結論:恋の山場は梅の下の一夜だけ。あとは田舎の人情劇として読むべき中編
伊藤左千夫「春の潮」は、『野菊の墓』のような一点突破の悲恋ではない。婿に出た男が三月で戻り、元の恋人と結ばれるまでの顛末を、村の噂と家族の説得で包んだ中編だ。
読みどころは第四章の、月夜の洗濯場で二人が一時間以上泣き合う場面に集中している。そこが抜群にいい分、後半の父の説得と汽車の別れは運びが雑に見える。恋愛の高揚を期待する人には満足、構成の緊密さを求める人には不満が残る作品だ。
最小限のあらすじ
養子に行った深田の家を、婚礼から三月余りで出て実家に戻った省作。原因は、前に結ばれかけて別れた隣家のおとよへの思いが消えなかったことにある。おとよは別の縁談を押しつける父と対立し、省作の兄は二人を一緒にさせると言い出す。村の噂と親の片意地の中で、二人は結ばれる道を探していく。
※ここから結末に触れます。
「春の潮」の魅力:省作とおとよの恋が効く理由を読み解く
九十九里の「春の音」が省作という人物を決めている
第二章に、物語とは直接関係のない風景の長い語りが入る。九十九里の波は年中鳴っているが、そこでは春の響きが人を動かす、と書かれ、この土地の人は沈痛な性質を欠くとまで言い切られる。そして「省作は泣いても春雨の曇りであって雪気の時雨ではない」と、人物の性格が地形と気候で説明される。
これは単なる情景描写ではない。深田を出る理由を自分でも「ここがこう」と言えず、母に問い詰められて黙るしかない省作の頼りなさを、読者に許させるための仕掛けだ。受け身の男を欠点としてではなく土地の気質として提示する。この処理があるから、後半で省作が何もしなくても、周囲が動いて話が進むことに違和感が薄まる。
梅の下の洗濯場――「灯のない場面」の書き方
第四章の再会は、この作品でいちばん強い。おとよは、風呂の流し水で洗濯をするという口実を作って夜更けの裏庭で待つ。月は倉の庇から上にしか差さず、梅も上半分にしか光を受けていない。光の配置が先に決まり、そこに白い手と水音が置かれる。
肝心の再会の瞬間は、「おとよさん」という幽かな声と、「待ったでしょう」の一言ですぐ過ぎる。語られるのは、そのあと二人が何も話せず、省作の膝にとりすがって泣き続けることだ。灯がないので顔も見合わせられない、と書く。恋の成就を台詞で説明せず、泣くことしかできない状態で見せたのは、書き手として正しい判断だと思う。直前に、おとよが「おおえいかおり」とだけ漏らす一行があり、梅の匂いが場面全体の温度を決めている。
薊の説得は「理屈屋に理屈で勝つ」芝居として面白い
第十二章の、はずれの旦那こと薊と、おとよの父の酒席が後半の見せ場だ。薊は、親の言うことを間違いないと決めてかかるのが大間違いのもとだと切り出し、父が淫奔だ親不孝だと言うたびに、親不孝なのはむしろあなたのほうだと論点を返していく。
面白いのは、理屈で押しきった薊が、最後は自分で怒って帰ろうとする点だ。父が筋道を持ち出し、「親の顔が立ちさえすればえい」と言った途端、薊は「自分の顔の事ばかりいってる。おれの顔はどうする」と席を立つ。語り手が「薊の狂言はすこぶるうまかった」と評し、お千代が泣いてすがる流れも込みで、説得ではなく芝居で片意地を折る。頑固な人間を理詰めで動かさず、顔を立てる形を作って降ろす、という農村の知恵がよく出ている。
省作の兄という脇役が、物語の重心を支えている
第二章の種井浚いの夜、兄は酒を注がせながら、突然「おとよさんと一緒になると決心してしまえ」と弟に告げる。母や家の者が大反対の中で、婿に行く話をやめろ、おとよさんは少しぐらいの財産に替えられる女ではない、と言い切る。語り手も「兄は見かけによらず解った人であった」と置く。
