結論:「秀子は何者か」で最後まで引っ張る力は本物。ただし26万字は長く、終盤の種明かしは説明で押し切る
黒岩涙香「幽霊塔」は、青空文庫版で約26万字、全123回の連載小説だ。宝探しの冒険譚として読むと、塔の仕掛けはなかなか解けず、肩透かしを食う。一方で、灰色の服をまとった美女・秀子が何者なのかという一点の謎は、最後まで読者を引っ張り続ける。
謎の引きの強さは一級品だが、真相の明かし方は粗い。長い独白で一気に説明し、悪役は天罰のように急死する。連載小説の勢いを楽しめる人には薦められるが、現代のミステリのような緻密な伏線回収を期待する人には向かない。
最小限のあらすじ
語り手の「余」こと道九郎は、検事総長を退いた叔父・丸部朝夫の命で、売りに出た古い屋敷「幽霊塔」の下見に行く。塔の大時計には、持ち主しか知らないはずの捲き方がある。ところが廃墟のはずの塔で、時計の針が勝手に動いていた。中にいたのは、絶世の美女だった。道九郎は彼女に心を奪われるが、六年前に塔で起きた老女殺しと、塔の底に眠るという宝の噂が、二人を巻き込んでいく。
幽霊塔の秀子の正体は? 独自の深掘りで見えた連載小説の技術
灰色の服と左手の鎖飾りが、謎を最初の3回で仕込む
この小説は、導入が見事だ。第一回で「ドエライ宝」の伝説と塔の履歴を語り、第二回で、六年前に老女・輪田お紺が養女のお夏に殺されたという事件の概要を、道九郎の回想として出す。そして第二回の終わりに、美女が現れる。道九郎は仮面ではないかと疑って顔を見つめ、「仮面で無い、仮面で無い、本統の素顔、素顔。」と心の中で繰り返す。この一行で、読者は彼と同じ疑いに巻き込まれる。
第三回では、美女が薄い灰色の無地の服を着ていることが語られる。灰色は縁起の悪い色とされ、若い女性は嫌がる色だと説明される。さらに、左手の手袋には、金の鎖と真珠の異様な飾りがついている。しかも直前に、お紺殺しの証拠は「左の手先の肉」の傷だったと語られている。読者が左手と殺人事件を結びつけるように、情報が並べられている。
疑問を一度に出して、答えを小出しにする。新聞連載で読者を翌日も買わせるための設計が、ここに凝縮されている。
「余」の一人称が生む、疑いと恋の二重の緊張
語りは道九郎の一人称で、文体は「〜で有る」「〜と云う」の多い明治の調子だ。慣れるまでは読みにくいが、一人称には効用がある。道九郎は秀子を「絶世の美人」と惚れ込みながら、同時に、彼女が塔の秘密を知りすぎていることを怪しむ。恋する気持ちと疑う気持ちが同じ文の中にぶつかるので、読者は秀子を信じたいのに信じきれない。
この揺れが、物語の推進力になっている。探偵役の森主水や、秀子を救うと言う弁護士風の権田時介が出てきても、中心はあくまで「余が秀子を信じられるか」だ。トリックより感情で読ませる構成が、涙香の持ち味だと感じた。
虎井夫人・狐猿・養蟲園:怪奇趣味の脇役たちが退屈を防ぐ
主筋だけでは26万字はもたない。そこで虎井夫人、猿とも人ともつかない「狐猿」、蜘蛛が巣を張る養蟲園といった、見世物小屋のような脇役と舞台が次々に投入される。道九郎が虎の背後に飛び降りて秀子を救う場面もあり、冒険活劇の山場が定期的に来る。
これらは謎解きと直接つながらない場面も多い。ただ、連載の「次の回も読みたい」を支える飾りとして、役目は果たしている。
全123回という回の区切りが、読み方そのものを決めている
この作品を単行本のように一気に読むと、中盤のだれ方が目立つ。だが、もともとは一回ごとに区切って読まれる前提で作られている。序盤は、第二回の終わりに美女を登場させ、第三回で服と左手の飾りを見せるというふうに、一回の終わりごとに新しい疑問を置いている。回の最後に必ず次を読ませる引きがあるのだ。
現代の小説は、章全体の流れで緊張を作ることが多い。涙香は逆に、一回分の短い量で「え、どういうこと」と思わせて終える。書き手の目で見ると、この方式は長さの割に筋の整理がしやすい一方、通読すると同じ種類の引きが何度も繰り返されて、単調に感じる原因にもなる。26万字を一度に読み通そうとせず、数回ずつ区切って読むほうが、作品の設計に合っている。
この区切りを意識すると、冒頭の仕込みが特に優れていることも分かる。灰色の服、左手の鎖飾り、お紺殺しの傷という三つの手がかりが、わずか数回のうちに並べられる。後半の種明かしがやや駆け足になるのに比べて、序盤の設計のほうが、はるかに丁寧だ。
※ここから結末に触れます。
結末の真相:秀子は輪田夏子であり、さらにその奥に「丸部春子」がいる
終盤で、叔父は秀子が処刑を免れた元の輪田夏子だと知り、ひどく動揺する。昔、自分が死刑を主張した相手だからだ。ところが第百二十二回で、秀子は父上と呼びかけて、さらに奥の素性を語り出す。幼い娘を連れて米国へ渡った母が、火事で死んだと思われながらお紺に救われ、やがて塔で病死した。その娘こそ、実は叔父の実の娘・丸部春子で、お紺が名を夏子に改めさせた、という話だ。
