結論:発明は満点、説教は過剰。「改心の物語」の型はここで完成し、同時に弱点も出揃った
ディケンズ「クリスマス・カロル」は、強欲な老人が幽霊に連れ回されて善人になる、というだけの話だ。その型を世に定着させた発明としては文句なしの満点で、第一章の語りの芸と、過去の精霊が見せる少年時代の場面は今読んでも胸に刺さる。ただし後半は、善人になる「結果」を見せる段取りが先に立ち、スクルージ本人の葛藤が薄くなる。名作だと認めたうえで、手放しでは褒められない作品だ。
青空文庫の森田草平訳は表記が古く、読みやすいとは言えない。それでも冒頭の数ページを越えれば、語り手の皮肉に引っ張られて最後まで運ばれる。
最小限のあらすじ
ロンドンの金貸しスクルージは、クリスマス・イヴになっても事務所で帳簿をにらみ、陽気な甥の誘いも、貧民への寄付の頼みも「皆無」とはねつける。その夜、七年前に死んだ共同経営者マアレイの幽霊が鎖を引きずって現れ、「これから三人の精霊が来る」と告げる。過去・現在・未来の精霊に連れ回されたスクルージは、自分の人生の行き着く先を見せられる。課題は、この老人が朝までに変われるかどうか、という一点に絞られている。
※ここから結末に触れます。
スクルージの改心に説得力が生まれる理由と、三人の精霊の構成を読み解く
「マアレイは死んだ」から始まる語りの芸
書き出しは「先ず第一に、マアレイは死んだ。それについては少しも疑いがない。」である。語り手は続けて「老マアレイは戸の鋲のように死に果てていた。」と書き、柩の鋲のほうがふさわしいのではないか、と脱線し、最後には『ハムレット』の父王の幽霊まで持ち出す。幽霊譚の入口に立つ読者に、わざわざ「死んでいること」を確認させる手つきが巧い。怪談の約束事を茶化しつつ、同時にその約束事に読者を縛りつけているからだ。
この語り手は物語の途中でも何度も顔を出す。スクルージの怖がり方を解説し、「その場にいない者のほうが冷静に判断できる」と冗談めかして言う。現代の小説なら余計な介入と切られるところだが、ここでは幽霊を怖がらせすぎない緩衝材として働いている。説教臭い話を、語り手の軽口で包んで飲み込ませているのだ。
過去の精霊が見せる少年時代が、改心の根拠になっている
この小説の核心は、第二章で出てくる寄宿学校の場面だと思う。クリスマスの休暇にも誰も迎えに来ない少年スクルージが、読書に逃げ込み、アリ・ババやロビン・クルーソーの幻に話しかける。老いたスクルージはそれを見て泣き、「昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌っていた子供がありましたがね。何か遣れば可かったと」と、照れ隠しのように漏らす。ここで読者は、彼が生まれつきの悪人ではなく、孤独が貪欲にすり替わった人間だと納得させられる。
そこへ妹のファンが「ねえ兄さん、私兄さんのお迎いに来たのよ」と飛び込んでくる。のちにこのファンの息子が甥のフレッドだと明かされるので、スクルージが冷たく扱ってきた甥は、唯一の肉親の忘れ形見だったことになる。伏線の置き方は、この一点だけでも丁寧だ。
恋人ベルとの別れも同じ役割を持つ。ベルは「金色のもの」が自分に取って代わったと言い、「貴方は変りました」と婚約を解く。説教でなく、一人の女性の静かな判断として書かれているので、スクルージが何を失ったかが具体的に伝わる。
現在の精霊が「監獄はないのかね」でスクルージ自身の言葉を返す仕掛け
第三章の終わり、精霊の着物の下から出てくるのが「無知」と「欠乏」の二人の子供だ。精霊は「この男児は無知である。この女児は欠乏である。」と言い、特に男の子に「滅亡」の文字が見えると警告する。そして救いを求めるスクルージに、第一章で彼自身が慈善の紳士たちに投げつけた「監獄はないのかね」「共同授産場はないのかな」を、そのまま返す。
第一章でスクルージは救貧院や踏み車を挙げ、「いっそ死んだ方がよけりゃ……過剰の人口を減らす方が可う御座んすよ」とまで言い放った。その言葉を精霊が叩き返す場面は、この本で最も効いている一撃だと思う。幽霊が説教するのではなく、本人の台詞が裁判の証拠として再生されるからだ。
マアレイの鎖とフェジウィッグの舞踏会:恐怖と喜びを対にする設計
マアレイの幽霊は、生前に自分で作った鎖を引きずって現れる。金庫や帳簿を鎖に仕立てるという発想は、寓意が見え見えなのに、幽霊の姿としては不思議と嫌な生々しさがある。この「罰は自分が作ったものだ」という筋が通っているから、後に出てくる三人の精霊も外から押しつけられた裁きに見えない。
