泡鳴「耽溺」感想ネタバレ|最低な語り手から目が離せない

結論:好感度ゼロの語り手に最後まで付き合わされる、後味の悪い一級品

岩野泡鳴「耽溺」は、読み終えて誰かを好きになれる小説ではない。語り手の「僕」は身勝手で、見栄っ張りで、妻の着物を質に入れてまで芸者に金を送る男だ。それでも読み進めてしまうのは、その最低な男が自分の最低さを、ほとんど言い訳なしで書き切っているからである。

青空文庫で約5万8千字。物語の山場はあるが、筋の面白さで引っ張る小説ではなく、人物造形の弱さや後半の失速も目立つ。「きれいな恋愛小説」を期待する人には劇薬、近代文学の「私小説的な告白」の原型を味わいたい人には必読の一冊だ。

最小限のあらすじ

脚本を書くため、作家の「僕」(田村義雄)は夏の国府津に滞在する。隣の料理屋・井筒屋の芸者、吉弥と深い仲になった僕は、彼女を女優に仕立てると約束し、東京の妻子を放り出して入れあげる。吉弥には身受けを申し出る男が何人もおり、僕の金も心も彼女のペースに飲まれていく。

※ここから結末に触れます。

「耽溺」の意味と語りの構造を読み解く:なぜこの最低な男の独白が読ませるのか

吉弥は「悪女」というより、語り手の目に映った像にすぎない

吉弥の第一印象は、色が黒くて、ひどく無作法な女だ。「あまり色が黒いので、僕はいや気がした」と語り手は書く。ところが数章後には、湯上がりの彼女を「見ちがえるほど美しかった」と書いている。つまり吉弥の評価は、僕が惚れた度合いに比例して上下する。読者は吉弥という人間を見ているのではなく、僕の欲望の温度計を見せられている。

この仕掛けは、泡鳴の書き手としての腕が最もよく出た部分だ。僕は吉弥を「見ず転の骨頂」と軽蔑しながら、同じ頁で「自分の自由になるものは、…人間であれば、いかなお多福でも、一層可愛くなるのが人情だ」と所有欲を認める。軽蔑と執着が矛盾なく並ぶ。人間の嫌な部分を、弁解せず並べる文章の強さがある。

「女優にする」という口実は、いつ嘘になったのか

女優問題は、最初は僕が自分を正当化する看板として置かれる。やがて吉弥の側が、身受けの道具としてそれを利用する。お袋も「入費は一切先生から」と念を押す。双方が相手の看板を承知の上で使い合い、誰も信じていない。

決定的なのが、第十八章の手紙の場面だ。僕が先輩に金を無心する手紙を書く横で、吉弥は下手な仮名文字で別の男へ手紙を書く。僕はその宛名を、自分の手で封筒に書いてやる。自分の恋の敵に宛てた封筒の宛名を、惚れた女のために代筆する。この屈辱の描写は、本作でいちばん痛い。笑える場面なのに、笑った直後に胸が冷える。

「まだ耽溺が足りない」という一行が示す、この小説の正体

終盤、僕は妻のヒステリーと吉弥の眼病を並べて、「向うが黴毒なら、こちらはヒステリ――僕は、どちらを向いても、自分の耽溺の記念に接しているのだ」と考える。そのすぐ後に来るのが「まだ耽溺が足りない」という一行だ。反省の場面のはずなのに、出てくる結論は「もっと沈みたい」である。

これは悔い改めの物語ではない。第二十四章には、レオナルド・ダ・ヴィンチを紹介する原稿を書く僕が「デカダンはむしろ不安を不安のままに出発するのだ」と書く箇所がある。実生活の失敗を、思想の言葉で正当化し直す。泡鳴が自分の「耽溺」を、批判でも賛美でもなく、そのまま標本にしている点が、この作品の骨格だと思う。

同じ自然主義の告白小説でも、田山花袋「蒲団」は三人称で、主人公の未練を少し離れた位置から眺める。「耽溺」は一人称なので、言い訳も自己憐憫も、語り手の口から直接流れ込んでくる。読者は僕を裁く立場に置かれず、僕の理屈に半分つき合わされたまま、気づけば呆れている。この距離の近さが、読後の居心地の悪さの正体だ。

国府津の「反動」の章が効いている:噂が事実を追い越す怖さ

僕が東京に帰ったあと、国府津では評判が一変する。最初は堅い先生だったのが、噂のなかで「土地の人の金をしぼり取った男」にされる。青木と田島は失望の恨みから話を誇張し、住職への復讐にまで話が膨らむ。しかも、その渦中に取り残されるのは僕ではなく、のこのこ出てきた妻だ。

