結論:文体の発明としては一級品。ただし、物語としては「何も起きない」ことに甘えている
『女生徒』は、少女の頭の中を、止まらない速度のまま紙に写し取った実験作として今も新鮮だ。書き出しの「眼をさますときの気持」を比喩で追い詰めていく数行だけで、この小説に付き合えるかどうかは判定できる。
一方で、事件らしい事件はほとんど起きず、後半は同じ種類の自己嫌悪と自己演出がくり返される。文体の新しさに酔える人には傑作、筋の起伏がないと読めない人には、三万字ほどの独り言に聞こえるはずだ。初出は『文学界』1939年(昭和14年)4月号。今回は青空文庫版を最後まで読んだ上での感想である。
最小限のあらすじ
五月の朝に目を覚ました女学生の「私」が、父を亡くした家で母と暮らしながら、起きてから眠るまでの一日を一人称でたどる。電車、学校、美容院、帰り道、来客、入浴、母の肩もみ、洗濯と場面は移るが、事件は起きない。「私」は目に映るものすべてに反応し、自己嫌悪と空想と憧れを行き来しながら、眠りに落ちる。
「女生徒」の文体の面白さ:思考が飛び続ける独白を解剖する
朝の目覚めを「箱の中の箱」で書く冒頭の力
冒頭は、かくれんぼで見つかる感じに始まり、「いや、ちがう、あの感じでもない」と自分で打ち消し、次に何重にも入れ子になった箱をあけていく比喩に移る。そしてさいころほどの箱の中が空っぽ、という感じに「少し近い」と言う。比喩を並べるのではなく、比喩を探して失敗する過程そのものを見せているのが巧い。正確な言葉に届かない少女のもどかしさが、文のリズムの中で実際に起きている。
続く「朝は、意地悪。」は、わずか六字の断定が長い息の後に置かれて効く。長く続く文と、短く言い切る文の落差が、この作品の呼吸になっている。
「よいしょ」から始まる自己観察と、思考の連鎖のつなぎ方
布団を持ち上げるときの掛け声に、自分の中の「お婆さん」を見つけて気持ち悪くなる。この種の観察が、全編を通じて小さな事件の代わりをしている。眼鏡を外した世界が好き、という話から目の美しさ、父の死、犬のカアへの意地悪へと、連想で飛んでいく。話題は脈絡なく見えて、実は「自分は嫌な子だ」という一点に毎回戻ってくる。散らかった独白に見せて、芯は一本通っている。
電車の席を眼鏡の男に取られる場面も細かい。「そこは私、見つけた席ですの」と言って苦笑され、「どっちが図々しいのかわからない」と自分を疑う。被害を訴えて終わらず、すぐ自分の側にも矛先を向ける癖が、少女の造形に説得力を与えている。
ロココ料理の場面に見る、美と虚飾の自覚
個人的に最も出来がいいのが、台所の残り物を皿に彩りよく並べて「華麗に見せる」ロココ料理のくだりだ。ここで少女は、ロココを辞典で引いて「華麗のみにて内容空疎の装飾様式」と知り、笑う。そして「美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。」と言い切る。
この一節は料理の話でありながら、そのまま「私」の生き方の告白になっている。中身がなくても、体裁で人をごまかす。自分が一日中やっている演技を、皿の上の工夫として見せている。続く今井田夫妻の前で、本音を言ったつもりの「窮余の一策」が褒め言葉として受け取られる場面は、嘘をつく自分より、本音が通じない現実のほうが屈辱だと示していて痛い。
ジャピイとカア、新ちゃん:弱いものへの視線の使い方
白い犬のジャピイを可愛がり、足の悪いカアをわざと冷たくあしらう冒頭の場面は、少女の残酷さを最初に見せる。「可哀想で可哀想でたまらないから、わざと意地悪くしてやる」という説明は、後の目の見えない新ちゃんの挿話に効いてくる。新ちゃんの不自由さを自分は想像するだけだと自覚している点で、かわいそうがる気持ちと優越感が混ざっていると本人が気づいている。この自意識の深さが、ただの感傷に終わらせない。
※ここから結末に触れます。
「幸福は一夜おくれて来る」と、結末の「もう、ふたたびお目にかかりません」
