結論:「ほんとうのさいわい」に答えを出さずに終わる、読み手を試す未完成の傑作
「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」カムパネルラの父が時計を握ったまま告げるこの一言で、物語は幻想列車の甘さをすべて取り上げて終わる。『銀河鉄道の夜』は、美しい星空の旅として読んでも綺麗だが、その下に、救われない少年の孤独と、答えの出ない問いが埋まっている。
ただし、完成度の高い小説ではない。本文には原稿の欠落を示す注記が残り、乗客たちの挿話は寄せ集めの印象があり、結末はジョバンニを救う手前で止まる。名作という評価と、小説としての粗さは分けて語るべきだ。子どもの頃に読んだきりの人ほど、読み直すと印象が変わる。
最小限のあらすじ
貧しいジョバンニは、病気の母を支えるために活版所で働き、学校では「らっこの上着」とからかわれている。星祭りの夜、牛乳を取りに出た帰りに丘で眠り込むと、気づけば銀河を走る汽車の中にいて、親友のカムパネルラが向かいに座っている。二人は不思議な乗客たちと出会いながら旅を続ける。ジョバンニの課題は、みんなの「ほんとうのさいわい」とは何かを見つけ、カムパネルラと最後まで一緒に行くことだ。
※ここから結末に触れます。
銀河鉄道の夜の深掘り:さそりの火と切符が示す「ほんとうのさいわい」
冒頭の授業と星祭りが、旅の材料をすべて仕込んでいる
この作品の巧さは、夢の中身がすべて現実パートの部品で組み立てられている点にある。冒頭の教室で、先生は天の川を「川」と「乳の流れ」の二つの見立てで説明し、「私どもも天の川の水のなかに棲んでいる」と言う。ジョバンニは答えを知っているのに、疲れと緊張で声が出ない。この「知っているのに答えられない」少年が、夢の中では地図を見て星の名を言い当てるカムパネルラの横で、ただ窓の外を眺める側に回る。
牛乳屋の「あしたにして下さい」、時計屋の星座早見、ケンタウル祭の掛け声、アルコールで走るカムパネルラの家の汽車の模型。夢の中でジョバンニの隣の男の子が叫ぶ「ケンタウル露をふらせ。」も、街で子どもたちが叫んでいた言葉だ。現実の断片が、天の川の景色として形を変えて戻ってくる。しかも丘の場面でジョバンニは、天の川が「がらんとした冷いとこ」ではなく、小さな林や牧場のある野原に見えて仕方がないと感じる。授業で習った「星の集まり」が、夢で「人の暮らす野原」に変わる過程が、列車に乗る前にきちんと描かれているのだ。
夢の理屈が現実の側から説明できるので、幻想が散らからない。同じく夢を扱った漱石の短編集『夢十夜』と比べると、夢の中に置かれた象徴が現実の悩みへ戻ってくる回路の強さが際立つ。
さそりの火の意味とは:「からだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう」
中盤の核は、かおる子が語るさそりの話だ。いたちに追われて井戸に落ちたさそりは、溺れながら「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。」と悔い、次は「まことのみんなの幸のために」使ってほしいと祈る。すると体が赤い火になって夜を照らしたという。
この挿話が効くのは、さそりが聖人ではなく、他の虫を殺して食べて生きてきた加害者として語られるからだ。他者の命を奪って生きる存在が、死の間際に後悔して、はじめて「幸」の側に回る。これは、母を養うために働きながら、ザネリたちにからかわれても耐えるしかないジョバンニと、ザネリを救って川に消えるカムパネルラの両方の予告になっている。ジョバンニが後で「あのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と言い切る流れも、この寓話がなければ唐突に聞こえただろう。
一方で、この決意はカムパネルラが水に飛び込む行為と、重なりつつもずれている。カムパネルラは言葉で誓う前に、すでに身体で実行してしまった。口で覚悟を語るジョバンニと、行動で先を行くカムパネルラの落差が、結末の悲しみを深くする。
「ほんとうの天上へさえ行ける切符」を持つのは、なぜジョバンニなのか
車掌の検札でジョバンニだけが慌てる場面は、構成上のよい仕掛けだ。カムパネルラは「小さな鼠いろの切符」を出すのに、ジョバンニがポケットから出したのは、折りたたんだ緑色の紙だった。鳥捕りはそれを見て「こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。」と驚く。
ところが、その切符を持つジョバンニだけが、天上の手前でひとり現実に戻される。「どこまでも行ける」切符は、死者の側に行くための切符ではなく、生者として戻り、問いを持ち帰る資格を意味していると読める。カムパネルラの席に「ただ黒いびろうどばかりひかっていました」という描写は、その読みを後押しする。切符を出したのはカムパネルラのほうが先だったのに、消えるのも彼のほうだからだ。
