走れメロスの感想ネタバレ|メロスは本当に勇者か?辛口書評

結論:友情の美談として読むと浅い。「人間の弱さ」の物語として読んで初めて面白くなる短編

『走れメロス』は、教科書で習った「友情と信実の物語」のまま読むと、驚くほど薄い。主人公は単純で、王は途中で改心し、筋は一本道。美談の骨格だけなら、数分で要約できてしまう。

ただし、「走るのをやめたメロス」の長い独白だけは別格だ。勇者が自分を正当化しながら腐っていく過程を、これほど生々しく書いた短編は多くない。美談として評価する人には肩すかし、人間の弱さを読みたい人には当たりの一作。

最小限のあらすじ

村の牧人メロスは、人を信じられず次々に人を殺す王ディオニスに激怒し、短剣を持って王城に乗り込んで捕らえられる。処刑される身で、妹の結婚式のために三日の猶予を願い、無二の友である石工セリヌンティウスを人質に置いて村へ向かう。日没までに戻らなければ友が殺される。メロスは濁流、山賊、疲労と戦いながら、約束の刻限へ走る。

「走れメロス」の深掘り:疲れ果てた独白と「殴れ」の場面はなぜ効くのか

勇者が堕ちていく「悪魔の囁き」の書き方が、この作品の本体

濁流を泳ぎ、山賊を三人殴り倒したあと、メロスは草原に倒れ込む。ここからの独白が見事だ。最初は「私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。」と、自分は悪くないという言い訳から始まる。次に「いっそ死んで詫びよう」と悲劇の主人公になり、最後には「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。」と、王の理屈をなぞり始める。

注目したいのは、この転落が一段ずつ、読者にも身に覚えのある順序で進むことだ。努力したのだから仕方がない、という自己弁護が、いつの間にか信念そのものの否定にすり替わる。しかも文章は句点で短く切りながら息継ぎなしに畳みかけ、メロスの思考が止まらず空回りする様子を、そのままリズムにしている。「やんぬる哉。」の一言で四肢を投げ出す落差も計算が効いている。

水の音で立ち直る場面が、精神論に逃げていないから信用できる

復活のきっかけは、岩の裂け目から湧く清水だ。「身体疲労すれば、精神も共にやられる」と本文にあるとおり、この作品は絶望を精神の問題ではなく、体の消耗として扱っている。だから回復も「信念が勝った」ではなく、水を一口飲んだら歩けた、という身も蓋もない形で描かれる。

そのうえで「私は、信頼されている。」と自分に言い聞かせて走り出す。ここで彼は、友への愛ではなく「信じられている」という事実を燃料にしている。さらに終盤、間に合うかどうかは問題でないと言い、「もっと恐ろしく大きいものの為に走っている」と語る。動機が友情から、意味の分からない衝動へすり替わっていくのが、この短編の一番不穏で、一番面白いところだ。

互いに殴り合う場面が、美談を一段深くしている

※ここから結末に触れます。

刑場に着いたメロスは、セリヌンティウスに「私を殴れ。」と頼む。途中で一度悪い夢を見たと告白するためだ。セリヌンティウスもうなずいて殴り、そのうえで「私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。」と打ち明けて、自分も殴らせる。

この場面の巧さは、二人とも「完全な信頼」を貫いていない点にある。完璧な友情なら、ただ抱き合って終わればいい。ところが太宰は、信実とは疑いを持たないことではなく、疑った事実を言葉にして罰を受け合うことだ、という形にしてみせた。二人の頬の音が刑場に響くという描写は大げさだが、この大げささが、告白の重さを視覚的にしている。

「走れメロス」の欠点・違和感:ご都合主義と、勇者の動機の怪しさ

メロスの怒りの根拠が薄く、王の悪役ぶりも一貫しない

メロスは冒頭で老爺から話を聞いただけで「生かして置けぬ」と激怒し、短剣を持って王城へ入る。本人も「単純な男であった」と書かれるとおり、調べも計画もない。王の悪事は伝聞だけで、読者は一度も現場を見ない。それなのに、物語はメロスの怒りを正義として前に進める。

一方、王は「おまえには、わしの孤独がわからぬ」「疑うのが、正当の心構え」と語り、人を信じられなくなった人間の悲しみを見せる。この造形は良いのに、最後に群衆の前で数行の台詞だけで「仲間に入れてくれ」と改心する。人を六人殺すような疑心を持つ人物が、一場面の抱擁で変わる。王の孤独を丁寧に出したぶん、結末の改心が軽く、拍子抜けする。

濁流と山賊と灼熱は、障害物としてできすぎている

走る途中の障害は、橋を壊す濁流、峠の山賊、午後の灼熱と続く。順番どおりに難度が上がるので、まるで試練を並べたゲームのステージのようだ。山賊に至っては、メロスは「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」と推測するが、実際に王の差し金かどうかは作中で示されない。しかもメロスは棍棒を奪って三人殴り倒し、「気の毒だが正義のためだ!」と言い切る。勇者の暴力が、無反省に肯定される。

この危うさは、実は作品の設計とも関わっている。メロスは「正義のため」という言葉で、他人を殴ることも、結婚式を急がせて婿を説き伏せることも正当化する。作者がこの無自覚さを皮肉として書いたのか、単に勢いで書いたのかは、読み手に委ねられている。教科書の教材としては、ここを立派な行動のように読ませてしまう点が弱い。

終盤の「大きな力」が、動機を説明せず雑にまとめている

独白で、動機が友情から「信じられているから走る」へ、さらに「なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に」へと変わっていく流れ自体は面白い。ただ、そのまま「ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った」で片付けてしまうので、読者の疑問は置き去りになる。その「大きなもの」とは何だったのか、結末でも誰も答えない。

さらに、結末のオチである「まっぱだかじゃないか」という少女の緋のマントは、ユーモアとしては愛らしいが、直前まで盛り上げた緊張を一気に弛めてしまう。余韻より和やかさを選んだ終わり方で、独白の凄みを知った読者ほど物足りなく感じるだろう。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

学校で一度読んだきりの人には、読み返す価値がある。全体は約一万字の短編なので、三十分もかからない。読むときは、前半の友情の筋よりも、草原で倒れる場面の独白に集中するといい。教科書的な印象がかなり変わる。

逆に、感動的な友情物語や、王との知恵比べのような筋の緊張を期待する人には向かない。展開は素直で、驚きはほとんどない。また、人間の弱さと自己弁護の心理描写が好きなら、同じ太宰の短編を次に読むと、メロスの独白がこの作家の得意な型だと分かる。この記事では、まず本作を「美談」ではなく「弱さの記録」として読み直すことをすすめたい。末尾には「古伝説と、シルレルの詩から。」と作者自身の注があり、1940年に雑誌『新潮』に発表された、原話を下敷きにした翻案である点も頭に置いておくと、筋の素直さに納得がいく。