一日の終わり、母と話した後に床に入った「私」は、「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。」とまず言い切る。しかし、きっと来る、明日は来る、と信じて寝るのがいいのでしょう、と続ける。そこで思い出すのが「幸福は一夜おくれて来る」という言葉だ。幸福を待ちきれず家を飛び出した人のもとに、翌日、素晴らしい知らせが届くという話で、文はそこで途切れる。
この引用の意味は、希望を信じろという教訓ではない。幸福はいつも遅れて来るし、待つ側はそれに間に合わない、という皮肉が含まれている。それでも少女は、寝る前の「信じるふり」を選ぶ。そして最後に「王子さまのいないシンデレラ姫」と自分を呼び、「あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?」と、誰にともなく問いかけて終わる。結末で何かが解決するわけではなく、孤独を孤独のまま読者の側に投げ出す形だ。ここは、この作品で最も余韻のある終わらせ方だと思う。
「女生徒」の欠点・違和感:自己演出の多さと、教訓めいた独白が目につく
「ゼスチュアが多い」と自分で言い当てる、自己批評の先回りが過剰
図画の時間に、伊藤先生を「ゼスチュアが多すぎる」とばかにしたあと、「私だって、負けないでたくさんに持っている」と、自分がポーズをつくる人間だと白状する。さらに、それを白状すること自体が「一つのポオズ」だと言って、動きがとれないと続ける。自意識の描写としては見事だが、先回りして自分の欠点を全部申告されると、読者が気づく余地が消える。この自己批評は、作品全体で何度も出てくる。三回目あたりからは、新しい発見ではなく、技の反復に見えてくる。
書き手の側から見ると、これは安全装置でもある。自分で自分を批判しておけば、作者への批判をかわせる。この構造が見えた瞬間、少女の独白が「発見」ではなく「保険」に感じられる箇所が出てくる。
少女が語るにしては整いすぎた社会批判と、教訓を語る箇所
電車の中の雑誌の「若い女の欠点」を読む長い箇所や、洗濯のくだりの「大人になりきるまでの長い厭な期間を誰も教えてくれない」という訴えは、論旨が明瞭すぎる。「きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。」という一行は、作中屈指の鋭い一撃ではあるが、そこへ至る段落が整った主張になっていて、思考がそのまま漏れ出てくる冒頭の質感とは別物になっている。独白の「生っぽさ」を売りにする作品が、ここだけ書き手の意見をはっきり代弁してしまう。
戦時中の言及(「いまの戦争が終ったころ」)や、近衛さんの写真に触れる程度の時代の影が、少女の悩みと絡まないまま通り過ぎるのも気になる。時代と少女の内面が噛み合えば、もっと強い作品になったはずだ。
後半の失速と、母の描き方の都合のよさ
前半の電車と学校の場面は、観察の速度が速く、場面も次々に変わる。対して後半、帰宅してからの母との関係に話が集まると、同じ構図が続く。母を冷たく感じ、後で反省し、また愛おしくなる、という往復だ。母が急に気配りに満ちた存在に変わる肩もみの場面は、反省の結論として、あまりに収まりがよい。映画に行けるよう用事を言いつけて気を遣わせてくれる母、というのは、娘の自己反省をなだめるのに都合のいい人物である。
今井田夫妻も、「敷島を吸う」「顔を畳にくっつけて笑う」といった細部で一方的に断罪される。少女の偏見を描く意図は分かるが、夫妻の側の人間味は一切見えず、批判される側が戯画に留まる。少女の視野の狭さを描くのが狙いだとしても、その狭さを作者がどこまで批評しているのかが、読んでいて掴みにくい。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
筋ではなく文章の動きを味わえる人、一人称の独白形式に興味がある人、自分の中の「ポーズをとる自分」に覚えがある人には強く勧められる。逆に、事件や成長の山場が欲しい人、結末に答えを求める人には向かない。
太宰の入口としては、同じ作家の走れメロスのほうが筋が明快で読みやすい。『女生徒』は、その後に読んで、同じ作家が語り口をこれほど変えられると確かめるのに向いている。また、語り手の自己弁護と自己嫌悪の構造を比べたいなら、人間失格と並べて読むと、少女の「ポーズ」と大庭葉蔵の「道化」の違いが見えてくる。