のちに御蛇が池の章で、兄が五、六年かけて貯めた千五百円を弟に渡すと言っていたことが、省作の台詞を通して明かされる。村人から欲が深いと言われた蓄えが、ここで弟の門出に回る。口数の少ない人物の一言と金額だけで人柄を立てる書き方は、台詞の少ない田舎の人間を描くお手本のようだ。主人公二人よりこの兄のほうが印象に残る、と感じる読者もいるだろう。
「春の潮」の欠点:結末が駆け足で、おはまの涙が主役を食う
父の片意地が、一晩の酒で解けすぎる
第六〜八章で、おとよの父は縁談を断られて激昂し、殺してしまうと騒ぎ、奉公に出せと食卓のたびに言う。ここまで時間をかけて固めた片意地が、第十二章で薊が一晩酒を飲み交わしただけで「それほどいうなら任せよう」に変わる。条件は二年のうちに省作が家を持てなければ父の心のままになる、というものだ。
この条件自体は現実的で悪くない。ただ、父の側の心の動きが一行も描かれていない。薊の言葉のどれが効いたのか、父が何を呑み込んだのかが見えないので、読者は説得の面白さだけで納得させられる。直前まで丁寧に積んだ対立が、外から来た仲裁役に片づけられるため、親子の物語としては消化不良が残る。
省作の受け身が、最後まで物語の推進力にならない
省作の「わたしの方で厭になっちまったんでさ」という理由は、作者自身が「ここがこうと明瞭に意識した点はない」と書いて済ませている。その後も、手紙の返事は簡単、兄に言われて決心し、薊とお千代の根回しで話が決まる。省作が自分で何かを賭ける場面が、ほとんどない。
受け身の青年を描くこと自体は構わない。しかし、おとよは縁談を拒み、父に泣いて頭を下げながら折れず、周囲を動かす意志を示している。相手役がここまで能動的なのに、省作は周囲の好意を受け取るだけで、二人の恋を対等に見せる力が足りない。語り手が「社会というものは意外ばかなことをやっている」と議論で補う箇所が出てくるのも、人物の行動で見せきれていない証拠だと思う。
おはまの涙は強いが、最後に置くには出遅れている
最終章の汽車で、おはまは八街の手前から人目も憚らず泣き出す。省作の家に十三の春から四年いた娘が、思いを自覚しないまま省作に惹かれていたことが、ここで初めて表に出る。省作が時計を与えようと考えるくだりまで含めて、この場面は感情の質が高い。
だが伏線が薄い。第二章で村人が「同病相憐む」と冗談にし、省作の肩をそっとつねる仕草が一度出るだけで、おはまの心はほとんど書かれてこなかった。にもかかわらず、物語は「二人はここで降りるんだ」という省作の一言で終わる。二年後の約束も、省作の東京での暮らしも描かれないまま、恋の成就よりおはまの涙の印象が残る。主役を食うほど魅力的な脇役を、最終章まで温存したのは構成上の失敗だ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
悲劇に終わる『野菊の墓』を先に読んだ人が、同じ作家の「恋が成就へ向かう側」を見たいときに向く。順序としては、野菊の墓の感想を読んでから本作に入ると、省作の優柔不断と土地の気質の描き方の違いが際立つ。短編で読みたければ、隣の嫁の感想も参考になる。
逆に、緻密な伏線や心理の決定的な転換を求める人には、薊の手腕に頼った後半と唐突な幕切れは薄味に映る。全体で約四万字あり、山場は第四章と第十二章に偏る。まず第四章の洗濯場を読み、そこで心を掴まれたら最後まで付き合う、という読み方が現実的だ。
底本は集英社文庫『野菊の墓』、初出は「ホトトギス」1908(明治41)年4月号(青空文庫の図書カードによる)。


