結論:主役の狂気は一級品。ただし、そこに辿り着くまでの文体の壁は本物
幸田露伴「五重塔」は、青空文庫の新字新仮名版で約5万7千字、全35章。しかも地の文の多くが、句点をほとんど打たずに延々と続く文語まじりの長文だ。冒頭の第一章は、長火鉢の前に座る女の描写だけで読点の波が押し寄せ、物語がなかなか動かない。入口の敷居の高さは、日本近代文学でも指折りだと思う。
それでも読み通す価値はある。腕がありながら「のっそり」と笑われてきた大工・十兵衛が、恩人の申し出を「厭でござりまする」と蹴ってまで塔を建てたがる、その偏執が小説の芯にあるからだ。ただし、周辺の人物の都合のよい動かし方や、結末を噂話で処理する構成には、創作者として首をかしげる箇所が少なくない。「名作だから」で褒める作品ではなく、「どこが凄くて、どこが荒いか」を分けて読むべき小説だ。
最小限のあらすじ
江戸・谷中の感応寺に五重塔を建てる話が持ち上がる。出入りの名棟梁・川越の源太が引き受けるはずのところに、腕は確かだが世渡りが下手で「のっそり」と呼ばれる大工の十兵衛が、自分にやらせてほしいと上人に願い出る。同じ仕事を望む恩人と弟分格の職人。二人の意地がぶつかるなか、塔は誰の手で建ち、完成した塔は嵐に耐えるのか、というのが主筋だ。
※ここから結末に触れます。
十兵衛の狂気と源太の侠気:「五重塔」の独自の深掘りと読みどころ
十兵衛が源太の共同提案「厭でござりまする」を蹴った本当の理由
この小説の最大の山場は、塔が建つ場面でも嵐の場面でもなく、源太が十兵衛の家に出向いて「二人で建てよう」と持ちかける場面だと私は考える。上人は兄弟が争う譬え話で二人を諭した。源太はその意図を汲み、自分の欲を折って頭を下げに来る。「頼む頼む、頼むのじゃ」とまで言い、さらに「汝を心に立てるほどに」、つまり十兵衛を主、自分を副にしてもよいとまで譲る。
普通の物語なら、ここで十兵衛が感極まって受けるところだ。ところが十兵衛は「どうも十兵衛それは厭でござりまする」と答え、「一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衛心になっても副になっても、厭なりゃどうしてもできませぬ」と言い切る。源太の側から見れば恩を仇で返す無礼だが、十兵衛の側から見れば、半分の塔は自分の塔ではない。職人の本望が「自分一人の意匠を末代に残すこと」にある以上、譲歩されるほど、かえって譲れなくなるのだ。
私が感心するのは、この断りが「頑固」や「強欲」には見えないように書かれている点だ。直前の十兵衛は、上人の諭しを受けて一度は「溝板でもたたいて一生を終りましょう」と諦めきっている。諦めたうえで、それでもなお二人で建てるのだけは受けられない。この矛盾のなさが、十兵衛を単なる野心家ではなく、仕事に取り憑かれた人間として立たせている。
源太が「いい人」で終わらない:蓬莱屋の宴会と「地震か風のあろう時」の一言
源太を完全な好人物に描かなかったことも、この小説の強みだ。上人に諭されて身を引き、十兵衛を不忍池の蓬莱屋に呼んで、材木問屋や鳶の頭への口利きまで申し出る。ここまでは度量の大きい兄貴分だ。ところが、自分が苦労して作った絵図や積り書を十兵衛が「御親切は頂戴いたも同然」と受け取らないと、態度が一変する。
一転して言葉を丁寧にし、「十兵衛殿」と殿をつけて、「地震か風のあろう時壊るることはあるまいな」と釘を刺す。十兵衛が「のっそりでも恥辱は知っております」と返すと、「忘れぬように記臆えていよう」と睨んで席を立つ。親切が通らないと憎しみに転じる、その温度差が人間臭い。しかもこの「風」の一言が、終盤の嵐の伏線として生きる。源太の捨て台詞が、そのまま塔の試練の予告になる構成は見事だ。
嵐の夜の「大丈夫、大丈夫でござります」:職人の自信を台詞で見せる手際
完成した塔を、江戸を襲う大暴風が揺さぶる。円道と為右衛門は塔が倒れると青ざめ、使いの七蔵爺が十兵衛の家へ駆けつけるが、屋根が半分吹き飛んだ家の隅で親子三人が身を寄せていても、十兵衛は動かない。「塔は大丈夫倒れませぬ」「大丈夫、大丈夫でござります」。
この場面で面白いのは、自信が「理屈」ではなく「上人が疑わない限り呼ばれても行かない」という信頼の形で語られる点だ。十兵衛は「お上人様が一言半句十兵衛の細工をお疑いなさらぬ以上は何心配のこともなし」と言う。ところが七蔵が二度目に「上人様のお召しじゃ」と言うと、十兵衛は崩れる。自分の仕事を疑われたと感じ、六分鑿を握って塔の最上層に出て、死ぬ覚悟で風雨を睨む。つまり十兵衛の自信は、本当は他人の信頼に支えられた脆いものだった。強がりと脆さの両方を、台詞のやりとりだけで見せるこの二段構えは、書き手として学ぶところが多い。
文体のリズム:読点で押し切る長文と、一転して短い応酬
