小説『複雑な彼』のあらすじをネタバレ込みでご紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

三島由紀夫が1966年に発表した長編小説『複雑な彼』は、国際線スチュワードの宮城譲二と、彼に惹かれるお嬢様・森田冴子の恋愛模様を描いた作品です。一見すると爽やかなロマンス小説のようですが、その根底には三島由紀夫ならではの深遠なテーマが潜んでいます。主人公・譲二の謎に満ちた過去と、彼を取り巻く女性たちの心情が繊細に描かれ、読者は彼の「複雑さ」の真相に引き込まれていくことでしょう。

本作は、雑誌『女性セブン』に連載されたこともあり、当時の大衆にも広く受け入れられました。そのエンターテイメント性の高さから、純文学作品とは異なるジャンルとして位置づけられることもありますが、三島由紀夫の卓越した筆致は本作でも遺憾なく発揮されています。読む者の心をつかんで離さない巧みなストーリー展開と、登場人物たちの心理描写は、まさに「名手」の技と言えるでしょう。

特に、主人公・宮城譲二の多面的な魅力は、読者に強い印象を与えます。洗練されたスチュワードでありながら、その裏には社会の表と裏を渡り歩いてきた数々の遍歴が隠されており、そのギャップが彼の「複雑さ」をより一層際立たせています。そして、彼を愛する冴子の純粋さと、その愛ゆえに葛藤する姿もまた、本作の大きな見どころです。

この物語は、単なる恋愛の成就に留まらず、人間が抱える「複雑さ」とは何か、そして愛と、それ以上の「大義」や「使命」との間で揺れ動く人間の選択を深く問いかけています。三島由紀夫の思想が色濃く反映された本作は、読み終えた後も長く心に残る一作となることでしょう。

小説『複雑な彼』のあらすじ

物語は、上流階級の令嬢である森田冴子が、父の仕事に同行しアメリカへ向かうNAL機内で、一人の魅力的な国際線スチュワードに出会うところから始まります。彼の名は宮城譲二。精悍な背中と洗練された物腰に、冴子は瞬く間に心を奪われます。譲二は英国流の英語とフランス語を流暢に話し、その気持のいい笑顔は冴子を魅了しますが、浅黒い童顔で鼻が少し曲がっている点が彼女には少し惜しく映るのでした。ホノルルで譲二が飛行機を降りたことで、二人の短い出会いは一旦終わります。

サンフランシスコに到着した冴子は、元スチュワーデスの友人ルリ子に譲二のことを尋ねます。そこでルリ子から、譲二が昔「井戸掘り」の仕事をしていたことから「井戸堀君」と呼ばれていたこと、そして「いい加減な男よ」という評判を聞かされます。さらにニューヨークでは、冴子の護衛に付いたハワイ出身の社員からも、譲二がロンドンでバーテン修業をしていたという噂耳にするのでした。

日本に帰国した冴子は、譲二が銀行員の息子で横浜生まれであること、19歳の頃に名古屋で「沖仲仕の小頭」をしていたこと、そして少年の頃に冴子の伯父である須賀に世話になったことがあると知ります。須賀の証言により、譲二が16歳でロンドンの学校を追い出され、新聞社のカメラマン助手として須賀に雇われた過去が明らかになります。彼はイギリス王室の戴冠式で訪英した皇太子明仁親王の写真を巧みに撮影し重宝されましたが、産業スパイの仕事をさせられ、公になった際に全ての罪をなすりつけられ、裏切られてイギリスから失踪したという衝撃的な過去が判明するのでした。

須賀の計らいで宮城譲二と連絡が取れ、冴子も同伴して食事をする機会が設けられます。譲二は機内の冴子のことを覚えており、冴子はいじわるな質問を投げかけます。ナイトクラブで、譲二は冴子に、自分が「保釈中の身」であることを打ち明けて彼女を驚かせます。二人が踊っていると、突然アンという女が冴子に嫉妬して平手打ちをします。アンは譲二が15歳でロンドンに来た時の身元引受人・ホーダア女史の娘で、16歳の譲二と18歳のアンはかつて結ばれていた過去があったのです。さらに、譲二は冴子に惚れていることに気づき、昔の恋人ルリ子にも打ち明けるのですが、ルリ子はまだ譲二に未練があり、「秘密をバラされたくなかったら」と脅して譲二を抱きます。ある日、冴子はエジプト大使館のパーティーで知り合ったマダム・ザルザールを自宅に招きます。マダム・ザルザールの17歳の時の恋の思い出話に、結婚寸前までいって別れた同い年の日本人・ミヤギ・ジョージが出てくるのでした。

