次郎物語の感想ネタバレ|第一部は傑作、だが説教が重い

結論:愛されない子の記録として今も刺さる。だが、大人の理屈が子どもを追い越す瞬間がある

下村湖人「次郎物語」の第一部は、「母に愛されない次男坊」という一点を、最後まで逃げずに書き切った小説だ。主人公の次郎が悪さをし、嘘をつき、それでも愛を求め続ける姿は、九十年近く前の作品とは思えないほど生々しい。

一方で、作者が教育者であることが、物語の随所で顔を出す。親の言葉が正しすぎて、子どもの混乱を追い越す場面では、小説が教材に変わる。読む価値は高いが、手放しの絶賛はできない。

最小限のあらすじ

次郎は、本田家の次男として生まれる。母のお民は、長男の恭一を溺愛し、次郎を「お猿さん」と呼ぶ乳母のお浜に預けてしまう。校番の家で育った次郎は、やがて実家へ連れ戻されるが、母にも祖母にもなじめない。兄と弟に挟まれた次郎が、愛情を求めてもがきながら成長していく。

次郎物語の魅力とは?愛の飢餓を描く構造を解剖する

冒頭の「お猿さん」が、物語全体の傷を先に見せている

第一章の冒頭は、台所での口論だ。乳母のお浜と、母のお民が、次郎をどちらが預かるかで言い争う。お浜は「あんな猿みたいな子」とまで口にする。主人公の誕生が、人間の都合による押し付け合いから始まるのだ。

この始め方はうまい。作者は、次郎が愛されない理由を、本人の性格ではなく、周囲の大人の都合として最初に提示してしまう。のちに次郎が乱暴を働くたび、読者は「この子は最初から損をしている」という前提を忘れられない。しかも、その直後に「三四ヵ月もたつと、彼女の愛情は、もうすっかり恭一から次郎の方へ移ってしまっていた」と書いて、お浜を単純な悪役に固定しない。人物の振れ幅を、冒頭の数ページで見せている。

お鶴のあざと喜太郎への噛みつき:子どもの乱暴をごまかさない

第二章では、五歳の次郎が、お浜の娘お鶴の頬にあるお玉杓子の形のあざに指を伸ばす。笑われて気まずくなった次郎は、ままごと道具を蹴散らし、お鶴の頬をつねり上げる。作者は、この行動に説明をつけすぎない。「男の子供というものは、きまり悪くなると、時として、妙に乱暴な気分になるものである」と、軽く言うだけだ。

ここが、教訓臭くなりがちな児童文学との大きな違いだと思う。次郎は、かわいそうな被害者として描かれるだけではなく、弱い者に手を出す加害者でもある。そのうえで、次郎を投げ飛ばした勘作に、お浜が箒を振り回して襲いかかる。大人の愛情の暴走まで含めて、一つの場面に収めている。

もう一つ、学校に通うようになった次郎は、年上の喜太郎の膝頭に噛みつく。親の庄八が怒鳴り込む構えを見せると、父の俊亮は金で解決しようとする妻を押しとどめ、「正しいと思ったら、どんな強い者にも負けるな。しかし犬みたいに噛みつくのはもうこれからは止せ」と次郎に言う。

この場面が優れているのは、俊亮が噛みつきを全面的に肯定していない点だ。「梅干ほどの肉がちぎれているとすると、親としては腹も立つだろう」と庄八の側も認めたうえで、「お互に子供だけは、金でごまかせない男らしい人間に育て上げようじゃないか」と持っていく。説教なのだが、相手の立場を一度受け止めているので、嫌みが薄い。次郎が「親分」という言葉を父にふさわしいと感じる流れも自然だ。

お鶴の頬をつねる場面と、喜太郎に噛みつく場面を並べると、作者の設計が見えてくる。どちらも次郎が先に手を出すが、前者では乳母のお浜が感情のまま箒を振り回し、後者では父が相手の痛みを認めながら筋を通す。つまり同じ「乱暴な次郎」に対して、感情で動く大人と、理屈で受け止める大人を対にして見せているのだ。次郎が誰の愛情を信じ、誰を疑うのかは、この対比の積み重ねで読者に伝わる。書き手の目で見ると、事件を二つ用意して大人の側を変える、無駄のない配置だと思う。

家の売立を見つめ続ける次郎の目

中盤の山場は、家の没落を描く「長持」「売立」の章だ。俊亮が二階の長持から刀剣や軸物を少しずつ持ち出し、やがて大っぴらな売立になる。次郎は、母に叱られても座敷に戻り、品物が誰の手に渡るのかを見続ける。

この「見ている子ども」の視点が秀逸だ。大人たちの狼狽を、次郎は説明なしに観察するだけで、意味は読者が拾う。売立が終わった夜、正木のお祖父さんに「面白かったのか」と聞かれて「面白くなんかありません!」と憤然と答える場面には、説明できない感情を言葉にできない子どもの姿が出ている。