文体は確かに読みにくい。ただ、ずっと同じ調子ではない。地の文は読点で息継ぎだけしながら畳みかけるが、会話の応酬になると一気に短くなる。典型は、清吉が十兵衛に斬りかかった後、鋭次が清吉を押さえる場面だ。「馬鹿め。放して。馬鹿め。親分。馬鹿め」と短い言葉が往復し、こちらの息が詰まる。長い文で溜めて短い文で切る、この緩急が、読み慣れてくると癖になる。
逆に言えば、慣れるまでの数章が本当に辛い。最初の数章は、登場人物の紹介を長文の中に詰め込んでいるため、誰が誰なのかを追うだけで消耗する。ここで脱落する人が多いのも無理はない。
忖度なしの欠点・違和感:結末の処理と清吉の暴走が惜しい
五重塔の結末が「噂話」で処理される:嵐のクライマックスの置き場所
最大の不満は、物語の山場の扱いだ。十兵衛が塔の最上層に立ち、死を覚悟して徘徊する場面は第34章で確かに描かれる。しかし塔が持ちこたえたかどうかは、次の第35章で「釘一本ゆるまず板一枚剥がれざりし」と、江戸の人々の世間話として報告される。しかも噂は割れていて、塔を睨んでいた男を「親分」と言う者がおり、「親分ではない商売上敵じゃそうな」と言う者もいる。
この曖昧さを狙った余韻と取ることはできる。だが、読者がずっと追ってきたのは十兵衛と源太の関係だ。その決着が「誰かの噂」で済まされるのは肩透かしに近い。そのまま最後の落成式で、上人が「江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す」と筆で銘を書き、両人が平伏する一場面で全員が納得して終わる。二人が互いの胸の内をぶつけ合う場面が、結末に一つもないのだ。物語の緊張は嵐で最高潮に達し、その直後に語りが急に引いていく。もう一場面あれば、という気持ちが残る。
清吉の暴走と「都合のよい」収拾:脇役が筋を動かしすぎる
源太の弟子・清吉が、親方の屈辱を晴らそうと十兵衛の左耳を斧で斬り落とす場面は鮮烈だ。しかし、ここで私が引っかかるのは、事件を起こすのが清吉という脇役の短絡で、しかも収拾を担うのが鋭次の「馬鹿め」の連打と、お吉が裏で出す路銀だという点だ。主役二人の対立が深まる決定的な事件を、周辺人物の暴発に任せているのである。
その後の始末も、お吉が自分の着物や櫛笄まで質に入れて清吉を上方へ逃がし、母親は源太に泣きつき、源太は「出入りを禁む」と言い渡す、と周囲が手際よく片づけてしまう。清吉の母の「ハイハイ」の訴えは胸を打つが、それは事件の後始末の感情であって、十兵衛と源太の関係を前に進めない。むしろここから先、源太がどう折り合いをつけたのかが、間接的にしか分からないのだ。主役が自分で動かない物語の、窮屈さを感じる。
上人の決定が「理由なし」:最も肝心なところが説明されない
もう一つ、創作者として許せないのが、上人が十兵衛に仕事を任せる決定の理由が、本文で説明されない点だ。円道が「方丈思しめし寄らるることあり格別の御詮議例外の御慈悲」と告げ、上人は「思う存分し遂げて見い」と言うだけである。のちに源太が語る内容も、上人の言葉の伝聞であり、判断の根拠は見えない。
物語の転回点が「偉い人の一言」で決まるのは、構成としては弱い。十兵衛の腕が評価されたのか、源太の譲歩が評価されたのか、あるいは別の意図があるのかで、この小説の意味はかなり変わる。そこを曖昧にしたまま、塔の成否を人格的な試練にしてしまうのは、作者の側が主題を整理しきれていないように見える。
人物の描き分け:お吉とお浪の「賢い妻」が似すぎる
もう一点、細かい指摘をする。源太の妻・お吉と十兵衛の妻・お浪は、どちらも夫を思い、裏で家を支える「賢い妻」の型に収まっている。お吉は源太の気持ちを察して着物を質に入れて清吉を逃がし、お浪は十兵衛に頭を下げさせようと泣いて訴える。立場が対照的なのに、役割がほぼ同じなのだ。二組の夫婦を鏡のように置く意図は分かるが、その結果、女性たちの個性が薄れている。十兵衛の暴走を抑える役割が、お浪にだけでも与えられていれば、家庭の描き方はもっと立体になったはずだ。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向いているのは、物語の筋よりも「人物の執念」を味わいたい人、そして文体そのものを楽しめる人だ。職人が自分の仕事に命を賭ける話を読みたい人にとって、十兵衛はこの上ない主役になる。創作をしている人なら、台詞の緩急や伏線の置き方から学べることも多い。
逆に、起承転結がきれいに決着する物語が好きな人、現代語に近い読みやすさを求める人には勧めにくい。最初の数章で挫折するのが目に見えているからだ。読むなら、最初の数章は文の意味を完全に追わず、リズムに身をまかせて進むのがコツだ。十兵衛が源太の申し出を拒む場面あたりから、一気に面白くなる。ここまで辿り着ければ、あとは最後まで一気に読める。
