結論:有名なのは前編の数ページだけ。全体は未完の長丁場で、読む人を選ぶ
尾崎紅葉「金色夜叉」は、熱海の浜辺で男が女を蹴り飛ばす場面ひとつで文学史に残った小説だと思う。その一場面の熱量は本物で、今読んでも胸ぐらを掴まれる。ただし、青空文庫版で約26万字ある本文のうち、その熱量が保たれているのは前編までで、中編以降は筋が広がり、最後は手紙の途中で終わる。名場面を目当てに読むなら前編だけで十分、全編に付き合うなら覚悟が要る作品だ。
最小限のあらすじ
舞台は明治。孤児の間貫一は、鴫沢家の居候として育ち、一人娘の宮と許嫁同然の仲にある。そこへ、大きな金剛石の指環を光らせる銀行家の息子、富山唯継が現れ、宮を嫁に望む。宮は富山の財力を選び、熱海の海岸で貫一に詰め寄られても、はっきりした答えを返さない。裏切られた貫一は姿を消し、数年後、金貸しの世界に身を置く男として再び現れる。
※ここから結末に触れます。
金色夜叉の名場面「今月今夜」はなぜ心に刺さるのか:独自の深掘り
「来年の今月今夜」という日付の縛り方
熱海の場面で貫一は、こう言う。「一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!」。この台詞が強いのは、恨みの言葉でありながら、日付と月という具体物に感情を結びつけているからだ。「一生恨む」と言うのは簡単だが、「来年の今夜、僕の涙で月を曇らせる」と言われると、宮は毎年その夜が来るたびに月を見上げるしかなくなる。呪いが、暦と天体に埋め込まれる。
しかも貫一は「来年」「再来年」「十年後」と年を刻みながら言う。文のリズムが数え歌のように積み上がり、最後に「死んでも僕は忘れんよ」と落ちる。創作者の目で見ると、これは感情を爆発させているようで、実は計算された段積みの構造になっている。だから暗唱されやすく、芝居や歌で何度も使われたのも納得できる。
骨牌の会で「金剛石」が連呼される場面の巧さ
物語の入口、箕輪家の歌留多会で、紳士の指環が噂になる場面が見事だ。三百円という値が娘から娘へ伝わり、「金剛石!」「うむ、金剛石だ」「まあ、金剛石よ」と、三十人以上が口々に唱え始める。人ではなく、指環が主役になるわけだ。
ここで紅葉は、富山の人柄を一行も褒めない。ただ、群衆が石に目を奪われる様子だけを書く。金の力が人の目と口をどう変えるかを、集団の声で見せる手際は、後に宮が選ぶ道への巧い伏線になっている。一方で、宮だけは騒がず、涼しい目をしている。彼女がこの時点で、周囲と別の何かを見ていたと読むこともできる。
宮は本当に金に目がくらんだのか:沈黙の描き方
熱海で貫一に問い詰められた宮は、肝心の質問に答えない。「私は貴方の事は忘れはしないわ」「きっと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」と繰り返すだけだ。婿が不足なのか、財産が欲しいのかと選択を迫られても、彼女は口を開かない。
この沈黙は、読者に宮の内面を想像させる仕掛けとして成功している。貫一は答えの無さをそのまま「慾だ」と断定するが、読者は断定できない。親の意向、断れない家の事情、本人の迷いが、答えの空白に混ざっている。ただ、その空白を後でどう埋めるかは、後半の読み味を大きく分ける。この点は欠点の節でも触れる。
新聞連載という形が生んだ、作者と読者の距離
青空文庫の底本の注記によると、初出は「読売新聞」の連載で、1897(明治30)年1月1日から1902(明治35)年5月11日まで。足かけ数年にわたる長期連載だ。中編の途中には、読者から届いた葉書への返答が、作者自身の文で挟まれている。「美人クリイム」という語の振り仮名について、読者の指摘に礼を述べ、造語の意図を説明する一節だ。
小説の本編とは関係のない、作者の声が紙面にそのまま残っているのは、連載小説ならではの面白さだ。同時に、書きながら読者に反応していた作品だと分かる。この「生きた連載」の気配が、物語が後半に向かって膨らんでいく理由の説明にもなる。
被害者が金貸しになる皮肉:貫一の転身という設計
この小説の設計で一番うまいのは、金に裏切られた男を、金を扱う側へ移した点だと思う。貫一は宮を奪った「金の力」を憎みながら、自分も高利貸の世界で金を動かす人間になる。恨みの対象と同じ道具を握ることで、復讐が成り立つ一方、本人の中では矛盾が育っていく。学友たちが噂する「高利貸の才取」という肩書きの響きが、熱海の夜の貫一とどれほど遠いかを、読者は前編の記憶と並べて測ることになる。
単なる悲恋なら、貫一は失意のまま沈めば済む。紅葉は彼を職業人として社会に再配置し、愛と金の問題を一人の心の中ではなく、世間の仕組みの中で描き直そうとした。この野心は買える。ただ、その野心の大きさが、後の「焦点の拡散」という弱点と表裏一体になっている点は、次の節で述べる。
