党生活者の感想ネタバレ|笠原の扱いが胸に刺さる辛口評価

結論:潜伏の緊張と母の場面は一級品。ただし「語り手の正しさ」に作品が寄りかかりすぎている

小林多喜二の「党生活者」は、非合法活動の息詰まるような日常を、細部の手触りで読ませる力のある小説だ。特に、潜伏中の「私」が母と料理屋で会う場面は、思想の立場を超えて胸に残る。

一方で、語り手の判断がほぼ常に正しいものとして置かれ、同居する女性・笠原の扱いに作者自身の視線の偏りが出てしまっている。傑作と呼ぶには引っかかりが大きいが、読む価値は十分ある、評価の割れる一作だ。

最小限のあらすじ

語り手の「私」は、党の活動家として身分を偽り、軍需品を作る倉田工業に臨時工として入り込んでいる。戦争のさなか、六百人の臨時工の大量解雇が迫っており、「私」は仲間の須山や伊藤とともに、ビラとニュースで工場内の組織を広げていく。一方で警察の追及は日に日に迫り、同志の検挙、アジト(隠れ家)の移転、金の不足と、生活そのものが綱渡りになっていく。

党生活者の感想:潜伏生活のリアルと母の場面が読ませる理由

冒頭の「予感」で一気に引き込む導入

書き出しは、工場の洗面所で手を洗う「私」に、同僚の須山が声をかける場面だ。いつもは調子の軽い須山の顔がいつもと違うと見て、「私」は「私たちのような仕事をしているものゝみが持っているあの『予感』」を感じる。説明より先に、緊張だけが読者に渡される。

そのうえで、連絡役の「ヒゲ」が昨日の連絡に現れなかったという話が、時間と場所の具体的な取り決めとともに語られる。ここは組織小説というより、ほぼサスペンスの文法だ。同じ作者の「蟹工船」が集団の力で押す小説だったのに対し、こちらは「一人の隠れた人間の神経」で押してくる。読み比べると、同じ作家の引き出しの広さがわかる。

党生活者の母の場面:「どうもお前の肩にくせがある」が刺さる

この作品でいちばん強いのは、第四章の母との再会だ。ここは思想の話ではなく、母と子の話として読める。母は水呑百姓で、字を習い始めたのも、いつか刑務所にいる息子に手紙を出すためだったという。須山を通して「帰れない」ことをはっきり伝えさせたあとで、「私」は小さな料理屋で母に会う。

母はよそ行きの一番いい着物を着ているのに、他の客が入るたびに「あの人は人相が悪い」などと気にして、落ち着かない。別れ際の言葉が効く。母は「どうもお前の肩にくせがある……」と言い、「肩を振らないように歩く癖をつけないとね……」と続ける。息子を守ろうとする母の関心が、そのまま警察の目をそらす実務的な助言になってしまう。この皮肉が、説教くさくならずに痛みとして残る。

「私」が「みんなにそう云われてるんだよ」と返すところも含め、この癖は仲間内でも知られているらしい。母は別れ際に何度も「直ぐ分る」と独り言のようにくり返す。短い繰り返しが、息子を見送る母の不安をうまく運ぶ。

金がない描写の具体性が、思想小説を生活小説にしている

活動資金が尽きた「私」が、茄子を五銭ぶん買い、下宿のぬか味噌に漬けてもらって朝昼晩それだけで済ませる場面がある。三日で階段を上がるたびに息切れがし、汗が出る。連絡先でパンとバターにありつき、「まず、我にパンを与えよ」と冗談を言う。この種の細部が、「潜る」という言葉を抽象論で終わらせず、空腹と徒歩の時間という身体の問題に落としている。運動を肯定するかどうかとは別に、書き手としてこの具体性は盗む価値がある。

戸籍調べの巡査が下宿に来る場面も同様だ。二階で息を殺し、トランクに鍵を下ろして着替える。巡査が「この頃、赤がよく間借りをしているから」と言い残すのを聞いて、「私」はギクリとする。会話は壁越しに断片で聞こえるだけだが、状況は完全に伝わる。視点を一人に絞った強みが最も出ている箇所だ。

人物では、須山が全体の温度を作っている。須山は何かにつけて古い話や妙な例え話を持ち出す人物で、仲間からは頭が切抜帳のようだと笑われる。この須山がいるおかげで、活動家たちの会話が「正しい報告の交換」にならずに済んでいる。大量解雇を前に、須山自身が公然とビラを撒く役を引き受ける場面も、本人の軽口と覚悟が同時に出ていて良い。

