黒死館殺人事件 感想ネタバレ|30万字の衒学と犯人の落差

結論:謎解きの小説としては破綻気味。それでも「読み通した」記憶だけは一生残る奇書

小栗虫太郎「黒死館殺人事件」は、青空文庫版で約30万字。ミステリとして読者が推理に参加できる小説ではない。真相は、探偵・法水麟太郎の膨大な講義の果てに一方的に差し出される。

それでも、この小説は文章そのものを読ませる力で押し切ってくる。万人には勧めない。ただ、ミステリを「フェアな知的ゲーム」としてしか愛せない人には劇薬で、「言葉と知識の過剰が作る異様な空気」を浴びたい人には代えのきかない一冊だ。

最小限のあらすじ

舞台は、神奈川県の丘陵地に建つ西洋風の城館「黒死館」。天正遣欧使の一人・千々石清左衛門に連なるという降矢木一族の館で、当主・算哲博士が自殺して十か月ほど後、第一提琴奏者のダンネベルグ夫人が毒殺される。

館には、算哲が乳呑児の頃から海外から連れて来て、四十年もの間外へ出さなかった四人の外国人楽師がいる。警視庁の捜査に加わった法水麟太郎は、支倉検事とともに館へ入り、連続する死の謎に挑む。

黒死館殺人事件の何がすごいのか:読ませる力の正体

序篇の「資料の山」が、館を実在の怪物に変える

本編の前に置かれた「序篇 降矢木一族釈義」が、まず異様だ。法水が持ち出すのは、紋章学の稀覯本、英国紙「マンチェスター郵報」の記事、明治の戯文、検屍調書、アメリカの雑誌の音楽記事。いずれも降矢木家の周辺資料という体裁で、殺人の話はなかなか始まらない。

ここで読者が受け取るのは事件の手がかりではなく、「この一族と館には、四百年分の堆積がある」という手触りである。館の名前の由来も、皮肉家の文学博士が黒死病死者を詰め込んだ城のようだと嘲ったことから来た、という形で資料の中に埋め込まれている。設定を地の文で説明せず、偽の文献として見せる手つきは、創作者として素直に巧い。

「Mass と acre で Massacre」――暗号を探偵が楽しんで解く快感

第一篇の冒頭、法水は階段廊に置かれた甲冑武者の旗を見て、左右が入れ替えられていると指摘する。富貴の旗と信仰の旗。「信仰と富貴が、Massacre――虐殺に化けてしまうぜ」と言ってのける。

この場面は、本作の魅力と問題を一度に見せてくれる。駄洒落に近い語呂合わせを、重々しい欧州史の知識と掛け合わせて、不吉な宣言へ変えてしまう。読者が自力で解く余地は少ないが、「そうきたか」という驚きの瞬発力は確かにある。館のあちこちに、こうした仕掛けが仕込まれている。

館の歩き方そのものが、探偵の頭脳の見せ場になる

第一篇「死体と二つの扉を繞って」の最初の章は、犯行現場に着くまでが長い。法水は正門前で、近づくと水を浴びせてくる「驚駭噴泉」の仕掛けを検事に説明し、庭園の造りを見渡し、礼拝堂の窓と十二宮の円華窓の様式の食い違いに目を留める。さらに階段の段数を数えて手帳に線を書き入れ、「ちょっとした心理考察」とだけ答える。

事件の核心にまだ入っていないのに、探偵が館の隅々まで読み取る手つきだけで、読者は「この男には見えているものがある」と信じ込まされる。物語の駆動力を、事件ではなく探偵の観察に置く。この発想は、後の推理小説の「名探偵の見せ場」の作り方と比べても、極端で潔い。

文体も、怪奇そのものになっている。冒頭の一文は、事件の説明に入るまでに、館の歴史、噂、建築様式、家族構成を一息に詰め込んで延々と続く。「瘴気」「沼気」「悪疫のような空気」と、湿った不吉な語彙が重なり、読むほど息苦しい。

これは書き手の失敗ではなく、意図だろう。登場人物の台詞まで学術書の引用調で押し通すことで、小説全体が現実から切り離された密室になる。怪奇小説の「空気」を作る手段として、この文体は一貫している。

※ここから結末に触れます。

最終章の転倒:犯人は「保護されていた女性」

結末で法水が名指しするのは、紙谷伸子。事件の途中で、すでに「五人目の人身御供」として死んでいる、算哲の秘書役の女性だ。検事と熊城は、いったんは理法のすべてがひっくり返ったように感じる。法水が同情を寄せていた伸子が犯人で、しかも死者であるという二重の転倒は、確かに大きな構図である。

さらに、伸子は算哲の実の娘だった。男児を後継ぎとして育てるために、生まれた女児を入れ替えた、という内容が、復元された乾板の断片から読める。つまり当主の旗太郎は算哲の血を引かず、算哲の死は娘による親殺しだった、という筋立てだ。

