結論:地主を舞台に出さない設計は見事、だが争議の勝利があっさりしすぎた長編
小林多喜二「不在地主」は、題名どおり「地主が村にいない」という一点で、搾取の仕組みを小説の形にした長編だ。前半の村の描写は、機械的な説明に頼らず生活の細部で貧しさを見せていて、読む価値がある。一方で後半は、闘争の経過を説明する文章に追われ、物語が資料に近づいていく。農民文学として読むなら必読、小説の完成度で読むなら不満が残る。
最小限のあらすじ
舞台は北海道の石狩平野にあるS村。小樽に住む地主・岸野の農場で、小作人の青年・健は、病身の父と母、弟妹とともに貧しい暮らしをしている。凶作で収穫が半分に落ち込んだ年、小作人たちは小作料の減免を求めて立ち上がる。管理人・吉本や地主側に取り込まれた者が足を引っ張るなか、健は農民組合の人々と出会い、争議の中心へ入っていく。
「不在地主」の意味とは?構造から読む独自の深掘り
題名の仕掛けと冒頭の生活描写:「北海道の農村には、地主は居なかった」
この小説でいちばん鋭いのは、敵の位置の置き方だ。本文は「北海道の農村には、地主は居なかった。――不在だった。」と言い切る。地主は東京や小樽、札幌にいて「上り」の計算だけをし、村には農場管理人を置く。つまり小作人の目の前にいる悪人は、地主本人ではなく、管理人の吉本や、荒物屋の旦那、巡査、校長といった「顔の見える中間」になる。
吉本は「この村では、俺を地主だと思ってもらわにゃならん」と小作を集めて言う。本物の地主ではないのに、地主の顔をして振る舞う。この「代理の暴力」が、題名の不在とぴったり重なる。憎む相手が見えないから、小作人は身近な者同士で足を引っ張り合う。この構図を最初の数章で読者に飲み込ませる手際は、さすがだ。
冒頭は、少年・由三がランプのホヤを磨きながら半分泣いている場面だ。油がなくなり、母に「借りて来い」と怒鳴られ、店に行けば「もう貸さね」と言われる。この数ページだけで、現金のない暮らし、掛け買いに縛られる仕組み、姉が札幌へ「白首」になりに行くという噂まで、説明抜きで見せてしまう。
由三が兄の健に「犬ど狼どどっち強えんだ」と絵本の話をせがむ炉端の場面も、貧しさと子どもの無邪気さを同じ画面に置いて、効いている。会話は方言のまま書かれ、読みにくさと引き換えに、村の空気が立ち上がる。多喜二の文章はここでは、主張より先に生活を置いている。
搾取の連鎖をどう見せたか:荒物屋の「蜘蛛の巣」と五割の凶作
荒物屋の旦那は、小作人に掛け売りをして値を上乗せし、支払いを米や雑穀で受け取って、さらに転売で儲ける。本文は、小作人が「蜘蛛の巣」のように手繰り寄せられていると書く。信用購買販売組合ができれば、借金を盾に「恩知らず」と脅す。ここは一つ一つが具体的で、経済の説明が生活の苦さとして伝わってくる。
そして長雨のあと、収穫は「五割」減る。健が叫ぶ「五割! では小作は一体何のために働いたんだ。」は、この小説の核だ。半分しか穫れなければ、小作料だけで全部が消える。一年働いても残らないことを、理屈ではなく健の怒りで見せている。
「模範小作」健の揺れと、武田という鏡
健は「模範小作」で、徴兵検査を控え、青年訓練所にも通う。借金のある旦那に、挨拶しては自分で赤くなる。この小さな卑屈さの描写が、健を単なる闘士にしないでいる。
この「模範」の看板は、村の教育装置とも結びついている。青年訓練所では、校長や荒物屋の旦那が「修養講話」をするが、小作人たちは疲れて居眠りをする。軍隊の演習が村に来る場面では、健は「いくら食えなくても、小作人はジッとしていなければならない、ということの演習ではないか」と考える。一方、由三は馬を見て、兵隊に道を教えただけで誇らしがる。同じ演習が、兄には抑圧に見え、弟には憧れに見える。この二人の目の差が、村の世代の分かれ目をさりげなく示している。
対照的なのが武田だ。相互扶助会や青年団を通じて地主側に近づき、不作の相談を持ちかけながら、実は管理人に頼まれて来たらしいと健に見透かされる。健は「ああいうのば、犬ッて云うんだ。」と吐き捨てる。小作人の内部に裏切りが生まれる仕組みを、悪人の顔ではなく世間体の弱さで描いた点は評価できる。
この数字の見せ方は、後半の文体にもつながる。物語の途中に「情報、七」「情報、八」といった報告が挟まり、調停の席での判事と小作官のやりとりには「これは一字一句も直していない。」と書き添えられる。小樽新聞の見出しと記事が丸ごと挿入され、決議文は罫線の枠で囲まれる。文章が小説から機関紙に近づく、この大胆な混ぜ方は、当時のプロレタリア文学の実験として面白い。
※ここから結末に触れます。
結末の意味:なぜ健は節を断って旭川へ行くのか
