「見事な伏線」というより「後から振り返れば眼鏡の描写があった」程度の仕掛けだ。

ルパンが負け続ける構成と、笑いで締める手際

この長編のルパンは、序盤から連戦連敗だ。栓は寝室から盗まれ、手紙は盗まれ、劇場では部下に殴り倒される。取り返した栓さえ懐から掏られる。普通なら主人公の格が下がるはずだが、ここでは読者の興味を引っぱる燃料になっている。誰が、どうやって、という謎が毎章ひとつずつ増えるので、頁をめくる手が止まりにくい。

ドーブレクとの会見の場面で、ルパンが懐に手を入れ、ドーブレクもピストルを握る。そこで差し出されるのは小さな箱の「飴菓子よ?」というドロップだ。緊張を一瞬で笑いに落とすこの転調は、翻訳の大正期らしい調子とも相まって、いま読んでも愉快だ。

ジルベールの死刑宣告が、ルパンの連敗に意味を与える

連敗が苦にならない理由は、もうひとつある。ジルベールとボーシュレーが死刑を宣告された時点で、ルパンの戦いに期限がつくからだ。栓や連判状は、金目当ての泥棒仕事ではなく、部下の命を救うための手段に変わる。負けるたびに刑の執行が近づく感覚があり、敗北が単なるお笑いにならず、焦りとして読者に伝わる。

創作の側から見ると、これは主人公を弱らせつつ読者の味方にとどめる、手堅い設計だ。無敵の怪盗が勝ち続ける話より、手持ちの札が少ない怪盗が追われる話のほうが、一手ごとの緊張が高い。のちに明かされるジルベールの出自が、この動機の置き方を後から補強する点も見逃せない。ただし、その補強の仕方には問題があり、その点は次の欠点の節で述べる。

水晶の栓はつまらない?忖度なしの欠点・違和感

栓が空っぽだった前半の大騒ぎは、何のためだったのか

最大の欠点は、題名の栓が謎として機能しないことだ。書記が死に、二人が捕まり、ルパンは眠れなくなるほどの騒動が起きる。その発端の栓が、実は見本の空っぽ品だったと、中盤の38,000字を過ぎてから、夫人の口で語られる。読者が栓の中身を推理している間は、フェアな手がかりが出ていない。

夫人は「あのアンジアンの夜襲も無駄、レオナールの殺害も無益」と嘆く。作者としては運命の皮肉を狙ったのだろうが、物語の骨組みの側から見ると、前半が丸ごと空振りだったと宣告されたに等しい。しかも一人の人間が死んでいる。皮肉で笑わせる場面にしては、代償が重い。

長台詞で背景を一括説明する中盤の止まり方

第五章は、メルジイ夫人が二十年前の三角関係、夫の自殺、連判状の経緯、ジルベールが彼女の息子だという事実まで、ほぼひとりで語り通す。鍵になる情報が揃う章ではある。だが読み手の立場では、ここまで謎として散らばっていた要素が、ほとんど会話の説明で片付いてしまう。

ルパンが推理して辿り着く展開なら痛快だったはずだ。実際は、母親の告白で一気に霧が晴れる。しかも、ジルベールが写真入りのメダルの少年だと確かめる場面など、前振りが薄いまま感情だけが盛り上がる箇所もある。ここは構成が会話に寄りかかりすぎている。

ジルベールが夫人の息子だという事実は、物語の感情の核になるはずだ。それなのに、読者はそれを序盤から少しずつ感じ取る機会を与えられず、第五章で初めて一度に渡される。死刑囚を救う動機が「実は母親の子だった」という告白に頼ってしまうと、それ以前にルパンが払ってきた労力の重みまで、後付けの理由で上書きされる印象が残る。

駆け足の終盤と、ルパンの「殺さない主義」のぐらつき

第六章は、モンモールの古城でのドーブレク救出劇を「十数日を費やした結果」という調子で要約してしまう。恋人たちの伝説を聞いて断崖を登る場面は魅力的な素材なのに、救い出したはずのドーブレクに短剣で刺される大事件が、数行で過ぎる。ニースからジェノバへの追跡も、手紙に振り回される旅として軽く流される。

終盤の人物像にもぐらつきがある。第一章でルパンは血を見て部下を叱り、「人を殺さんのが俺の主義だ」と言う。ところが最後のプラスビイユとの対面では、ドーブレクの胸に針を刺して拷問した話を、笑いながら披露する。トランクの中で実際に何があったのかは、この本人の自慢話でしか分からない。誇張なのか事実なのか、読者に判断する材料がない。

さらに、物語の動機であるジルベールの特赦状が実際に届く場面は、この訳にはない。ルパンが警視庁の主事室で眠りに落ちて終わる。気持ちよく勝った絵ではあるが、救出の約束を果たしたかどうかは、読者の想像に任される。

同じルブランの「奇巌城」と比べると、あちらは前半の完成度が高い一方で結末が唐突だった。こちらは序盤に勢いがあって、終盤で息切れする。傾向は似ているが、息切れの場所が違う。比較して読むと面白い。奇巌城の感想はこちら。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • ルパン物を何冊か読んでいて、ルパンが追い込まれる側に回る話を読みたい人
  • 悪役の造形や、頭脳戦で主人公が負ける場面の描き方に興味がある書き手や創作者
  • 大正期の翻訳文の勢いのある調子を楽しめる人。「ヌッと」「ドジ」といった語感がそのまま残っていて、読み慣れれば癖になる

逆に、栓という題名から緻密な暗号解読を期待する人、全員の動機が整然と回収される推理小説を求める人には向かない。読むなら、第二章の「九から八引く」の場面と、最終章のニコルとプラスビイユの対面。この二つの場面は、全体の出来を超えて読む価値がある。

読み方としては、まず第二章まで進んで、ドーブレクという敵に出会ってから先を続けるかどうかを決めるのがいい。そこで引き込まれたなら、中盤の説明の長さや終盤の駆け足は、欠点と分かったうえで許容できる。逆にそこで乗れなかったなら、後半に挽回の見せ場は少ない。最後の対面場面だけ先に読み、ニコルの正体とガラスの義眼の種明かしを知ったうえで、第一章から読み返すのも、眼鏡の描写を確かめる楽しみ方としてありだ。