結論:前半の腐臭は圧巻、後半の「反転」は上手い。ただし最後の一行は語り手の自己免罪に見える
葉山嘉樹の「淫売婦」は、読者の目を一点に縛りつけておいて、足元をすくう短編だ。蒸し暑い廃屋に横たわる全裸の瀕死の女、という絵の押しの強さは、プロレタリア文学の中でも指折りだと思う。反転の仕掛けも効いている。
ただ、読み終えて残るのは社会への怒りよりも、語り手の民平がいつの間にか「いい人」の位置に収まっていることへの引っかかりだ。社会派の入口として読む価値は高いが、読後に気持ちよく泣ける作品ではない。
最小限のあらすじ
一九一二年頃の横浜。船員の「私」(仇名は民平)は、酔って散歩中に三人の男に二分を取られ、南京町の奥の廃屋に連れて行かれる。薄暗い部屋には、肺結核と癌で死にかけた全裸の若い女が寝かされていた。義憤に駆られた民平は男たちを殴って女を救おうとするが、女の反応は思いもよらないものだった。
「淫売婦」の六神丸の比喩と反転の構成を読む:独自の深掘り
冒頭の「事実か幻想か」が仕掛ける保険
語りは、「それは事実かい、それとも幻想かい」と問われても、自分にもどちらとも云い切れない、という弁明から始まる。しかも十年間、思い出が濃くなり続けたという。この前置きは、後に続く光景があまりに極端でも、「語り手の記憶の中の話」として読者に飲み込ませる働きをする。同時に、語り手の見たものが本当に正しいのかを疑う足場も、最初に用意されている。後半の反転は、この足場があるから成立する。
六神丸の比喩が作品の背骨になっている
民平は廃屋の階段を昇りながら、ここは六神丸の工場で自分は生き胆を取られるのだ、と妄想する。そこから、命を救う薬が人を殺すことでしか成り立たないのは、ブルジョアが生きるためにプロレタリアの命が奪われる今の社会と同じだ、と考えを飛ばす。恐怖と思想が一続きの思考として出てくるので、説教臭さが薄い。この比喩はのちに女の姿にも重ねられ、彼女は「人を生かすために、人を殺さねば出来ない六神丸」と同じものとして描かれる。冒頭の妄想が結末まで効いてくる作りは、短編としてよくできている。
嗅覚と暗さで読ませる描写の力
部屋は「鰮の罐詰の内部」にたとえられ、リノリュームは「膏薬」のように床に貼りつき、電燈は落葉が蜘蛛の網にかかったようにぶら下がる。比喩はどれも汚れ物の質感を持っている。さらに、黴の臭いの上に嘔吐物と癌腫の悪臭が間歇的に鼻を衝く、と書かれ、読者は視覚より先に嗅覚で場面に引きずり込まれる。眼が暗さに慣れるにつれて女の姿が少しずつ見えてくる、という順序も巧い。
民平の自意識の暴露が一番の見どころ
この作品でいちばん正直なのは、民平が自分の欲望を白状する箇所だ。横たわっているのが全裸の男だったら、これほど長く留まっていただろうか、と彼は自問する。さらに、「ヒロイックな」自分を保つために、目だけは女の体を見ないよう必死になる。社会の犠牲者を前にした正義感の中に、性的な興奮と見栄が混ざっていることを隠さない。ここがあるから、のちの転落が笑えるし、痛い。
※ここから結末に触れます。
「淫売婦」の三人の男の正体と殉教者の結末への違和感:忖度なしの欠点
反転の後、女の声が急に説明役になる
民平が男を殴ると、女は「その人は外の二三人の人と一緒に私を今まで養って呉れたんだよ」と言い、「小僧さん。此人たちは私を汚しはしなかったよ」と続ける。男たちは搾取者ではなく、同じ「搾られた渣」だったとわかる。反転そのものは見事だが、その後の処理が惜しい。二度目の訪問で蛞蝓(男の仇名)が、皆が病気で、働きすぎて命を磨り減らした、とほぼ全部を台詞で説明してしまうのだ。前半が描写で押していただけに、後半の長い弁明は説明の抜けが目立つ。
男たちの行動の筋が通りきらない
蛞蝓は、素っ裸にして見世物にするのは「そうしなければ薬も飲めず卵も食えない」からだと言う。一方で民平は、薬を飲ませて裸にすれば差引零ではないか、と食い下がる。この疑問に、作品は納得できる答えを出していない。「それがどうにもならないんだ」で終わる。さらに、彼らは「ここに一緒に棲んでいる」と言った直後に、二度目の訪問では「皆家へ帰った」と言い、「そうすることもあるだろう」とかわす。幻想か事実かの曖昧さを狙った矛盾とも読めるが、物語の筋としては、男たちの人物像がぼやけたまま終わる印象が強い。
女の「そうっとしといて」が結末で回収されない
女が望むのは「このままそうっとしといて呉れること」だけだ。民平が期待した、逃げたい、警察へ、という願いは出てこない。ここは作中でも特に切実な箇所で、搾り尽くされた人間の諦めがよく出ている。ところが結末では、眠っている女を見て、民平は「淫売婦の代りに殉教者を見た」と言い、「被搾取階級の一切の運命を象徴している」とまで書く。女自身の言葉に答えず、語り手が象徴に仕立てて感動してしまう。ここが私にはいちばん引っかかる。
「俺は強かったんだ。だが弱かったんだ」の曖昧さ
一度目の訪問のあと、民平は酒を飲みながら、自分は打ち克った、しかし危うく資本家のような考え方をしそうだった、と自問自答する。この揺れはリアルだが、二度目の訪問で彼が渡す一円は、彼の涙と結びついて、ほとんど浄化の儀式として描かれる。「ヒーローから、一度に道化役者に落ちぶれてしまった」と自嘲していた語り手が、最後には泣く側に回り、読者に同情の席を用意してもらう。この終わり方は、作者が意図したよりも甘い。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
短い中で、語りの技巧、描写の濃さ、思想の入れ方がひと通り見られるので、プロレタリア文学の入口に向く。初出は一九二五年に「文芸戦線」に載ったと青空文庫の作家紹介にある。まず読むなら、より軽く読める「セメント樽の中の手紙」の感想と読み比べるのもよい。短く刺す「セメント樽」に対し、「淫売婦」は語り手の自意識が主役なので、同じ作家の違う顔がわかる。
一方で、女性の裸体と病の描写が長く続くため、そういう場面が苦手な人には向かない。また、思想を小説に入れる作品が好きな人は満足できるが、人物の整合性を重視する人は後半に苛立つはずだ。評価が割れるところまで含めて、読んで損のない一編だと思う。