岸野は、小樽で三十七日間の闘争のすえに屈服する。時は「一九二七年十二月二十三日、午後九時四十八分」と、分単位で記される。争議団は村へ帰る汽車のなかで、駅が近づくほど黙りこみ、伴が肱に顔をあてて泣き出す。勝利を叫ぶ場面ではなく、嬉しさをどうすればいいか分からない身体で終わらせた処理は、この長編でいちばん美しい。
その後、幼なじみの節に「嫁にでも直く行ぐんでなかったら、都会さ稼ぎに出れッてるんだども」と言われた健は、「俺……俺一緒にならない」と断り、旭川に出て農民組合で働き始める。村の中の幸せではなく、組織の側で動く道を選ぶという結末で、題名の「不在」に対する答えが出る。地主が不在なら、闘う側が村の外に出て連帯するしかない。健の転身は、この小説の理屈としては筋が通っている。
忖度なしの欠点・違和感:勝利が早すぎる、説明が先走る
「事態が変ってきた」の一行で争議が決着する
最大の不満は第十五章だ。それまで警察、判事、小作官、地主協議会が束になって小作人を押さえつけていたのに、「事態が変ってきた」の一文から急に潮目が変わる。岸野の工場にストライキの気配が出て、教育会が動き、他の資本家までもが「何んとかしてくれなければ」と言い出し、調停委員が立つ。勝因は並べられているが、どれも報告として列挙されるだけで、場面として描かれない。
三十七日の苦闘が、数ページで済んでしまう。小説の山場にあたる部分が、結果の通知に化けている。たとえば妻君たちが奥様に会いに行く場面は、新聞記事と伴の女房の談話という二重の伝聞で語られ、読者はその場にいない。前半の炉端やランプの場面が、においや音まで立ち上がっていたのとは、書き方がまるで違う。創作の視点から言えば、最大の敵を倒す場面こそ、人物の判断と代償を見せる箇所だ。ここが薄いと、前半の分厚い村の描写との釣り合いが崩れる。
主人公の健が、争議の中心にいるようで受け身
健は村では揺れ、小樽では「連絡委員」と入れ替わって女房たちを追って出る程度で、決定的な選択をする場面が少ない。演説会では阿部や伴、伴の女房が壇に立ち、健は聴衆の側で涙ぐむ。最後に旭川へ行く決意も、「一月も考えた」と本人の口から語られるだけで、そこに至る内面の変化は物語の外に置かれている。
これは『蟹工船』のように集団を主役にする方法なら成立する。しかしこの作品は健に視点を寄せ続けるため、中途半端な主役になっている。集団劇に徹するか、健を深く掘るか、どちらかに振り切るべきだった。
敵役が薄い:岸野は「悪」の記号になっている
地主の岸野は、酒盛りの場で庭先から「訓示」を与えてすぐ奥へ入る。娘は小作の家をのぞいて頭痛を覚え、「素敵だわ!」とランプに喜ぶ。ここは皮肉が利いている。しかし岸野の妻は小樽の場面で小作の女房たちに怒鳴るだけで、地主側の人間は最後まで「搾取する側」の役を出ない。
搾取の連鎖を説明する七之助の手紙も、小樽と村を比べて仕組みを教える長い講義になっており、人物が書いているというより作者が語っている。優れた分析ではあるが、物語の中では説教に聞こえる箇所だ。構造を教えたい気持ちが、人物の自然な声を押し出している。読者に知識を渡すことと、読者を物語に引き込むことは別の仕事で、この手紙は前者に偏っている。
節とキヌ、女たちの扱いが雑
節は健に断られ、「瞬間化石したように硬わばった」とあるだけで退場する。キヌは製麻会社へ出たのちバーの女給になったという噂でしか登場せず、七之助の手紙のなかで「あれだって可哀相なものだ」と整理されて終わる。女たちを貧しさの象徴として並べる手つきで、彼女らの内面は薄い。争議の場面で伴の女房が演壇に立つ描写の熱量と比べて、落差が大きい。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、『蟹工船』を読んで「集団の物語」の強さと限界を知り、同じ作者が農村を舞台にどう組み立てたかを確かめたい人だ。小作料、掛け売り、中間搾取といった仕組みを、生活の肌触りで理解したい人にも合う。北海道の開拓農民の現実を、本文に引かれた「移民案内」の文言と照らして読む楽しみもある。
逆に、起伏のある物語や、心理の深い主人公を求める人は、後半で退屈するだろう。まず『蟹工船』で作者の方法を知り、次に労働運動の弾圧を描いた『一九二八年三月十五日』、潜行する活動家を描く『党生活者』へ進むと、作者の見つめる場所の違いが分かる。この作品は、その前にあたる農村の一章として置くと座りが良い。
作者が巻頭に記した「仕事の合間合間に寝ころびながら読んでほしい」という願いどおり、読みやすさを狙った作品ではない。それでも、村の暮らしの前半だけで読む価値はある。
参考:集団劇の強さと限界は『蟹工船』の感想で詳しく書いた。



