結論:成長しない男を成長させないまま終わらせる、確信犯の小説
織田作之助「夫婦善哉」は、駄目な男が女に支えられて立ち直る話ではない。立ち直らないことを、最後まで貫く小説だ。読み手が期待する更生も報いも、作者は意地悪なほど与えない。そのかわり、大阪の食べ物と金の数字を積み上げた文章だけで、二人の腐れ縁に「これ以上の落としどころはない」という説得力を持たせてしまう。
ただし、商売と失敗の反復で前に進む構造は、読んでいて明らかにだれる。柳吉という男に魅力を感じられない人は、途中で投げ出して構わない。それでも最後の一場面のためだけに、通して読む価値はある。
最小限のあらすじ
大阪の一銭天婦羅屋の娘・蝶子は、十七で芸者になり、化粧品問屋の息子で妻子ある維康柳吉と深い仲になる。柳吉が勘当されると、二人は駈落ちして所帯を持つ。働かない柳吉に代わって、蝶子はヤトナ芸者で稼ぎ、剃刀屋、関東煮屋、果物屋、カフェと商売を替えて柳吉を「一人前」にしようとする。柳吉の放蕩と病気、実家との確執が、そのたびに貯金を食いつぶしていく。
夫婦善哉の最後の場面「めおとぜんざい」二杯の意味を読み解く
二杯のぜんざいは、この小説の構造そのもの
※ここから結末に触れます。
柳吉の父が死んだとき、蝶子は「お前は来ん方がええ。来たら都合悪い」と電話で突き放される。用意した二人分の紋附は無駄になり、蝶子はガスの栓をひねる。助かった後、柳吉は十日ほどして何食わぬ顔で戻り、「わざと葬式にも呼ばなかった」と策戦だったことにして、蝶子を法善寺の「めおとぜんざい」に連れて行く。
そこで出てくるのが、一人に二杯ずつのぜんざいだ。柳吉は「一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見える」と、店の由来を得意げに講釈する。蝶子の返しは「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」。同じ二杯を、柳吉は「見せかけの水増し」として語り、蝶子は「二人でいることの値打ち」として受け取る。この食い違いが、そのまま二人の関係の全部だと思う。柳吉は最後まで損得と体裁で世の中を見ており、蝶子はそれを知りながら、自分に都合のいい意味を与えて飲み込む。和解でも成長でもない、ただのすれ違いが「めでたしめでたし」の形で固定される。
蝶子の返事は、強がりであり祈りでもある
蝶子はこの場面の直前まで、妾の誘いをはぐらかし、金光教の道場に通って柳吉の帰りを祈っていた。つまり、彼女は柳吉の人間性に何の幻想も持っていない。持っていないのに、二杯に「女夫」の意味を見いだす。ここに、辛口の私でも唸らされる心理の運びがある。裏切られ続けた人間が、自分の選択を正当化する最後の言葉として、駄洒落めいた解釈にすがる。読者はその姿を笑うこともできるし、痛ましく思うこともできる。両方を許す余白が、結末にはある。
おばはんと呼ぶ男、阿呆んだらと呼ぶ女の距離感
柳吉は二十歳の蝶子を「おばはん」と呼ぶ。折檻されるたびに「おばはん、何すんねん」と情けない声を出し、蝶子は「阿呆んだら」と唇を寄せる。暴力と甘えが同じ場面で一続きになる書き方は、この小説の最も生々しい部分だ。関係の主導権は金を稼ぐ蝶子が握っているのに、精神的には柳吉の放蕩に振り回され続ける。この非対称が、会話の呼称だけで立ち上がる。説明を省いた大阪弁の台詞の力は、本物だ。
固有名詞と金額で語る、情緒を排した文体
高津の湯豆腐屋、道頓堀相合橋の出雲屋のまむし、日本橋のたこ梅、自由軒のライスカレー。店の名前は実在の地名と結びつけて並べられ、金は「三百円」「五十円」「百二十円」と細かく書かれる。貯金が溜まっては柳吉が百円、五十円と使う。この数字の積み重ねが、どんな心理描写よりも蝶子の徒労を雄弁に語る。情緒を説明せず、勘定で泣かせるやり方は、書き手として真似したくなる技術だ。
種吉の「切身で釣って、丸口で儲けるんや。損して得とれや」という西瓜の売り方の台詞も、同じ金の感覚が貫かれた名場面だ。損得勘定が人情と地続きになっている大阪の空気が、台詞一本で伝わる。
食べ物の場面が、そのまま二人の関係の温度計になっている
この小説は、二人が何を食べているかを追うだけでも関係の変化が読める。柳吉の「うまいもんにうるさい」性分は、蝶子の稼ぎを削る欠点であると同時に、二人を結びつける唯一の共通言語でもある。食べ物の話をしているあいだだけ、二人の会話は噛み合う。金の話になると噛み合わなくなる。だからこそ、最後に出てくるのが愛の告白でも仲直りの言葉でもなく、ぜんざいの食べ方の講釈と、それへの返しなのだ。二人が唯一対等に話せる題材で幕を引く、という設計は、改めて読み返すとよく計算されている。ここは欠点の多い小説の中で、素直に感心した箇所だ。