金色夜叉の欠点・違和感:なぜ未完で中だるみと言われるのか
貫一の長広舌は、泣いている男の言葉としては理屈が整いすぎている
熱海の場面は、後半に入ると貫一がひたすら説教を始める。「雀が米を食ふのは僅か十粒か二十粒だ」と、金と幸福の関係をたとえ話で延々と説く。内容は筋が通っているし、愛情のない結婚の空しさをここまで言葉にした点は評価できる。
だが、直前に涙を流し、頭が裂けそうだと崩れ落ちた男が、直後に整然と論を立てるのは不自然だ。感情が爆発した場面の中に、演説会のような理屈が混ざり込み、熱が一度冷める。蹴り飛ばす場面に至る落差は劇的だが、そこまでの助走が説明過多で、感情の流れとして連続していない。名場面として引かれるのが「今月今夜」の台詞ばかりで、この長い演説が顧みられにくいのも、無理はないと思う。
文語体の地の文が、場面の勢いを削ぐ
冒頭、正月の夜の街と風を描く文章は、段落の終わりまで句点がほとんど入らず、ひとつの文が長く続く。寒さと静けさを伝えたい意図は分かるが、読み手は人物に会うまでに、まず文体の壁を越えなければならない。青空文庫版は旧仮名遣いのままなので、現代の読者にとってはなおさらだ。
会話の部分は読みやすいのに、地の文との落差が大きい。この落差が、読書のリズムを何度も切る。現代語訳や注釈付きの版で読むのが無難で、最初から原文で読み通そうとすると、前編の途中で息切れする人が出ても不思議ではない。
中編以降、物語の焦点が拡散して未完のまま終わる
中編になると、新橋停車場で荒尾たち学友が語り合う場面から、貫一の消息が噂として浮かび上がる。学友たちは「高利貸の才取とか、手代とか」と貫一の噂をする。四年のあいだ音信を絶った貫一は、親友の荒尾の出発を人混みの陰から見送る。ここは情緒があって良い。
しかし、その後に赤樫という婦人が加わり、保険建築会社の件などの金貸しの案件が絡んでくると、物語の軸が「宮への恨み」から、金貸しの仕事と人間模様へ広がる。登場人物が増えるほど、前編にあった一点集中の緊張が薄まる。そして青空文庫版の最後は、宮が書いたとみられる長い手紙の途中で、ぷつりと終わる。手紙には、夫の唯継の放蕩や、姑の優しさに対する後ろめたさ、自分の命の弱りが綴られているが、貫一との対面は描かれない。
連載が足かけ数年に及んだこと、作者が1903年に亡くなったことを考えれば、未完は事情として理解できる。ただ、読者として厳しく言えば、前編で張った「宮はどうするのか」「貫一は何になるのか」の問いに、作品は最後まで答えていない。26万字を読み切った後に残るのは、完結の充足ではなく、中断の余韻だ。
貫一が宮を蹴る場面を、現代の読者はどう受け止めるべきか
浜辺で貫一は宮の弱腰を蹴り、倒れた宮の膝は血に染まる。それでも宮は追いすがり、「蹴られても可いわ」と言う。物語はこの暴力を、宮が償うべき罰として配置している節がある。
現代の読者がこれを純愛の劇として素直に受け取るのは難しい。名場面として評価するのと、肯定するのは別の話で、この場面の凄みは、男の被害意識と暴力の勢いが一緒に出てしまっている点にあると見るのが誠実だと思う。宮の側の事情が最後まで語られないため、一方的な裁きに見える危うさが残る。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 「今月今夜のこの月」の台詞の出典を、一度は原文で確かめたい人。前編の熱海の場面だけを読めば足りる
- 金と愛情をめぐる明治の価値観を、物語として味わいたい人。冒頭の歌留多会から熱海まで、前編を通しで読むのがよい
- 未完の長編でも構わず、連載小説の勢いと揺れを楽しめる人。中編以降も腰を据えて読める
- きれいに完結した物語を求める人には勧めない。結末の充足を期待すると、読後に肩透かしを食う
読み方の順番も書いておく。最初の一歩は、冒頭の歌留多会の場面と熱海の浜辺の二か所だけを拾い読みするのがよい。前者で「金剛石」に群がる人の目が、後者で貫一の言葉の熱が分かる。そこで文体に慣れたら、中編の新橋停車場の場面へ進む。貫一が姿を見せずに友を見送る場面は、前編の激情とは別の静かな痛みがあり、続きを読む価値があるかを測る試金石になる。ここで退屈なら、そこで降りて構わない。完結しない作品である以上、読み終えること自体を目標にしないほうが、この小説とはうまく付き合える。
まずは前編、とくに第八章の熱海の浜辺だけを読み、そこで続きに引かれるかどうかで判断すればいい。名場面の強さは本物だが、作品全体の完成度とは別の話だ、というのが私の評価である。