※ここから結末に触れます。

屋上のビラ撒きと「先手を打たれる」終わり方

第九章で須山は、昼休みの屋上でビラを投げ上げる。周囲の労働者が拾ったビラをさらに撒き上げ、守衛は誰が撒いたのか見当もつかなくなる。ここは作中で最も気持ちよく読める場面で、須山は「こうまでとは思わなかった!」と繰り返す。

ところが翌朝、会社は先に四百人を門前で解雇してしまい、須山も伊藤も解雇組に入る。「私たちは土俵際でまんまと先手を打たれてしまった」。最後は、解雇された仲間が散らばったことで「組織の胞子」が広がったのだと語り手が総括し、「(前編おわり)」で閉じる。勝利で終わらせず、負けを次へつなぐ形で終える点は誠実だが、後述するように、この「前向きな総括」が欠点でもある。

党生活者の欠点・違和感:笠原の扱いと「正しすぎる語り手」の問題

笠原に対する語り手の視線が、あまりにも冷たい

最大の違和感は笠原だ。行き場を失った「私」は、タイピストの笠原の部屋に転がり込み、のちに「一緒になる」。理由は、非合法の仕事を続けるために「世間が信用する勤め人の細君」の形を作れるから、と語り手自身が説明している。恋愛の書き方ではない。

笠原が仕事を失い、金に困ったとき、「私」はカフェーの女給になることを提案する。彼女は「女郎にでもなります!」と叫ぶ。語り手はこれを、彼女が何でも「私の犠牲」と考える個人的な尺度のせいだと整理し、「お前は気象台だ」と評する。ここで読者が感じるのは、笠原の「理解のなさ」より、語り手の言い分の都合のよさだ。部屋に居候し、給料で生活費を出させ、夜は出歩き、そのうえで彼女に覚悟が足りないと断じる。作者が意図したのは「活動の厳しさ」の描写だろうが、実際には語り手の自己正当化が目立つ。

終盤では、伊藤から小さな贈り物を受け取ったあと、語り手は伊藤と笠原を比べ、「もう十日位も笠原のところへは行っていなかった」と書く。笠原は小説の中で、語り手の都合に合わせて役割を変える人物でしかなく、内面を持つ機会が最後まで与えられない。作品全体の誠実さを考えると、ここだけ人物の扱いが軽いのは惜しい。

語り手の判断が間違わず、葛藤が説明で処理される

須山を危険なビラ撒きに送り出す場面で、語り手は一瞬ためらう。しかしすぐ「このことを一つの必然として、而かも不可欠のものとして理解することが出来る筈なのだ」と、理屈で気持ちを片付けてしまう。母に「死んでも帰れない」と伝えさせる判断も、同様に「必要だった」で処理される。

創作者の目で見ると、これは一人称小説の弱点が出ている箇所だ。語り手が迷い、間違い、後で痛い目を見る展開があれば、母の場面の痛みはもっと深くなったはずだ。実際には、語り手の判断は大筋で正しいものとして進み、結果が悪い方向に出ても「組織の胞子」という前向きな言葉で回収される。読者が自分で評価する余地が狭い。

議論と報告が長く、場面の推進力が落ちる箇所

後半は、僚友会の総会で慰問金の是非を論じる場面など、運動の方針をめぐる会話が長く続く。時代の資料としては面白いが、小説としては、場面の緊張が会議の言葉に置き換わってしまう。須山と伊藤の発言はそれぞれ生き生きしているものの、「どちらが政治的に正しいか」を読者が確かめる作業が増え、冒頭の緊張感からは確実に落ちる。

未完の「前編」で止まる、収まりの悪さ

青空文庫版は「前編おわり」で終わる。作中のいくつかの問い、たとえば太田の裏切りの影響や、笠原との関係の行方、そして語り手自身の運命は、この本文の範囲では決着しない。作者がこの先をどう書くつもりだったかは分からず、一本の小説として読むと、母の場面を頂点にして余韻が少し散らばって終わる。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

  • 「蟹工船」を読んで、同じ作家の別の面(個人の神経、潜伏生活の細部)を見たい人
  • 実用的な細部(連絡の取り方、アジトの探し方、金の工面)を、小説の資料として楽しめる人
  • 母と子の場面だけでも、読む価値のある短い章を探している人
  • 語り手の正しさを疑いながら読む、批評的な読み方ができる人

逆に、人物の内面の揺れや、複数の視点で事件が立体化する小説を求める人には向かない。まず第四章(母の場面)だけを読んでみて、文体が合うか確かめるのがおすすめだ。読後には、「正しい運動の物語」として読むか、「正しさの語り方の危うさ」を考える材料として読むかで、感想が大きく分かれるはずだ。

なお、この作品は作者の死後、1933年に『中央公論』に「転換時代」の題で掲載された。青空文庫の本文末には「一九三二・八・二五」の日付が記されている。