結論:回心の場面は文学史級の傑作。だが物語を止める余談の多さは、傑作でも擁護できない
パン一片を盗んで、十九年。この釣り合いの悪さを物語の出発点に据えたユゴー「レ・ミゼラブル」は、前半の人間ドラマだけなら間違いなく世界文学の頂点に並ぶ。罪人が一本の燭台で別人になる第一部の数十ページは、何度読んでも胸ぐらを掴まれる。
ただし全体を無傷の完璧な小説と呼ぶのは嘘になる。物語が走り出した途端に、作者自身が戦場や修道院や下水道の解説を始めて、読者を何十ページも立ち止まらせるからだ。名場面だけ拾えば五つ星、通読すれば体力勝負。そういう作品だと割り切れる人にだけ、強く薦める。
最小限のあらすじ
一七九五年、飢えた子供たちのためにパンを一片盗んだ枝切り人ジャン・ヴァルジャンは、脱獄を重ねて計十九年を徒刑場で過ごす。釈放後、どこでも追い払われた彼は、ディーニュの司教の家で銀器を盗んで逃げる。司教は彼を許し、彼は「正直な人間になる」と約束させられる。名前を変えて成功した彼は、薄幸の女ファンティーヌの娘コゼットを引き取るが、執拗な警官ジャヴェールの追跡が彼の過去を追い続ける。
※ここから結末に触れます。
独自の深掘り:司教の燭台とジャヴェールの正義、ジャン・ヴァルジャンの回心はなぜ効くのか
司教の許しが「効く」のは、許しの直後に主人公が悪事を重ねるから
この小説の最大の発明は、許された罪人がその場で善人にならないことだ。ジャン・ヴァルジャンは司教に銀器を盗んだ罪を許されたあと、街道で少年プティー・ジェルヴェーの四十スー銀貨を踏みつけて奪う。直後に我に返り、「プティー・ジェルヴェー!」と叫んで探し回り、石に座り込んで「ああ俺は惨めな男だ!」と叫んで泣く。「十九年この方涙を流したのはそれが初めて」だったと本文は書く。
許しだけで回心させれば、ただの美談で終わる。ユゴーは、許しが悪意を揺さぶり、揺さぶられた悪意が最後の悪事を犯し、その悪事が彼自身を打ちのめす、という二段階にした。回心を一瞬の奇跡ではなく、苦痛を伴う出来事として描いている。小説家の目で見ても、ここは構成の勝利だ。
ジャン・ヴァルジャンが司教の言葉を思い出す箇所もうまい。「私はあなたの魂を購うのです。私はあなたの魂を邪悪の精神から引き出して、それを善良なる神にささげます。」この台詞を、彼は感謝としてではなく、反抗しながら繰り返し思い出す。許されたことへの怒りが、回心の入口になっている。
ジャヴェールは悪役ではなく「もう一つの正義」だから怖い
追跡者ジャヴェールは、悪人ではない。法を守ることが善だと信じ切っている人間だ。だから金や情で動かせず、ジャン・ヴァルジャンがどれほど別人になったと訴えても、過去の囚人として扱い続ける。この構図は、司教の「許す正義」と、ジャヴェールの「裁く正義」を対にしている。
終盤、ジャン・ヴァルジャンはジャヴェールを捕らえながら解放する。法に忠実に生きてきた男は、恩を受けても罪人を見逃すこともできず、罪人を追うこともできなくなり、自ら命を絶つ。悪党を倒してすっきりする話にしなかったところに、この小説の底の深さがある。善と悪の戦いではなく、二つの正義の戦いとして書いた点を、私はこの作品最大の知的な達成だと思う。
名前を奪われ続けた男が、名前のない墓で終わる結末の構造
主人公は、徒刑場で二四六〇一号という番号になり、「彼はもはやジャン・ヴァルジャンでさえもなかった」と書かれる。その後は別名で生き、最後は名前のない墓に入る。最終章の墓には「何らの名前も見られない」。遺言で「石には名前を刻んではいけない」と言い残した人物が、雨で消える鉛筆の四行詩だけを残して終わる。ここまで名前を奪われ続けた男が、名前を捨てて死ぬ結末は、構造としてあまりに美しい。
臨終の台詞で、彼はコゼットに暖炉の上の二つの燭台を譲る。「立てられた蝋燭を聖い大蝋燭に変える力のある燭台だ。」第一部で司教に与えられた燭台が、物語の最後で再び現れて、死にゆく彼の顔を照らす。伏線の置き方が派手ではないのに、第一部から最終部まで、物語をまたいで回収するところに、長編小説としての底力を感じた。
