結論:題名で笑わせて、最後に読者の足元を抜く。ただし中盤は饒舌すぎる
国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」は、酒の席の他愛ない理想論争を、最後の数行で「お前は本当に驚いたことがあるのか」という問いに変える短編だ。題名から予想される思想小説の堅さはなく、前半は笑い声だらけの座談である。だが、核心の告白に入るまでが長く、中盤の恋愛談は物語として少し浮いている。短くて読みやすいが、万人向けではない。
最小限のあらすじ
冬の夜、芝の明治倶楽部の二階で、男たちがウイスキーを飲みながら「人生観」を語り合っている。そこへ遅れて現れた岡本誠夫は、北海道開墾に挫折して「牛肉党」になった上村の話を聞かされ、自分は牛肉党でも馬鈴薯党でもないと言い出す。彼が抱えているのは、ある「不思議な願」だった。
「牛肉と馬鈴薯」の意味と、岡本の「驚きたい願」を読み解く
牛肉と馬鈴薯は何の比喩か:理想と実利の二択を冒頭で笑い飛ばす
上村は「理想は喰べられませんものを!」と言い、理想を馬鈴薯、実際を牛肉に見立てる。若い頃は同志社出身の熱心なキリスト教徒で、札幌で開墾を始めたが、仲間の梶原に抜けられ、三月ほどで音を上げた。この告白が「貴様は馬鈴薯党だ」「いや牛肉党だ」というやり取りで運ばれるので、読者は思想の話を聞いている気がしない。独歩は最初に比喩を食べ物の次元まで下ろし、その後の抽象的な話を読ませる土台にしている。この導入の軽さは、短編としてかなり上手い。
近藤の「牛肉が最初から嗜きなんだ」が、三人目の立場として効いている
上村は主義で馬鈴薯を食べ、挫折して牛肉に転んだ人間である。近藤はそれを「薄志弱行」と切り捨て、「僕なんかは嗜きで牛肉を喰うのだ」と言う。主義ではなく嗜好だ、という開き直りだ。ここで二択がずれる。理想か実利かではなく、「主義で生きるか、そうでないか」に軸が移る。そこへ岡本が「主義という手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいう嗜好にも従うことが出来ません」と入ってくる。三人が並ぶことで、岡本の立場が「どちらでもない」ではなく「選ぶ土俵そのものを疑う」人だと見えてくる。登場人物の配置は、この作品の最大の構造的な強みだ。
岡本の願いとは何か:「喫驚したいというのが僕の願なんです」の本当の重さ
※ここから結末に触れます。
岡本は聖人や大哲学者、立派な政治家になる願いを並べては「これでもない」と退け、ようやく「喫驚したいというのが僕の願なんです」と明かす。聞いた側は「何だ! 馬鹿々々しい!」「落語か!」と投げ出すように笑う。ここが一番よくできた場面だ。岡本の願いは、宇宙の不思議を「知りたい」ことではなく、不思議な宇宙を「驚きたい」ことだと言い分けられる。毎日太陽を見て星を仰ぐうちに、生も死も「尋常茶番」になってしまう。この習慣の力を叩き落としたい、というのが彼の願いだ。
注目したいのは、彼が恋人の死すらこの願いの外に置いていることだ。少女に死なれた悲痛は「恋の相手の亡なったが為の悲痛」であって、死という事実そのものに驚いたわけではない、と自己分析する。愛する人の死より、自分の「驚けなさ」を重く見る。この冷たい自己点検が、座談の温度を一気に下げる。
「マサカ死うとは思わなかった」と最後の笑いが、読者に返ってくる
岡本は人間を「驚く人」と「平気な人」に分け、座にいる全員を後者に入れる。夢の中で死んだ自分が「マサカ死うとは思わなかった!」と叫んだ、という話は、誰もが死ぬ間際に同じことを言うだろう、という皮肉だ。この話を聞いた綿貫たちはまた笑い出す。笑っているのは「平気な人」だと岡本自身が言い切った直後なので、この笑いは読者の姿でもある。最後に近藤だけが岡本の顔に「言う可からざる苦痛の色」を見る。読者は彼の目を借りて、笑い声の背後に初めて気づく仕組みだ。
忖度なしの欠点:「牛肉と馬鈴薯」の恋愛談は必要だったのか
少女の自殺の挿話が、テーマに対して重すぎて浮いている
岡本の恋人お栄の話には、丸山で首を吊った別の女を目撃する場面が挟まる。「もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか」という予感の直後に、実際に女が木からぶら下がっているのを見つける。読者はこの女が恋人だと思うが、翌々日の新聞で別人だと分かる。小説的には強い見せ場だが、岡本の主張は「死に驚けない自分」だ。この場面は死に驚いた経験そのものであり、論旨と少し矛盾して見える。「死ちょう冷刻なる事実を直視することは出来なかった」と岡本は後から言うが、あの夜の戦慄を見せられた読者には、直視できていなかったとは読みにくい。主張と挿話が噛み合っていない。
岡本の演説が長く、中盤で話の速度が落ちる
「宇宙は不思議だとか」「聖人になりたい」と、否定の形で並べていく手つきは意図的だが、反復が多い。「これでもない」を重ねて焦らす構成は、最後の「喫驚したい」の落差を作るための助走である。ただ、助走が長く、落差が分かった後も同じ調子で語り続ける。作中の聞き手が「早く言いたまえ」「早く早く!」と急かしている以上、読者も同じ気持ちになる。作者は聞き手の苛立ちを演出として使っているのだろうが、それで退屈が正当化されるわけではない。
岡本の「驚きたい願」は、結局言葉だけで終わっていないか
岡本は最後に「単にそう言うだけですよ」と笑って引く。これは自己批判として潔いが、読者から見ると、願いの切実さを裏づける行動がない。強盗でも殺人でも構わないと言いながら、実際には酒場で語っているだけだ。この言行の落差を作品が自覚しているのは確かで、だから皮肉として成立している。それでも、岡本という人物が最後まで「語る人」に留まるため、感情移入しにくい。近藤の視点がなければ、ただの理屈っぽい酔客で終わっていた危うさがある。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、物語の起伏より「一つの問いが最後に反転する」仕掛けを楽しめる人だ。青空文庫で約1万7千字、岡本の告白と座談の掛け合いを一晩で読み切れる分量である。人物の対話劇が好きな人、明治の理想主義と挫折の空気を知りたい人にも合う。北海道への憧れという題材は、同じ作者の随筆的な作品「武蔵野」の自然への視線と並べると面白い。散歩エッセイとして読んだ感想は独歩「武蔵野」感想ネタバレ|小説を期待すると外す散歩エッセイにまとめた。
逆に、人物の成長や劇的な事件を求める人には向かない。結末で何かが解決するわけではなく、問いが残るだけだ。それを「消化不良」と感じるか「余韻」と感じるかが、この作品の評価の分かれ目になる。


