有島武郎「或る女」感想ネタバレ|葉子の結末と後編の失速

結論:前編は近代小説屈指の出来。後編は作者が主人公を持て余す

有島武郎「或る女」は、前編の最初の数十ページだけで読む価値がある。早月葉子という女の「見られる自分を演出する癖」を、これほど冷静に、これほど残酷に書いた小説は同時代にほとんどない。一方で、全体では約36万字と長く、後編に入ると葉子の内面が同じ熱で空回りし続ける。傑作と言い切るには、作者が自分の造った主人公を最後まで制御しきれていない。

悪女の物語として読むと肩すかしを食う。これは「自意識が強すぎる人間が、自分の自意識に殺される過程」の記録だ。人物に感情移入したい読者には劇薬で、人間の観察を読みたい読者には宝の山になる。

最小限のあらすじ

明治の東京。早月葉子は、新聞記者・木部孤との恋と結婚に失敗し、私生児の定子を生んだ過去を持つ。母も父も亡くなり、二人の妹・愛子と貞世を抱えた葉子は、アメリカにいる婚約者・木村のもとへ渡るため、絵島丸に乗り込む。ところが船上で、事務長の倉地三吉に心を奪われる。木村との約束と、倉地への欲望の間で、葉子は自分から袋小路へ進んでいく。

※ここから結末に触れます。

「或る女」の独自の深掘り:葉子の性格と自意識の構造を読み解く

冒頭の新橋駅:葉子は「見られる自分」を演じている

冒頭は、新橋の改札で始まる。遅れてきた葉子は、せき立てる改札係に向かって「花が咲いたようにほほえんで見せた」。改札係はそれで毒気を抜かれ、切符に孔を入れる。一場面で、葉子が自分の容姿を道具として使いこなし、周囲の視線を計算していることが分かる。

うまいのは、この計算が汽車の中で崩れる点だ。乗客の中に別れた夫・木部を見つけた葉子は、親しい媚びの色を浮かべてうなずこうとする。ところが木部は微笑み返さない。そのとき彼女の心は「かっと」なる。人から見られる自分を演出していた女が、演出に応じない相手を前に、逆に自分が見られる側に落ちる。この反転を冒頭の十数ページで済ませる構成は、創作をする側から見ても教科書的に手際がいい。

「解剖刀のような批判力」が葉子を救わず、追い詰める

木部との過去を語る第二章で、作者は葉子の頭の良さを徹底的に書く。ヴァイオリンの師に「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と言われると、無造作に楽器を窓の外へ放り投げて退学する。男たちは「もう一歩という所」で突き放される。

この「見抜く力」は、普通の小説なら主人公の武器になる。しかし本作では逆で、他人の底が見えすぎるせいで誰とも本気で交われず、自分の底も見えてしまう。木部に自分と似た顔立ちを見つけて「自尊心は思う存分に傷つけられた」という記述は、恋の失敗の理由を性格ではなく、自意識の構造に置いた点で鋭い。葉子が悪いのでも、男が悪いのでもない。見えすぎる目そのものが不幸の原因だ、という設計になっている。

倉地と木村の対比:前編の締めくくりが示す葉子の残酷さ

前編の終盤は、この小説の最良の部分だ。木村が金に窮して事務長の倉地に頼み込む場面で、倉地は「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」と言い切る。葉子は普段なら弱者の味方をする。それなのに、木村には同情が湧かない。弱さの哀れよりも醜さが見えてしまうからだ。

そして夜、葉子は倉地のそばにいながら、木村が一人で祈る姿を想像する。想像は克明なのに、その場面を「小説を読んだ時」のような「無関心の Pathos」としか感じない。人を傷つけた後ろめたさではなく、他人事の悲劇を眺める観客の感情で終わる。そして最後、「木村木村」という声に囲まれる悪夢で目を覚ます。罪悪感を言葉で説明せず、悪夢の字面の配置で見せる手法は、今読んでも生きている。

視点の置き方:葉子に寄り添いながら、葉子を突き放す語り

この小説の語りは、葉子の頭の中に深く入り込みながら、ときどき一歩引いて彼女を眺める。新橋の場面で改札係をほほえみ一つで黙らせる葉子も、汽車の中で木部に無視されて「かっと」なる葉子も、同じ語り手が見ている。読者は葉子の計算を内側から知らされるので、彼女の演技にだまされない。それでいて、演技が崩れた瞬間の動揺は、本人と同じ温度で味わってしまう。

この二重の距離があるから、前編の葉子は嫌いになりきれない。共感させすぎず、断罪もしすぎない。書き手として真似したくなる、危うい均衡だ。逆に言えば、この均衡が保たれているうちは面白く、崩れた後編で退屈が目立つ理由も、ここから説明できる。