黒死館殺人事件の欠点:犯人・動機・謎解きの甘さを突く

推理に参加させない構造は、本格ミステリとして致命的に不公平

終盤の法水の説明は、竜舌蘭の繊維を針に結んで鍵穴に水を注ぎ、収縮で扉が閉まる、という物理的な仕掛けまで含む。さらに、倒れた屍体がKの形になったのは、伸子が自分で起こしたヒステリー性の麻痺の産物であり、扉の間の繊維がU、拳銃の動いた線がSを描き、最後に Suicide を加えて Kss になる、という解釈が続く。

ここまで来ると、読者は検事と同じ立場に置かれる。「君の説明は、故意に具体的な叙述を避けているように思われる」と検事が苛立つ場面は、読者の本音を代弁しているようで、おかしい。問題は、これらの手がかりが、読者に見える形で事前に提示されていた気がしないことだ。解ける謎ではなく、聞かされる謎になっている。

伸子が犯人であることへの納得材料が、物語の中で弱い

犯人を「保護されていた女性」にするなら、それまでの伸子の描写に、後から読み返して寒気がする二面性が必要だ。ところが法水の説明では、「ある言い損い」の分析(デンマーク国旗の言い違いから、事件の印象が漏れ出た、という心理学の理屈)が決め手の一つとして使われる。これは理屈としては面白いが、証拠としては弱い。読者の目の前で起きた出来事で十分に納得させるのではなく、探偵の頭の中の分析に頼りすぎている。

動機が「出自の悲劇」に回収され、四百年の因縁の割に軽い

序篇では、血統がメディチ家の隠し子にまで遡り、「血系意識から起る帝王性妄想」といった学説まで引かれる。その壮大な前振りに対して、動機は「自分が当主になるはずだったのに、父に否定された」という個人の恨みに収まる。物語の規模と、犯人の内面の落差が大きい。

しかも、乾板は破片しか残らず、他の特異体質者の件は「久遠の謎」として終わる。伏線を大きく張って、回収は一部だけ、という印象は拭えない。法水が最後に「この事件は、一つの生きた人間の詩」と語って感傷的にまとめるのも、謎解きの穴を情緒で埋めているように見える。

知識の量が、必ずしも物語の推進力になっていない

序篇では法水が、ウイチグス呪法典を「僕等が真実怖れていいのは、ウイチグス呪法典一つのみ」と言い切るほど重く扱う。ところが、私が読んで確認できた結末の謎解きで、この呪法典が決定的な役割を果たす場面は出てこない。冒頭で大きく掲げた小道具が、解決の場面では姿を消す。もちろん長い物語の途中で働いているのかもしれないが、少なくとも冒頭の盛り上げと、結末での扱いの釣り合いは悪い。

知識の披露が雰囲気づくりを兼ねているため、読者には「どの情報が謎の解決に必要で、どれが飾りか」が見分けられない。全部が重要そうに見える状態は、全部が飾りに見える状態と紙一重である。

人物の声が区別しにくく、感情移入の足場がない

四人の楽師と一族、容疑者の数は多い。その上で、登場人物の多くが同じ調子の衒学的な台詞回しで語るため、人物の声が区別しにくい。人物造形で読ませるタイプの小説ではないと割り切れるなら問題ないが、キャラクターへの感情移入を求めて読むと、まず挫折する。

終幕で伸子の柩がフィレンツェの市旗に覆われて運ばれていく場面は、法水の「せめて、最後の送りだけでも、この神聖家族の最後の一人に適わしいよう、伸子を飾ってやろうじゃないか」という台詞で情緒的に閉じられる。ただ、そこまで伸子の内面を読者に近づける描写が少ないので、弔いの美しさが感情に届きにくい。

創作者の目で総括すると、この小説は「謎解きの設計図」より「世界の見せ方」の教科書だ。偽の文献を並べて館の歴史を作り、探偵の観察で空間に意味を与え、語呂合わせと暗号で不吉さを演出する。一方で、最後の真相は説明で押し切られ、読者の納得を後回しにしている。長所と短所が同じ根から生えているので、どちらか一方だけを褒めたり貶したりすることはできない。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

向いているのは、次のような人だ。

  • 「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」とあわせて、三大奇書と呼ばれる作品を一通り体験しておきたい人
  • 謎解きの論理より、文体と雰囲気、知識の奔流に酔いたい人
  • 創作者として、「資料をどう物語の中に偽装して置くか」を学びたい人

逆に、フェアプレイの本格ミステリを期待する人、キャラクター同士の心の交流で読ませる物語が好きな人は、序篇の途中で疲れる可能性が高い。

読み方としては、全文を最初から理解しようとしないことを勧める。序篇と第一篇の冒頭で文体に慣れ、肌に合うかどうかを見極める。合えば最後まで、合わなければ結末の最終章だけ先に読んでも、この小説の「過剰さ」の味は十分に伝わる。初出は「新青年」1934年(昭和9年)4月号〜12月号、単行本は1935年に新潮社から出ている。