ここは断定できない。作中は切符の文字を「おかしな十ばかりの字」としか書かず、中身を明かさない。この曖昧さは魅力でもあるが、読者に解釈を預けすぎでもある。
銀河鉄道の夜の欠点・違和感:未完の粗さと、結末が解かない問い
乗客の挿話が寄せ集めで、旅の速度が落ちる
前半の「北十字とプリオシン海岸」から後半の「鳥を捕る人」「氷山で沈んだ船の青年と姉弟」「インデアン」「工兵の発破」「双子のお宮」と、旅は風景の見本市のように進む。個々の場面は美しいが、前の場面が次の場面の原因にならない。ジョバンニの気分が沈み、また浮かぶ以外に、旅を前へ進める力がない。
とくに双子のお宮を巡る子どもたちの掛け合いは、姉弟が同じ話の別の部分を言い合うだけで、読んでいてもどの話か判然としない。サウザンクロスで姉弟が降りるまでの長い道のりは、中だるみと言われても仕方がない。
この印象には、本文の状態も関わっている。読んだ青空文庫版には「〔以下原稿一枚?なし〕」「〔約二字分空白〕」といった注記があり、初出は全集(文圃堂、昭和9年)だ。欠落は作者の意図ではない。それでも、読者が読む形としての「間延び」は、評価から外せない。
ジョバンニの感情の急旋回が、作者の都合に見える
鳥捕りが消えたあと、ジョバンニは突然、この人のためなら「百年つづけて立って鳥をとってやってもいい」という気持ちになり、すぐ「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」と告白する。直前まで彼は、鳥捕りのお菓子を食べながら、内心ではこの人をばかにしていると自覚していた。この二つの感情の間をつなぐものは、切符を見て鳥捕りが態度を変えたという出来事だけだ。
さらに女の子と楽しそうに話すカムパネルラへの嫉妬、鳥の群れを見て機嫌を直す気分の浮き沈みが、数ページの間に繰り返される。少年の心の揺れとして自然だと擁護もできるが、書き手の目には、各挿話の主題(自己犠牲、嫉妬、孤独)を順番に割り当てるために、感情を急に切り替えているように見える箇所がある。
結末はジョバンニを救ったのか:父の帰還という宙づり
最大の違和感はここだ。冒頭から、ジョバンニを苦しめている二つの問題がある。一つは父の不在とそれをからかうザネリ、もう一つは母の病気と貧しさだ。旅の最後、現実に戻ったジョバンニが得たものは、牛乳瓶と、カムパネルラの父の「どうも今晩はありがとう」という礼、そして「お父さんはもう帰っていますか」という問いへの沈黙だけだ。博士は父から「一昨日大へん元気な便りがあった」と言うが、これは確定した帰還ではない。ジョバンニは父が帰ることを知らせようと駆け出して、物語は終わる。
この終わり方は、ジョバンニの「ほんとうのさいわい」への問いに答えないことで、物語を開いたまま残している。意図は分かる。けれども、ザネリは助けられたあと作中で何も語られず、反省も報いも描かれないまま、ジョバンニを侮辱した少年のために最良の友が命を落とす皮肉は、そのまま放り出される。ザネリを責める場面も、ジョバンニの怒りを昇華する場面もない。「カムパネルラは、結局なぜ死ななければならなかったのか」という読者の痛みを、作品は受け止めきれていない。
宗教的な議論が、もっとも重要な場面で流される
サウザンクロスの直前に、ジョバンニは「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」と食ってかかる。作品の思想がもっとも直接に出る場所だ。ところが青年が笑って「あなたの神さまってどんな神さまですか」と訊くと、ジョバンニは「ぼくほんとうはよく知りません」と引いてしまい、議論はそこで終わる。
この場面は、天上を拒む少年の言葉が一瞬だけ光り、その主張が次の場面へ引き継がれない。後の「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない」という決意に、神への問いが実際にどう影響したのかが読み取れず、思想の深さが場面の厚みに見合っていない。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
- 「主人公が成長して問題が解決する話」より、解けない問いを持ち帰る終わり方に価値を感じる人
- 子どもの頃に読んだきりで、ジョバンニの貧しさと孤独の描写をもう一度確かめたい人
- 筋よりも、夢の景色と現実の断片の対応を拾いながら読むのが好きな人
逆に、事件と解決のある物語を求める人、ザネリのような人物がきちんと報いを受ける展開を期待する人には、向かない。読むなら、まず冒頭の教室と星祭りの夜をゆっくり読み、列車に乗ってからは「ジョバンニがいつ孤独を感じ、いつ機嫌を直すか」だけを追うと、散漫に見える旅の背骨が見えてくる。そして最後の河原の場面を読み終えたら、もう一度、冒頭の「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」に戻ってほしい。あの沈黙の意味が変わる。

