結論:本格推理を期待すると外す。だが「銭を投げる男」の発明は今も古びない
野村胡堂「銭形平次捕物控」は、論理で犯人を詰めるミステリではない。少なくとも連載の最初期は、伝奇活劇と人情話に捕物の衣を着せた読み物だ。謎解きの精密さを求める人には粗が目立ち、肩の力を抜いて「一話完結の時代劇」を浴びたい人には格好の入口になる。
青空文庫には、この連作が数百話の規模で公開されている。ここでは最初の二話、第1話「金色の処女」と第2話「振袖源太」を実際に通読したうえで、シリーズ冒頭の姿を評価する。後年の話数まで読み通した評ではない点は、先に断っておく。
評価を一言でいえば、人物と道具立ては一級、事件の組み立ては甘い。平次が「手柄を立てない」ことで愛される探偵だという逆説まで、第2話の時点で出来上がっているのは見事だが、そこへ至る事件の運びには、創作をする側の目で見ると首をかしげる箇所が多い。
最小限のあらすじ
舞台は江戸。岡っ引の銭形平次は、小銭を指で弾いて犯人の面を打つ「投げ銭」の名手で、毎話ひとつ難事件に巻き込まれる。第1話では、将軍家光を狙う毒矢の曲者を、御鷹狩の日までに挙げよと与力の笹野新三郎に頼まれる。第2話では、呉服屋の子供が十日おきに消える連続誘拐に、両国橋で身投げを止めた老爺の縁から飛び込んでいく。
投げ銭と「手柄をしない探偵」の魅力を分解する
銭形平次の投げ銭は、なぜここまで絵になるのか
第1話には、綽名の由来が丁寧に書かれている。手持ちの永楽銭を親指で弾き、落ちてくるのを受けて表裏を見る「銭占」。難事件では腹巻から鍋銭を取り出し、曲者の顔に投げつけて怯んだところを捕る。この二つの癖が、占いの小道具と飛び道具を兼ねている。
道具が一つで済むのが強い。読者は「銭が出たら見せ場だ」と身構えられるし、書き手は毎話、銭をどこで、何のために使うかで変化をつけられる。第2話では、身投げしようとする老爺の横鬢に剰銭の永楽銭を当てて救う。殺す武器ではなく命を拾う技にしてあるところに、この作家の人情の置き方が出ている。
第1話の小判投げは、バカバカしいほど大胆な見せ場
白眉は第1話の終盤だ。将軍が口にしようとする薬湯の茶碗めがけて、平次は腹巻の小判を一枚、投げ銭で飛ばして叩き落とす。小判は岡っ引にとって一身代で、しかも預かりものだが、人の命がかかっているので惜しまない。この「身銭を切る」感覚が、投げ銭という技に重みを与えている。
さらに、そこにいた将軍は替え玉の笹野新三郎だった、というひっくり返しが続く。娘のお小夜が差し出した「お薬湯を召し上がりませ」という誘いを、偽者の家光が受けて、毒を確かめる。この二重の芝居は、短編の山場としてよくできている。
失敗してもいい探偵像を、第2話で早くも決めている
第2話「振袖源太」の結末は、現代の読者にも意外に響く。復讐のために福屋の子供をさらった軽業師の源太を、平次は力で押さえず、女房のお千代の縄を解いて、二人とも逃がしてしまう。そのとき平次が源太に向けた「敵は討ちすぎるものじゃない」という一言が、この話の主題だ。
叱る与力に平次が小さくなる場面を経て、語り手は「手柄をしない平次」の名がまた高まるだろうと結ぶ。犯人を捕らえないことで評判が上がる探偵、という型を、連載二話目で作ってしまった。毎週のように事件が起きる連作で、読者が平次を嫌いにならずに済む最大の仕掛けは、ここにあると見ている。
二話を並べると見える、平次の勝ち方は「捕らえる」ではなく「救う」
第1話と第2話は、事件の規模がまるで違う。前者は将軍の命と連続して消える美女、後者は呉服屋の子供たちという、片や国の頂点、片や町の商家の話だ。それでも平次の動きには共通点がある。第1話では小判を投げて薬湯の茶碗を叩き落とし、第2話では身投げしようとする老爺を永楽銭で止める。どちらも、まず目の前の命を拾うことに身銭と技を使っている。
この一貫性は、謎解きの精密さよりずっと大事な資産だ。論理で犯人を詰める探偵なら、事件ごとに頭の冴えを見せ直さなければならない。平次は「この男は人を助けるために銭を投げる」という一点を守ればよく、事件が荒唐無稽でも読者の信頼が崩れない。粗の多い筋立てを人物の芯で支えているわけで、書き手としては、連作を長く続けるための賢い設計だと認めざるを得ない。
※ここから結末に触れます。
忖度なしで言う、ご都合主義と構成の粗が目立つ箇所
第1話は「推理」ではなく、勘と偶然で転がっている