もう一つ、第一部のミリエル司教の描き方も見逃せない。司教は、二十六人の病人が狭い施療院に押し込められていると知ると、広い司教邸と病院を取り替える。「あなたが私の家に住み、私があなたの家に住みましょう。」この一言で、彼が教義を語る人ではなく、行動で示す人だと読者に分かる。後に彼が盗人を許すのは、突発の美談ではなく、彼の生き方から自然に出た行為だと納得できる。この「許しの説得力」を先に積んでおく手際が、回心の場面を安っぽくしない土台になっている。
忖度なしの欠点・違和感:脱線の長さ、偶然だらけの後半、そして出来すぎた人物たち
ワーテルローや修道院、下水道。物語を止める長い余談は「必要」だったのか
最大の欠点は、物語が盛り上がるたびに、作者が横から話し始めることだ。戦場の分析、修道院の歴史、隠語や下水道についての論など、各所に長い章が挟まる。ユゴー本人は社会や歴史を描く意図でこれを入れたのだろうし、「小説は社会の全体を描く」という志の高さは分かる。
しかし書き手として言わせてもらえば、これは構成の問題だ。登場人物の運命が動き出そうとするところで、長い歴史論や制度論が差し込まれると、読者の集中が切れる。余談の内容が悪いのではなく、置く位置が悪い。同じ内容を別巻の付録にでも回せば、小説の速度は落ちなかったはずだ。余談を面白いと感じる人もいるが、物語を読みたい人にとっては、忍耐が必要になる。
第三部以降の偶然の連続が、前半の緻密さを台なしにする
前半は、因果が丁寧に積まれていく。パンを盗んだから徒刑、徒刑だから社会が受け入れない、受け入れないから司教に出会う、という流れに無理がない。ところが後半に入ると、マリユスとコゼットの出会い、テナルディエ一家との再会、バリケードでの再会など、登場人物がパリの狭い範囲で何度も出会うようになる。
小説の中の偶然は、一度なら運命に見えるが、何度も続けば作者の都合に見える。特に、重要な人物が必要な瞬間に必要な場所にいる展開が重なると、前半で築いた「社会が人を追い詰める」というリアリズムが薄まる。後半は、物語の骨組みが見えてしまう。
コゼットとマリユスが「物語の飾り」に見える問題
もう一つ気になるのは、若い恋人たちの薄さだ。コゼットはほとんど無垢という属性だけで動き、マリユスは革命と恋の間で揺れるものの、ジャン・ヴァルジャンやジャヴェールと比べると、内面が平板に感じる。ジャン・ヴァルジャンが最後に全財産と秘密を彼らに託すのだから、読者が彼らを大切に思えなければ、最終盤の感動は半減する。
臨終の場面で、ジャン・ヴァルジャンは長い遺言を語る。涙を誘う場面だが、台詞が長く、整いすぎていて、死にゆく人の言葉というより、作者の締めの演説に聞こえる箇所もある。感動は確かにあるのに、そこだけ文章の力で押し切っているのが惜しい。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、次のような人だ。
- 長い物語を、数週間かけて腰を据えて読める人
- 善と悪の単純な対立よりも、「許し」と「法」の対立のような、答えの出ない問いが好きな人
- 余談や歴史の解説を、物語の寄り道として楽しめる人
逆に、テンポの速い物語を求める人や、伏線が全て無駄なく回収される構成を好む人には、通読は苦しい。その場合は、まず第一部の司教の章からジャン・ヴァルジャンの回心まで(青空文庫の豊島与志雄訳なら第一部の前半)を読んで、そこで胸を掴まれたら先へ進めばいい。第一部だけでも、短編として十分に価値がある。
分量の目安も書いておく。青空文庫で数えると、第一部は約三十万文字、第五部も約二十九万文字ある。一部だけで普通の長編小説数冊分だ。全五部を一気に読もうとせず、第一部を読み終えた時点で、続きを読むか決めるくらいの気持ちが、挫折しないコツだと思う。第一部の終わりまでに、ファンテーヌの悲劇と、コゼットにつながる物語の入口が示される。そこまで来れば、後半の欠点を承知のうえで読み進める価値があると、判断できるはずだ。
青空文庫の豊島与志雄訳は、第一部から第五部まで(ファンテーヌ、コゼット、マリユス、叙情詩と叙事詩、ジャン・ヴァルジャン)が公開されている。無料で全編を読めるので、最初の数章で文体が合うかどうかを試してほしい。
