黒白小説「黒白」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

この物語は、ただのミステリーや犯罪小説という枠には到底収まりきらない、実に奇妙で、そして奥深い魅力に満ちた作品です。主人公である作家が、自ら生み出した物語によって現実世界で追い詰められていく。その過程で露わになるのは、人間の心の弱さ、芸術という名の魔性、そして虚構と現実が溶け合ってしまう瞬間の、めまいがするような恐ろしさなのです。

谷崎潤一郎という作家が、いかに人間の心理を深く見つめ、それを物語として構築する名人であったか。この『黒白』という一作を読むだけでも、その凄みの一端に触れることができるでしょう。読み進めるうちに、読者である私たち自身も、主人公の狂気と現実の境界線がどこにあるのか、分からなくなってくるような感覚に囚われます。

この記事では、まず物語の骨子を追い、その後で、物語の結末にも触れながら、私がこの作品から何を感じ、どう解釈したのかを、たっぷりと語らせていただこうと思います。この迷宮のような物語の世界を、一緒に探検していただけましたら幸いです。

小説「黒白」のあらすじ

物語の主人公は、水野という名の通俗小説家です。彼は才能には恵まれているものの、性格は自己中心的で怠惰そのもの。借金を重ね、締切は破り、出版社を悩ませてばかりいるような人物でした。そんな彼が、生活費を稼ぐために「殺しの手際」と題した、いわゆる「完全犯罪」をテーマにした小説を書き上げます。

この小説の中で犠牲者となる人物に、水野は、偶然知り合っただけのぱっとしない同業の作家、小島という男をモデルとして据えました。特に深い意味はなく、ただ彼の顔つきがどこか気に入らない、という程度の理由でした。水野にとって、小説はあくまで空想の世界の出来事。現実の人間をモデルにすることに、何のためらいもなかったのです。

ところが、小説が雑誌に掲載される直前になって、水野は致命的なミスを犯していたことに気づきます。なんと原稿の最終ページで、殺される登場人物の名前を、モデルである小島の実名で書いてしまっていたのです。慌てて修正を依頼するも、時すでに遅し。水野の小説は、現実の人間「小島」が殺される物語として、世に出てしまうことになりました。

この瞬間から、水野の心は得体の知れない恐怖に支配され始めます。もし、この小説に影響された誰かが、本当に小島を殺してしまったら?そうなれば、真っ先に疑われるのは自分に違いない。彼の心の中に渦巻き始めた妄想は、やがて彼を、現実と虚構の区別がつかない狂気の淵へと追い込んでいくことになるのです。

小説「黒白」の長文感想(ネタバレあり)

さて、ここからは物語の結末に触れつつ、この『黒白』という作品が、いかに恐ろしく、そして抗い難い魅力を持っているかについて、詳しく語っていきたいと思います。この物語の真髄は、犯人探しのミステリーにあるのではなく、主人公・水野の精神が崩壊していく過程そのものにあります。

まず、主人公である水野という人物の造形が、実に素晴らしいと思います。彼は絵に描いたような放蕩作家で、自己中心的で、他人に対する共感性が著しく欠如しています。しかし、だからこそ彼は、自分の書いた物語が現実を侵食し始めたときの恐怖を、常人以上に純粋な形で受け止めてしまうのです。彼の内面世界こそがすべてであり、その世界が脅かされたときのパニックは、滑稽でさえありながら、切実なものとして伝わってきます。

彼が書いた「殺しの手際」という小説で、なぜ犠牲者のモデルに、さして親しくもない小島を選んだのか。それは水野にとって、他者とは自分の創作のために利用する「素材」でしかなかったからです。そこには悪意すらありません。ただ、芸術家としての傲慢と、他者への徹底した無関心があるだけなのです。この共感の欠如こそが、後に彼自身の首を絞める最大の要因となっていきます。

そして物語が動き出す、あの決定的な「誤記」の発見。フィクションの登場人物が、生身の人間の名を持ってしまった瞬間です。これは単なる間違いではなく、虚構と現実を隔てていた薄い壁が、決定的に破れてしまったことを象徴しています。水野の恐怖は、ここからパラノイアへと発展していくのですが、その過程が実に丹念に描かれているのです。

出版社の編集長である原田が、水野の必死の訴えを笑い飛ばして取り合わない場面も重要です。外部からの理解や救いを断たれたことで、水野の恐怖は完全に内側へと向かいます。彼の不安は誰にも共有されず、彼自身の心の中だけで、まるで生き物のように増殖し、彼を蝕んでいくことになるのです。社会との繋がりが、いかに脆いものであるかを突きつけられるようです。

ここから始まる水野のアリバイ工作が、また常軌を逸していて目が離せません。淋病にかかったふりをして、夜中に何度もトイレに立つ姿を隣人に見せつけようとするなど、その行動はもはや理性的ではありません。しかし、追い詰められた人間が、いかに非合理的な思考に陥るかという心理が、恐ろしいほどのリアリティをもって描かれています。必死であればあるほど、その行動は滑稽に見え、彼の孤独を際立たせていくのです。

その狂騒のさなかに現れるのが、「フロイライン」と呼ばれる謎めいた女性です。アリバイ作りのために一夜を共にしようとした水野は、逆に彼女の魅力にのめり込んでしまいます。彼女は、水野の抱える現実の恐怖からの逃避先であると同時に、彼の経済状況をさらに悪化させ、破滅を早める存在でもあります。この皮肉な巡り合わせは、まるで運命が悪意を持って彼を弄んでいるかのようです。