※ここから結末に触れます。

第一部の結末「母の臨終」は、なぜ読者の心を動かすのか

売立ののち、次郎は正木のお祖父さんの家に預けられる。そこで病床に就いたお民が、乳母のお浜を呼び寄せ、「子供って、ただ可愛がってやりさえすればいいのね」と告げる。母はずっと次郎に冷たくあたってきたが、死を前にして初めて、次郎に心の中で謝っていたことを打ち明ける。

ここで作者は、涙の量で泣かせようとはしない。臨終の場面の次郎は、不思議なほど涙が出ない。「石のように坐っていた」彼が、肩を叩かれてようやく畳に突っ伏して声をあげる。感情の爆発を、周囲の大人の声が呼び戻す形で描いたことで、静けさがかえって痛い。さらに、母の死後、次郎は夜の庭で北極星を見上げる。この星は、正木のお祖父さんが夜道で教えてくれた、「いつまでも動かない星」だ。冒頭近くの伏線が、母の顔と重なる形で回収される。

次郎物語の欠点・違和感:説教臭さと「母の改心」の唐突さ

お民の変化が、物語の都合に見える

最大の違和感は、お民の改心だ。第一部を通して、お民は、次郎に冷たく、恭一や俊三をひいきするだけでなく、孟母三遷の教えにかこつけて次郎を校番の家に預けるなど、理屈で子育てをする人として描かれていた。その人物が、臨終の床で一気に「ただ可愛がってやりさえすればいい」という境地に達するのは、書き手として見ると少し急だ。

死が近づいて悟る、という構図そのものは強い。だが、それまでの積み重ねの中に、母の揺らぎを示す小さな場面がもう少し欲しい。母の変化が、次郎の救済に必要だから起きたように見えてしまうのは、構成上の弱さだと思う。

たとえば、売立の最中に座敷へ戻る次郎を叱る母の場面に、叱りながらも目で次郎を追っている、といった一瞬の描写があれば、臨終の告白は唐突さを失い、「実はずっと気にかけていた」という言葉に裏づけが生まれたはずだ。今のままでは、告白の重さを読者が自力で補わなければならない。創作をする側としては、感動の山を作る前に、その山の麓に小さな伏線を置いておく手間を惜しんだ印象が残る。

地の文が結論を先に言ってしまう

第三十九章の次郎の心情には、「彼はかれ自身で知らない間に、彼自身の心から永い間の猜疑心をとりのぞいていた」という説明が続く。次郎が母の真心に触れて変わった、という要約は、臨終の場面を読めば伝わる。それを地の文がもう一度言葉にするので、余韻が削られる。ラストの、運命に影を与えられ、愛によって不死の水を注がれる、という一文も、美しいが抽象的で、子どもの目線を離れてしまっている。

対照的なのが、前半の「お猿さん」や売立の場面だ。そこでは次郎の内面がほとんど説明されず、行動と短い台詞だけで感情が伝わっていた。後半になるほど地の文が理屈を引き受けるようになり、せっかく育てた「見ている子どもの視点」が薄れていく。文体の方針が途中で変わったように感じる読者は、少なくないはずだ。

あとがきの「弁護」が、作品の説得力を弱めている

巻末の「あとがき」には、原稿を読んだ知人から「次郎は変質者だね」と言われ、作者が「食物の飢餓」と「愛の飢餓」が人を荒れさせるのだと次郎を弁護する箇所がある。作者の誠実さは伝わるが、この説明は本文だけで十分に伝わることを、作者自身が理屈で補強している。作品が伝えたいことを、作者が先回りして語ってしまっているわけだ。物語として読みたい人は、あとがきを飛ばしてもよい。

「ここで終わる」と書かれた第一部と、続きの扱い

第一部の結びは、「『次郎物語』は一先ずここで終る」と作者自身が断っている。この潔さは好ましい。ただし、全体を通して読むと、第二部以降は長大で、青空文庫では第五部まで別のファイルとして公開されている。第一部だけで完結したように読める出来である分、続きを読むかどうかは、読者の好みに任されることになる。第一部の完成度が高いぶん、後続の部と比べられやすいという点は、あらかじめ覚えておいてほしい。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 親との関係に、うまく言えない引っかかりを抱えて育った人
  • 子育ての最中で、「叱る」と「愛する」の境目に迷っている親や教師
  • 明治から大正期を思わせる地方の暮らしを、子どもの目線で読みたい人
  • 児童文学を読み慣れていて、教訓を含む長編にも付き合える人

逆に、心理描写のひねりや構成の仕掛けを楽しみたい人には、いささか素直すぎる。だが、愛されなかった子どもが、ほんの少しの真心で世界を見直すまでの道のりは、今読んでもよくできている。読む順番としては、あとがきを最後に回し、本文の第一部を一気に通すのがおすすめだ。「お猿さん」と呼ばれた子が、母の臨終を経て北極星を見上げるまでを一続きで読むと、前半に置かれた小さな場面がどう効いてくるのかが分かる。まずは第一部だけを読み、「お猿さん」から「北極星」までの距離を確かめてほしい。続きを読むかどうかは、そのあとで決めればいい。