結論:中盤の回想だけが突出している。額縁の外側は、惜しいほど薄い
塩煎餅を噛み切る音に涙ぐむ子供。この一場面だけで、岡本かの子の「鮨」は読む価値がある。偏食の少年が母の握る鮨で初めて魚を食べる回想は、食べ物の描写としても親子の物語としても傑作の域だ。
一方で、その回想を包む「ともよと湊」の物語は驚くほど何も起こらず、結末も肩透かしである。回想に惚れ込める人には劇薬、筋の起伏を求める人には期待外れになる。
最小限のあらすじ
東京の坂と崖の多い街にある鮨屋「福ずし」。看板娘のともよは、常連の中でも謎めいた初老の紳士、湊(みなと)が気になって仕方がない。ある日、買い物先で湊と出会い、焼跡の空地で並んで休んだともよは、なぜ鮨を食べに来るのかと尋ねる。湊が語り始めたのは、食べ物を受けつけなかった幼い自分と、母の手製の鮨の記憶だった。
湊の偏食と母の鮨はなぜこれほど印象に残るのか:独自の深掘り
「ぺちん」という音に震える子供の描き方
回想の導入は、塩煎餅を前歯で噛み取る子供の描写だ。噛み破る瞬間に目を閉じて耳を澄まし、「ぺちん」という音の種類を聞き分け、ある調子の音に出会うと胴震いして涙ぐむ。食べ物を味ではなく音と手触りで受け取る子供だと、この数行で分かる。肉は絶対に近づけず、食べるのは炒り玉子と浅草海苔だけ。水晶の置物に舌を当てる行為まで含めて、「身が穢れる」という感覚が理屈ではなく身体で書かれている。偏食を性格の弱さとして描かないところが、この作家の手際だ。
母の「手品師」の手つきと、鮨が持つ意味
子供が追い詰められた末、母は新しい茣蓙、俎板、庖丁を揃え、薔薇いろの掌を手品師のように裏表に返して見せる。道具が新しいこと、作るのが母であること、手が洗ってあること。穢れを恐れる子供の不安を、先回りして一つずつ潰していく儀式だ。ここで鮨が選ばれる理由が、実に納得できる。握り飯の上に具を載せる鮨は、一口ごとに「何を入れるか」を子供に見せて選ばせられる。玉子焼から烏賊、そして鯛と比良目へ。白く透き通った身を飲み込んだ子供の「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」という実感は、征服感と歓びが同時に来る読みどころである。
「お母さあん」と呼ぶ、もう一人の母
この回想の骨は、鮨そのものより母が二人いるという構図にある。子供は空腹で倒れそうになると、生みの母とは別の「お母さあん」を呼ぶ。「すし! すし」と絶叫する子供に、母は「では、お客さまのお好みによりまして、次を差上げまあす」と応じ、鮨屋ごっこの形で食べさせる。母が握る手と子が掴む手が競争になる場面で、幻想の母と目の前の母が重なりかけ、「あまり一致したら恐ろしい気もする」と子供が感じる。この揺れが、ただの美談を超えた奥行きを生んでいる。
文章のリズムも見逃せない。鮨屋ごっこの場面では、子供の叫びと母の芝居がかった返事が短い応酬で重なり、読んでいる側も空腹の子供と同じ速さで息が詰まっていく。冒頭の街並みの説明が長く落ち着いた調子だっただけに、この切り替わりは効果が大きい。母の手が子の手と競うように鮨を握る動きは、食べさせる側と食べる側が同じ場面で必死になっていることを、説明抜きで伝えてくれる。
粗い形の鮨がかえって愛おしいという感覚も含め、短編でここまで食と母を結びつけた例は少ない。同じ作家の「老妓抄」と並べて読むと、食と執着の描き方の違いが見えて面白い(老妓抄の感想はこちら)。
※ここから結末に触れます。
湊の話の後で何も起きない結末への違和感:忖度なしの欠点
額縁が絵に負けている構成の偏り
全体は約1万4千字で、福ずしの客層の紹介と湊の回想にたっぷり字数を使っている。回想が終わった後の結末部は、わずか数百字だ。しかも回想の熱量に比べ、現在の場面は驚くほど平坦である。書き手として言えば、これは額縁が絵に負けている構成だ。回想を受けて現在の人物がどう変わるのかが、ほぼ書かれていない。
ともよの感情が回収されないまま終わる
前半でともよは、湊がよそを向き続けると物足りなく、視線が合うと危うさを覚える。盃を奪うのは「妙な嫉妬」だと地の文が言い切るほど、感情は丁寧に積まれている。ところが回想を聞いた後のともよは、「ああ判った。それで先生は鮨がお好きなのね」と納得するだけだ。嫉妬も惹かれも、あの長い告白で何も動かない。湊が去り、ともよが焼跡に佇み、やがてそれも止む。結末の「鮨屋は何処にでもあるんだもの」という諦めは、余韻としては悪くない。だが積み上げた感情の量に見合う着地とは言いがたい。
湊の人物像が、説明と回想で二重にぼやける
湊は職業不明で、アパートを転々とし、「二度目の妻が死んで」と回想の終盤で一行だけ明かされる。この一行はあまりに軽い。母への思慕が人生の核なら、妻や職業を通り過ぎる速度が速すぎて、湊が「母を恋しがるだけの人」に見える。しかも冒頭から湊の「憂愁」や「諦念」を地の文が先に説明してしまうため、回想が真相として働く前に答えが近くまで見えている。謎めいた客という魅力を、書き手自身が早めに削いでいる。
説明的な前半は、読み飛ばされやすい
冒頭の街並みと常連の紹介は、職業を並べた列挙が続き、風俗スケッチとしては面白いが、物語の推進力にはならない。ともよの両親の貯金や小鳥の道楽の話も、結末に効いてこない。回想の凄みを知ってから読み返せば意味が見えるが、初読の読者は回想にたどり着く前に集中を切らす危険がある。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、食べ物の描写に身体感覚を求める人、親子の関係を静かに描いた短編が好きな人、そして「老妓抄」など岡本かの子の他作品を読み進めたい人だ。青空文庫で読める長さなので、まず湊が語り出す中盤だけでも読む価値がある。
読む順番としては、前半の街と常連の紹介は流し読みで構わない。ともよが湊に鮨を食べに来る理由を尋ねる場面から腰を据えれば、一番おいしい部分を逃さずに済む。回想を読み終えたら、冒頭に戻ってともよの視線や湊の振る舞いを確かめ直すと、地の文が先に答えを近づけてしまっている点も、逆に伏線の置き方として見えてくる。二度目の読みで評価が少し上がるタイプの作品だ。
逆に、人物の関係が劇的に動く展開や、はっきり決着する結末を求める人には向かない。回想は傑作、物語としての全体は惜しい、というのが私の評価である。
初出は「文芸」1939(昭和14)年1月号。