フロイラインの西洋的な雰囲気は、水野が囚われている日本の文壇や人間関係のしがらみからの逃避を象徴しているのかもしれません。しかし、その逃避でさえも、結局は金銭ずくの虚しい関係でしかない。彼はどこへ逃げようとしても、結局は自分の作り出した悪夢からは逃れられないのです。

そして、ついに水野は、現実をコントロールするための究極的な手段に打って出ます。それが、「『殺しの手際』を書いた男の殺しの手際」と題した、自分自身を登場人物とする続編の執筆構想です。これは、もはや現実から逃げるのではなく、現実そのものを自分の物語の支配下に置こうとする、壮大な試みと言えるでしょう。

この計画中の続編で導入される「影男」という存在は、水野の心理を理解する上で非常に重要です。影男は、水野の書いた小説通りに殺人を実行し、作者である水野を罠にはめる謎の人物として構想されます。これは、水野が感じている「何者かに操られている」という恐怖を具現化したものであり、同時に、すべての責任を転嫁するための都合の良い存在でもあります。

影男は、水野自身の罪悪感や恐怖が生み出した幻影なのです。自分のフィクションが解き放ってしまった災厄の責任を、自分ではない誰か、つまり「影男」になすりつけることで、彼はかろうじて精神の平衡を保とうとします。しかし、この創作行為は、彼のパラノイアを癒すどころか、フィクションと現実の境界をさらに曖昧にし、彼をより深い混乱へと突き落としていきます。

そして、物語は戦慄すべき転換点を迎えます。水野の最悪の恐怖が、現実のものとなるのです。モデルであった小島が、実際に殺害されてしまいます。しかもその状況は、水野の小説「殺しの手際」の内容を不気味なほどに模倣しているかのようでした。

この瞬間、水野(そして私たち読者)にとっての恐怖は、もはや内面的な妄想ではなく、否定しようのない現実となります。彼のアートが、本当に人間を殺してしまったのかもしれない。あるいは、彼の狂気を弄ぶかのような、あまりにも悪質な偶然の一致なのか。この答えの出ない問いが、物語全体を不気味な霧で覆い尽くします。

小島の死によって、水野の脆い自己防衛は完全に崩れ去ります。彼はもはや、自分が第一容疑者であると確信するしかありませんでした。かつて懸命に行ったアリバイ工作も、今となってはかえって自分の罪を重くする証拠にしか思えない。彼の内なる悪夢が、ついに現実の事件として彼の前に立ちはだかったのです。

追い詰められた水野が最後の望みを託すのは、あのアリバイの証人であるはずのフロイラインです。しかし、彼は彼女の素性も連絡先も知りません。彼が唯一の救いの光だと信じていた存在は、最も必要とされるときに、まるで幻のように掴むことができないのです。これは、彼がいかに浅はかで、砂上の楼閣のような人間関係しか築いてこなかったかという事実を、無慈悲に突きつけます。

警察の捜査の輪は、刻一刻と狭まってきます。出版社も、友人たちも、次第に彼から距離を置いていく。社会から完全に孤立し、内なる恐怖と外からの圧力によって、水野という人間は精神的にも社会的にも、まさに内破していくのです。その様は、まさに悪夢そのものとしか言いようがありません。

そして、この物語は、驚くべきことに明確な結末を提示しないまま、ぷっつりと幕を閉じます。水野が逮捕されたのか、狂ってしまったのか、それとも逃げ延びたのか。すべては読者の想像に委ねられます。この「断ち切られた」結末こそ、谷崎潤一郎の最も恐ろしい仕掛けだったのかもしれません。

ミステリーとしての解決を放棄することで、谷崎は、この物語の真のテーマが事件の真相ではなく、水野の逃れられない心理地獄そのものであることを、私たちに強く印象付けます。解決されない物語は、読者の心の中に永遠に残り続け、水野の狂気は、私たちの中で生き続けることになるのです。虚構と現実、正気と狂気の間の答えの出ない問いを、これほど鮮やかに突きつけた作品は稀有だと思います。

まとめ

谷崎潤一郎の『黒白』は、一人の作家が自らの創作物の深淵に飲み込まれていく様を、息詰まるような心理描写で描ききった傑作です。物語は、主人公・水野の犯した些細なミスから始まり、彼の心に宿った妄想が、やがて現実を歪めていく恐怖の連鎖を生み出します。

芸術のためなら他者を平気で踏み台にする作家のエゴが、いかに自分自身を破滅に導くか。そして、一度混じり合ってしまった虚構と現実は、いかに人間を狂わせるか。本作は、そうした創作活動に潜む根源的な恐ろしさを、私たち読者の目の前に突きつけます。

物語に明確な結末が用意されていないことも、この作品の大きな特徴です。解決されない謎は、読後も私たちの心に重くのしかかり、主人公・水野の見た悪夢を追体験させる力を持っています。これは単なる物語ではなく、読者の心に深く爪痕を残す文学的な体験と言えるでしょう。

もしあなたが、人間の心の奥底を覗き込むような、深遠で少し不気味な物語を求めているのなら、この『黒白』は必読の一冊です。きっと、忘れられない読書体験があなたを待っているはずです。