第1話の平次は、唐花屋という化粧品屋の看板を見ただけで「これだッ」と膝を打つ。連続して美女が消える事件と結びつける根拠は、読者にほとんど示されない。そこから先は、お静を囮に差し出し、駕籠を追って御薬園へ忍び込み、天井裏に閉じ込められる。事件の真相は、捕まえるより先に「見てしまう」ことで開示される。
つまり平次が解いたのではなく、閉じ込められた場所がたまたま儀式を覗ける部屋だったから分かった、という構造だ。探偵の知恵が事件を動かすのではなく、のぞき穴が事件を説明してくれる。しかも結末の地雷火の場面では、お静の隠し場所を「解った」の一言で当ててしまう。解った理由は本文では語られず、荒海の衝立を倒したら唐櫃があった、で終わる。創作の立場からいえば、最も溜めが必要な箇所で説明を省いている。
お静を囮にする平次の判断は、主人公として苦しい
平次は、思いを寄せ始めた水茶屋の娘お静に半日の暇をもらい、危険と薄々知りながら唐花屋に買い物へ行かせる。作者は後で「恋心が盲目的にさせた」と言い訳のように書くが、読者の目にはまず、主人公が好きな女を撒き餌に使った事実が残る。
お静はその後、儀式のために金箔を塗られ、箱に詰められる。しかも平次はまる二日眠らされ、御鷹狩にはほとんど役に立たない。事件を終わらせたのは、将軍に化けた笹野新三郎の仕込みに平次が乗っかった部分が大きい。第1話を「平次が有名になった事件」とするなら、主役の手柄としては弱い。作者自身が冒頭で、これは最初の手柄話で平次を有名にした事件だと断っているだけに、余計に目立つ。
第2話の「見張り破り」は、答えが言葉だけで片づけられる
第2話は、向島の寮での厳重警戒をくぐって娘が消える二つの場面が山だ。平次は後で「お嬢さんの部屋では女中のお千代が一人二役をやった」「栄三郎のときは天井板から抜けた」と種明かしするが、前者は床の中の人影を暁方まで確かめた記述との整合を、平次の台詞一つで済ませている。
もう一つ、燭台を次々に倒す場面で、近所の娘に化けていた源太を平次は見抜いて、しかも女中の裾を掴んで離さない。読んでいて笑えるが、フェアプレーの伏線としては弱い。「近所の娘が実は男」という手がかりが事前に一本も置かれていないからだ。読者が推理に参加する余地はなく、あとから「そうでした」と告げられる形になる。
悪役の動機は強いが、決着が「口で説得」に傾きすぎる
源太の動機そのものは練られている。本家福屋の倅で、善兵衛が讒訴で家を潰したのが復讐の発端。五の日にさらったのは、父が流された日と母の死んだ日が五と十五だったから、という後出しの説明まで用意される。復讐の筋としては、読者が敵役に同情できる設計だ。
ところが決着が弱い。百貫目の石を吊るした檻の綱に刃を構える源太に、平次は女房の命を交換条件に出し、さらに「善兵衛は今朝死んだ」と最後の切札を切る。この言葉が事実なのか、揺さぶりの嘘なのか、本文は明示しない。読者としては最も気になる点を放置され、五人の子供の無事も、平次の台詞の勢いのまま片づく。緊迫の頂点を、説得と情で処理する作風は個性だが、サスペンスとしては肩すかしだ。
欠点を一つにまとめるなら、解決の手段が行動ではなく台詞に偏っていることだ。第1話の「解った」の一言、第2話の種明かしと「敵は討ちすぎるものじゃない」という説得。どちらも読者が見ていない場所で答えが出来上がり、平次がそれを口頭で渡してくる。投げ銭という視覚的な武器を発明しておきながら、肝心の決着は語りに頼る。この落差が、せっかくの絵になる見せ場を、あと一歩のところで物足りなくしている。
この本を一番楽しめるのはどんな人か
向くのは、一話完結の時代劇をテンポよく浴びたい人、そして「探偵とは何か」を謎解き以外の面から考えたい人だ。投げ銭という絵になる必殺技と、犯人を逃がす優しさ。この二つを味わうなら、青空文庫で第1話から順に読み始めるのが一番早い。
向かないのは、伏線の精度や論理の一本道を重視する本格ミステリの読者だ。種明かしが台詞で片づく場面、手がかりが読者に渡らない場面が、最初の二話だけでもはっきり見える。
読む順番の案内をするなら、まず第1話「金色の処女」で伝奇色の強い出発点を見て、次に第2話「振袖源太」で、のちのシリーズに通じる人情の型を確かめるのがいい。両方を読んで合わないと感じたなら、この連作はそれ以上読んでも印象は大きく変わらないだろう。逆に、第2話の幕切れで「こういう探偵が好きだ」と感じた人は、長く付き合える。