「夏子の奥にもう一人いる」という二重底は、確かに驚きがある。叔父が最初から秀子を我が子のように可愛がり、養女にまでした理由も、ここで腑に落ちる。第百二十三回の「是で今まで合点の行かなんだ様々の事も分る」という道九郎の言葉どおり、読者の疑問が一気に畳まれる。
真犯人の高輪田長三は、お紺の財産を盗むためにロンドンから戻り、殺人を犯して罪をお夏に着せていた。長三は道九郎に「天の裁判」として、心臓破裂で頓死したと伝えられる。道九郎と春子が結ばれ、宝は春子のものとして、慈善事業や学校建設に使われる。最後に「幽霊塔の話は是で終わった」と語り手が閉じる。
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悪役の急死は「天の裁判」で片づけすぎ
最大の不満は、長三の末路だ。秀子の無実を証明するには長三を裁判にかける必要があるが、それをすると秀子が夏子だと世間に知れてしまう。叔父がまさにその板挟みで悩む場面を作った直後に、道九郎が「昨夜彼は心臓破裂の為頓死しました」と告げて、問題を消してしまう。
叔父の台詞にもあるとおり、これは作中でも「天の干渉」と言われている。ジレンマを自分で作っておいて、偶然で外す。書き手の視点では、ここは最も手を抜いてはいけない解決部分で、いちばん安易な手を使ってしまっている。
権田時介の改心が唐突で、道九郎が最後まで受け身
権田は、秀子の無実を証明する代わりに、道九郎に「秀子に憎まれるよう仕向けよ」と約束させる、かなり身勝手な男だ。ところが終盤、叔父の部屋で秀子の身の上話を聞いた途端、「感奮」して二人の手を握り合わせ、退場する。八年も秀子を支えてきた男の執着にしては、あまりにあっさりしている。感動の場面に合わせて、人物の感情が書き換えられた印象が残る。
道九郎も、約束を律義に守って秀子に嫌われようとし、最後は権田の翻意と叔父の裁定で救われる。主人公が自分の行動で局面を動かした場面が少ない。恋愛の主人公としては、終始、運と他人の厚意に支えられている。
種明かしが長い独白に頼り、26万字の割に回収が駆け足
第百二十二回から第百二十三回の秀子の語りは、母の渡米、火事、お紺の動機、牢獄、脱走と、長い人生を一息で説明する。読み物としては感動的だが、ミステリとしては、読者が推理で追いつける材料が足りない。宝の仕掛けや、塔と時計に関わる数々の謎に対し、人物関係の真相が最後に集中して出てくるため、前半の緊張とのつり合いが取れていない。
終幕の後日談も、虎井夫人は弟たちと国外へ逃げ、お浦は米国で女優になり、時介は漫遊に出たと、短い段落で片づけられる。連載の締め切りに合わせて畳んだようで、悪役たちの処遇に納得感は薄い。
道九郎と春子の結婚が「めでたし」で終わる居心地の悪さ
最後の段落で、語り手は「余と春子の間には玉の様な男の子、イヤ是は読者が羨むから云わずに置こう」と軽口を叩き、塔の宝は春子の手で慈善事業や小学校の建設に回されたと、誇らしげに報告する。冗談めかした幕引きは明治の読み物らしい愛嬌だが、冤罪、脱獄、偽名の生活を経た春子の人生が、この数行で「何と目出度い訳ではないか」に回収されてしまう。
春子が背負った時間の重さに対して、結びの軽さが釣り合っていない。悲劇の当事者を、物語が終わったとたんに祝福の背景へ押し込めているように読めた。ここは物語の読後感を、いちばん弱くしている箇所だ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、トリックの精度より「次はどうなる」を楽しめる人だ。明治の新聞連載小説の勢いに付き合う余裕がある人、美女の正体をめぐる謎で引っ張る古典的な構造が好きな人には、十分に報いがある。
向かないのは、伏線の整合性を重視する人と、短時間で読み切りたい人だ。青空文庫の本文は旧仮名遣いに近い独特の漢字表記で、読み慣れるまで時間がかかる。最初の3回だけ読み、秀子の登場場面に引き込まれるかどうかで、続けるか決めるのがよいだろう。
読む順番の案内としては、まず第一回から第三回までを通して読み、秀子の登場と手がかりの並べ方を確かめてほしい。そこで面白さを感じたなら、中盤の脇役や冒険の場面は「次の回への引き」と割り切って、軽く流しながら進めてよい。そして終盤の第百二十二回・第百二十三回は、秀子の語りを丁寧に追う。この読み方なら、長さの負担を抑えつつ、この作品の強みと弱みの両方を味わえる。
読み終えたあとに残る問いは、「秀子は救われたのか」だ。罪は晴れ、親子の関係も明らかになるが、失われた年月は戻らない。物語がその重さをどこまで受け止めたのかを考えると、結びの軽さが気になる人も多いだろう。
初出は『万朝報』の1899年8月10日から1900年3月9日の連載。底本の親本は1901年に扶桑堂から出た単行本で、図書カードには、英国の作家の小説を原作とした翻案だと注記されている。翻案ものとして読むと、日本の読者向けに舞台と人物を移し替えた手際も、見どころの一つになる。