書き手の目で見ると、食べ物を「うまそうに描写する」のではなく、「誰がいくら払い、誰が文句を言うか」という勘定の側から描いている点が効いている。味の説明を削った分、読者は店名と値段から勝手に空腹と徒労感を補う。省略で読ませる技術としては、かなり高度だ。
夫婦善哉は退屈?反復構成と柳吉に魅力がない問題を辛口で指摘する
商売の失敗が四回繰り返される構成は、後半にいくほど読みにくい
剃刀屋、関東煮屋、果物屋、カフェ。蝶子が貯金し、柳吉が使い、店を畳む。この循環が四周する。一周目の剃刀屋では開店の朝の空気や「客が来えへんな」という心細さが具体的に書かれ、面白い。しかし関東煮屋以降は「柳吉が遊ぶ、蝶子が折檻する、店が傾く」のパターンがほぼ同じ形で再演される。人物が変わらないという主題のための反復だと理屈ではわかるが、読書体験としては中だるみだ。同じ構図でも、一周ごとに蝶子の感情が少しずつ磨り減る、あるいは柳吉に別の顔が見える、といった変化をつけてくれれば、反復は積層になったはずだ。実際には、事件の規模が大きくなるだけで、読み味は平たいままだ。
柳吉が「許される」理由が、読者に十分渡されていない
蝶子が柳吉に惚れ続ける動機は、出会いの場面で一応は書かれている。梅田新道の店先で算盤を弾く姿が「かいがいしく見えた」、吃りと上向きの口もごもごが「思慮あり気に見えた」という、見た目の印象だ。その後の柳吉は、働かず、無心し、浮気し、病気になり、父の死に際には蝶子を切り捨てる。読者が納得できる魅力は、ほぼ「うまいもんにうるさい」ことと、山椒昆布を二昼夜煮るような凝り性しかない。これでは、蝶子の献身が「なぜ」ではなく「そういうものだ」で処理されてしまう。作者が意図的に理由を書かなかったのだとしても、登場人物の動機を読者の想像に丸投げする点で、造形の甘さは否めない。
自殺未遂から復縁までが、ご都合主義すれすれに処理される
最大の山場である蝶子のガス自殺未遂は、扱いが驚くほど軽い。女給が階下から「今夜はスキ焼でっか」と呼びかけ、栓をひねる直後に、場面は柳吉の帰宅とガスのメーターの音に飛ぶ。助かった経緯は医者を呼んだの一言、新聞記者が記事にする皮肉も含めて、数行で終わる。直後に柳吉は失踪し、手紙で「九州で自活する」と書き、種吉に焼き捨てられ、十日後にひょっこり戻る。「策戦や」という言い訳を蝶子が「本当だと思った」と地の文が書いて、それで通ってしまう。この復縁の運びは、物語の都合に寄りかかりすぎている。蝶子が死にかけた事実が、二人の関係に何の影響も与えないまま、次の場面のぜんざいに接続されるのだ。軽さで読ませる作風だと承知しても、ここだけは落差が大きすぎて、情緒の整理が追いつかない。
お辰の死のくだりは、挿話としては強いが、物語に回収されない
母お辰の死の場面は、小説の中で最も重い。子宮癌でモルヒネの注射を欲しがり、金光教の水をいただき、近所の女たちによれば、最期まで蝶子の身を案じていたという。蝶子は柳吉の看病を選び、危篤の知らせを受けても、駆けつけたときにはもう息がない。「親不孝者と見る人々の目を背中に感じながら」振る舞う場面は圧巻だ。ところが、この痛みはその後の蝶子の行動を変えない。母の死が蝶子に与えた傷は、柳吉の妹がくれた百円と保険金の話に流れて、金の収支のなかで薄まってしまう。印象の強い挿話が構成上の重りとして働かず、そこだけ別の小説のように浮いている。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、物語の「成長」や「救い」より、人間の腐れ縁を観察したい人だ。大阪の食べ物、地名、金の細かさを楽しめる人なら、全編を通して退屈しにくい。逆に、柳吉を好きになれないと読み進めるのが苦痛になる。感情移入で読む人より、登場人物を突き放して眺められる人向けの一作だと思う。
三万字ほどなので、一晩で読める。時間がない人は、冒頭の蝶子の生い立ちと、ぜんざいの最後の場面だけでも拾い読みする価値がある。ただし、ぜんざいの二杯の意味は、柳吉の三度の放蕩と蝶子の折檻を読んだ後でなければ効かない。結末だけ先に読むのは、お勧めしない。
読み方の順番としては、まず蝶子の生い立ちと駈落ちまでをゆっくり読み、商売の反復に入ったら「今回は何がいくら消えたか」だけを拾うつもりで流すと、だれを感じにくい。そのうえで、お辰の死とガス自殺未遂の場面は丁寧に読み返してほしい。ここで蝶子の傷が物語に回収されないことに引っかかった人は、その引っかかりを持ったままぜんざいの場面に進むと、あの二杯が妙に苦く感じられるはずだ。それがこの小説の仕掛けの効き方であり、読後に残る問いでもある。