対になるのが、過去の章で描かれる若いころの雇い主フェジウィッグのクリスマスの夜会だ。大金をかけたわけでもない宴で、雇い主が従業員に与えた喜びは、金額では測れないほど大きかったとスクルージ自身が認める。マアレイの鎖が「溜め込んだ重さ」なら、この夜会は「手放して軽くなる」見本であり、二つを並べると小説の価値観が一目でわかる。後半のボブ一家の質素な食卓が効くのも、この対比が先に仕込まれているからだ。
もうひとつ、現在の章でスクルージが甥フレッドの家の遊びの席に立ち会う場面も見逃せない。出席者が当てものをするうちに、当てられる「不愉快な動物」が自分のことだと、本人だけが知らされないまま場が盛り上がる。見えない立場で笑い物にされる痛みを、説教抜きの喜劇で味わわせる仕掛けで、この小説が説教一辺倒でないことの証拠だと思う。
忖度なしの欠点:「クリスマス・カロル」の結末が軽すぎる、説教臭いと言われる理由
第五章の改心は、早くて軽い
墓石に自分の名を見たスクルージは、「私は過去においても、現在においても、また未来においても生きます!」と誓い、目覚めると何もかも元に戻っている。ここからの第五章は、靴下を相手にラオコーンそっくりの様子で暴れ、少年に七面鳥を買いに行かせ、「くすくす笑いながら」代金を払う、喜劇の連打になる。笑いと涙が入り混じる勢いはあるが、変化は目覚めた瞬間に完了している。
創作者の目で見ると、最も惜しいのは、改心の過程が精霊の見せる幻だけで済まされている点だ。墓場で彼が泣きつくのは「死ぬのが怖い」からで、他人への後悔と、自分の死への恐怖が混ざったままだ。その二つを切り分ける場面があれば、改心はもっと重くなった。
貧困の問題が「金持ちの善意」に回収される
「無知」と「欠乏」という鋭い問題提起が、結末では「スクルージが給料を上げ、ちびのティムの第二の父になる」という個人の善行で終わる。救貧院や踏み車は、物語の最後まで手つかずのままだ。ボブに「君の給料を上げてやろうと思うんだよ」と言った時、ボブは狂ったのかと思って定規を握りかける。ここは笑いとして上手いが、同時に、雇い主の気分ひとつで一家の暮らしが変わる構造そのものは疑われていない。
これは作品の欠点というより限界だが、社会批判を期待して読むと肩透かしを食う。精霊の警告の鋭さに対して、解決が小さすぎる。
未来の精霊の場面は、狙いが読めてしまう
最後の精霊は、取引所の男たちの会話を聞かせる。死んだ男について「お弁当が出るなら行っても可いがね」と言い合う連中の冷たさは、よく出来ている。一方で、スクルージが死者の正体を何度も気にしながら、最後まで自分だと気づかない鈍さは、読者の側が先に答えを察している分、ご都合に見える。
さらに、ボブ一家がちびのティムを悼む場面は、「色が眼にさわってねえ」と母が誤魔化す細部が秀逸な分、そのあと家族全員が声をそろえて「決して忘れませんよ、阿父さん!」と唱和するくだりで感傷が過剰になる。節度ある描写が、最後の一歩で説明に変わってしまう。
森田草平訳の読みにくさ
青空文庫の底本は岩波文庫(1929年刊)で、訳文は「聖降誕祭」「彼等」「仰しゃる」と古い。ひとつの文が長く、幽霊の台詞と語りが区別しにくい箇所も多い。語り手の脱線を楽しむ作品だからこそ、訳文のリズムがもたつくと、笑いどころで笑えない。初めて読む人は、まず新しい訳か抄訳で筋をつかんでから、この訳に戻るほうが楽だと思う。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
「悪人が改心する話」の原型を一度読んでおきたい人、古典の語りの芸を味わいたい人に向く。創作をする人には、過去の場面で人物の動機を説明し、現在の場面でその人物自身の言葉を突きつけ、未来の場面で結果を見せる、という三段構成がそのまま設計図として使える。
逆に、複雑な心理の揺れや、社会問題への具体的な処方箋を求める人には向かない。この小説は、変わることの是非を問う話ではなく、変わった後の喜びを見せる話だからだ。分量は中編程度で、青空文庫でも一晩で読み切れる。ただし一息に読むより、章ごとに区切って、精霊が替わるたびに「いま見せられているのは何の証拠か」と考えながら進めたほうが、構成の巧さがよく見える。読む順番は、第一章と第二章を丁寧に読み、第三章の後半(無知と欠乏)で立ち止まり、第五章は勢いで駆け抜けるのがいいと思う。最後の一文「神よ。吾々を祝福し給え――吾々総ての人間を!」は、説教臭さを承知のうえで、それでも読者の胸に残る。