木村という人物の置き場所:葉子の残酷さを映す鏡

木村は、物語の中でほとんど登場しない。それなのに、前編の締めくくりで強い印象を残す。作者は木村を魅力的な男には書かない。弱く、金に窮し、頼み込む姿が葉子の目に「醜く」映るように配置している。つまり木村は、葉子の冷たさを測る物差しとして置かれた人物だ。読者は木村に同情しながら、同情できない葉子を見て、彼女の自意識の硬さを知る。脇役の使い方としては、無駄がない。

忖度なしの欠点・違和感:後編の中だるみと、倉地という人物の薄さ

後編で葉子の感情が同じ温度で空回りし続ける

前編は、葉子の自意識が外の世界とぶつかるたびに新しい場面が生まれた。後編は、倉地への執着、愛子への猜疑、貞世の病、嫉妬の発作と、同種の昂ぶりが繰り返される。後編の終盤、病室を訪れた岡に向かって葉子は、貞世はもう死んでいると決めつけ、一気に畳みかける。この独白は迫力があるが、読者はもう葉子が疑い、激し、泣き、また疑う型を何度も見ている。感情の振幅は大きいのに、物語としては同じ場所を回っているように感じる。

書き手の立場から言えば、人物の内面を徹底して書くほど、外から事態を動かす出来事が必要になる。本作は後編でその出来事を、倉地の失踪と新聞報道という外側の事件に頼っている。内面描写の密度に対して、展開の仕掛けが薄い。

倉地三吉が「大きな男」以上の人物にならない

葉子が人生を賭ける相手は倉地だ。ところが倉地は、ぶっきらぼうで大柄で、新聞を広げて煙草をくゆらす「大きな子供みたような暴君」として描かれ続ける。魅力は肉体の力強さと無頓着さに集約されている。木村や木部の弱さは細部まで書き込まれるのに、倉地の内面は最後までほとんど開かれない。

だから結末近く、倉地が軍事上の秘密を外国に漏らす商売に関わった疑いで姿を隠し、さらに「外妾が二人ある」という報道が届いても、読者にはその衝撃が測れない。葉子にとっては世界の中心なのに、読者にとっては最後まで外から見た影のままだ。作中で最も葉子を動かす人物が影絵であることは、構成上の大きな弱点だと思う。

結末の宙づり:葉子の最期は救いなのか、書き切れなかったのか

最終盤、葉子は手術前夜に月を見て、いったん不思議な静けさに至る。「許すべき何人もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま」という境地だ。ここで物語を閉じれば、見事な到達点になった。ところが翌朝、葉子は岡にも付き添いのつやにも激しく当たり散らし、手術後は子宮底穿孔の激痛に襲われ、「痛い痛い痛い……痛い」と叫ぶところで後編が終わる。

葉子が死んだとは書かれていない。内田に会いたいと祈り、その到着は描かれない。この終わり方は、救いも断罪も与えない点で誠実だが、前夜の静けさと翌朝の荒れ方が連続しないため、成長や悟りを得たのかも判断できない。結末の意味を読者に委ねたというより、作者が決めきれなかったという印象のほうが強い。

前編と後編の落差は、構成の設計ミスか

前編は船出までを描き、葉子の自意識と他者との衝突が場面ごとに違う形で現れる。後編は、帰国後の葉子を倉地との関係と家族の問題に閉じ込める。舞台が狭くなるのに、葉子の感情だけが膨らんでいく。長編の後半で世界を絞るのは珍しくないが、その分、人物の内面に変化の段差が要る。ところが葉子は、前夜に静けさを得た翌朝にまた荒れる。変化ではなく反復で終わるため、読み終えた後の手応えが前編ほど残らない。

逆の作りもありえた。前編の濃度を保つため、後編を短くして倉地の内面にも光を当てれば、葉子の執着の理由が読者に伝わったはずだ。約36万字という長さに見合う設計になっていたか、という問いは最後まで残る。

この本を一番楽しめるのはどんな人か

約36万字の通読に耐えられる人、そして「共感できない主人公でも、観察が鋭ければ読める」と思える人に向く。人物造形や心理描写を学びたい書き手にとっては、前編が最高の教材になる。

時間がない人は、まず前編の冒頭の汽車の場面(第一〜三章)と、前編のラストの木村と倉地の場面を読んでほしい。そこで葉子に引き込まれたなら、後編へ進めばいい。後編は、物語の山場よりも、葉子が追い詰められる過程そのものを味わう読み方が合っている。底本は青空文庫で前編(初出は雑誌「白樺」、1911年1月〜1913年3月に『或る女のグリンプス』の題で連載)と後編(初出は叢文閣『有島武郎著作集 第九巻』、1919年6月)に分かれて公開されている。