ここで初めて、僕の身勝手が他人の身体に跳ね返る。語り手が不在の場面を、人づてに再構成して書く手法も効いていて、僕の責任の外側で事態が動いていくのが生々しい。

面白いのは、この章で僕が一度も「悪かった」と言わないことだ。噂が膨らむ様子は、書き手として見ると、語り手の一人称を保ったまま「他人の視点」を差し込むための工夫でもある。吉弥に溺れた前半は僕の主観一色で、読者は彼の熱に巻き込まれる。ところがこの章で初めて、僕を外から見た像が提示され、前半に作られた「僕の言い分」が静かに相対化される。語りの信用を、語り手以外の声で崩していく手順は、よく計算されている。

忖度なしの欠点と違和感:結末が「尻すぼみ」に見える理由と、妻の描き方の甘さ

千束町の再会は、物語としては「宙づり」で終わる

結末は、吉弥こと菊子の家を僕が二度訪ねる場面だ。彼女は黒い眼鏡をかけ、病気が悪化している。僕は友人を連れて「復讐に出かけるような意気込み」で乗り込むが、結局、相手の弱った姿を前に、何も解決しないまま「『さようなら』を凱歌のごとく思って」立ち去る。

凱歌と言いながら、僕は何一つ勝っていない。女優の約束は放り出され、妻は病床にあり、金の算段はついていない。この「勝てていないのに勝った気になる」という皮肉は分かるが、構成の面では物足りない。国府津の修羅場が派手だったぶん、東京に戻ってからの終盤の数章は、場面の密度が落ちる。出来事が少ないまま、僕の内省ばかりが続くからだ。

後半の理屈っぽい独白が、前半の生々しさを薄める

前半の会話は抜群にいい。吉弥の「あたい、賛成だ、わ」といった語尾、お貞の押し付けがましい愛想、取り返しに来た青木に吉弥が言い返す「貰った物ア返しゃアしない」。人物が声で立っている。

ところが後半、僕の独白が増えるにつれて、メレジコウスキの小説の紹介、デカダンの定義、新体詩の引用といった、語り手の「理屈」が場面を押しのける。「鬼よ、羅刹よ、夜叉の首よ」と歌い出す第二十章の夜は、神経の過敏さを見せる意図は分かるが、前半の会話の鮮度に比べると、観念が先に立ちすぎていて読むのが重い。

妻・千代が「被害者の記号」にとどまっている

妻は、病気になり、怒鳴り込み、国府津で危険に遭い、また病む。起こる出来事は多いのに、本人の内面はほとんど書かれない。僕の側から見える「ヒステリー」という一語で片づけられている。吉弥の母娘は欲得ずくの描写で人間の厚みを出しているのに、妻は同じ深さで描かれない。

意図としては「語り手の視野の狭さ」を示しているのかもしれない。しかし、僕自身が「半身不随の動物としか思えない」と書く妻に、読者が事実上、反論の機会を与えられないのは、技巧としては不公平だ。妻が最も強く感情を爆発させる場面(国府津に乗り込んできて「馬鹿ッ!――馬鹿野郎!」と叫ぶ)が、一度きりで終わってしまう。もう一歩、妻に語らせてほしかった。

吉弥の「悪さ」の方向が、途中でぶれる

吉弥は、金に汚く、嘘をつき、複数の男を手玉に取る女として描かれる。ところが踊りを披露する場面では、「清浄無垢の乙女がその衣物を一枚一枚剥がれて行くような優しさ」と、突然、聖女じみた形容が与えられる。人間の多面性と言えばそれまでだが、ここは僕の惚れた目が見せた幻と明示されていない分、読者は吉弥の人物像を一つにまとめられず、中盤の感情の振れ幅が少し乱暴に感じる。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • きれいな人物ではなく、嫌な人間の内側をそのまま読みたい人
  • 自然主義、私小説、デカダンといった近代文学の流れを、実作で確かめたい人
  • 語り手が信用できない小説の仕掛けを、構造として楽しめる人

逆に、すっきりした結末や共感できる主人公を求める人には向かない。まず第一章から第七章あたりまで読めば、この小説の語りの調子はつかめる。そこで会話のテンポが気に入ったなら、結末まで付き合う価値はある。気に入らなければ、無理に最後まで追わなくていい。それくらい、読み手を選ぶ作品だ。

読み終えたあとに残る問いは、「僕は結局、吉弥を愛していたのか」ではない。むしろ「自分の失敗を、ここまで冷静に書ける人間は、本当に反省しているのか」のほうだ。書くことで自分の醜さを標本にした時点で、僕はすでに一歩、耽溺の外に出ている。その矛盾に気づくと、結末の「凱歌」という言葉の皮肉が、もう一段深く響いてくる。

読む順番としては、短めの自然主義作品で語りの距離に慣れてから「耽溺」に入ると、一人称の生々しさが際立つ。逆に先にこちらを読んでおけば、ほかの私小説の「きれいに整えられた告白」が、少し物足りなく見えるはずだ。