譲二のアパートには時折、「ふしぎな男」がやって来ていました。彼は戦争中に満州で実力者だった人物の腹心らしく、譲二を見込んで秘密の仕事の勧誘に来ていたのです。そんな中、冴子と譲二は初デートでキスをし、たちまち恋仲となります。しかし、冴子は父の仕事に同行してリオ・デ・ジャネイロに1か月滞在することになります。出発の日、譲二は乗務予定を代わってもらってまで冴子の乗る飛行機に乗り込み、機上での短い逢瀬を惜しみます。リオ・デ・ジャネイロのホテルに冴子が一人でいると、譲二が強引に休暇を取ってリオまでやって来ます。二人はリオでの秘密のデートを楽しみます。譲二は冴子の体を求めますが、冴子は結婚するまで貞操を守りたいと、翌日父に正式にプロポーズしてほしいと頼みます。しかし、翌日譲二は現れず、その日のうちにリオを発っていたのでした。

日本に帰った譲二のアパートに、再び「ふしぎな男」が現れます。男は「あの方」が譲二に惚れ込んでいると言い、近ごろの東南アジアの情勢を憂い、「今、一人の日本人が身を挺してこれを救わなければ、アジアは永久に救われない」と考えていると伝え、譲二を説得します。この男は、譲二がNALに就職できたのも「あの方」の裏の力であったことを示唆し、譲二の人生を陰で操る存在であることが明らかになります。冴子と別れ、もう命など惜しくないと感じる譲二は、この勧誘に承諾します。

そこへ、やつれた冴子が「とうとう『あなたのお部屋』へ来たわ」と譲二に決心を見せます。すると「ふしぎな男」が譲二に秘密を見せるよう促し、譲二はワイシャツを脱ぎ捨てます。冴子が惹かれた広い背中には、見事な刺青があったのです。男が譲二の刺青を示して、それでもついて行く気があるか問うと、冴子は「行きます」ときっぱり答えます。しかし、「ふしぎな男」は次々と後悔する理由を並べ立て、「明日までよく考えなさい、譲二はずっといますから」と冴子を優しく追い返すのでした。男は、うなだれている譲二に、荷物をまとめて早く「あの方」のところへ行くように促し、譲二も頷きます。男は譲二の肩を叩き、「よし、これで君は、女たちの世界を卒業した。今日から君の前には、冒険と戦いの日々がはじまるんだ」と言い放ちます。物語は、必ずしもハッピーエンドとは言えない、憂いを残す結末を迎えるのでした。

小説『複雑な彼』の長文感想(ネタバレあり)

三島由紀夫の『複雑な彼』を読み終え、まず心に残るのは、そのタイトルが示す通りの「複雑さ」です。主人公宮城譲二の人生が、幾重にも絡み合った糸のように読者の前に提示され、その魅力と危険性が同時に描かれていることに、終始引き込まれました。この作品は、単なる恋愛小説という枠に収まらない、三島由紀夫の深い人間洞察と、彼自身の思想が色濃く反映された多層的な物語だと感じました。

物語の冒頭で描かれる、冴子と譲二の出会いは、まさに絵に描いたようなロマンスの始まりです。洗練された国際線スチュワードという譲二の肩書き、そして彼から放たれるカリスマ性は、読者の心を掴むのに十分なものです。冴子が譲二の「精悍な背中」に惹かれる描写は、視覚的にも鮮やかで、彼の魅力が外見だけでなく、その存在そのものから放たれていることを示唆しています。しかし、冴子が彼の過去を探るにつれて、譲二の「複雑さ」が徐々に明らかになっていく展開は、まさにミステリーを読むような感覚でした。井戸掘り、沖仲仕、バーテン、カメラマン助手、そして産業スパイ疑惑――これほど多様な遍歴を持つ人間が、なぜ今、スチュワードという表向きの職に就いているのか。その謎が、読者の興味を掻き立て続けます。

特に印象的だったのは、譲二の過去に関わる女性たちが次々と登場する場面です。ルリ子の未練、アンの嫉妬、そしてマダム・ザルザールとの過去の恋。これらのエピソードは、譲二が単なる一人の男ではなく、多くの女性の人生に影響を与え、その心に深い爪痕を残してきた存在であることを示しています。彼の魅力が、ただ単に外見的なものだけでなく、その危険で予測不能な生き方から来るものであることが、これらの描写によってより明確に伝わってきます。冴子が、そんな譲二の「汚点」とも言える過去を知ってもなお、彼に惹かれ続ける姿は、彼女の純粋さと、彼の持つ抗いがたい魅力の強さを物語っていると感じました。

物語の転換点となるのは、リオ・デ・ジャネイロでの出来事です。冴子の「結婚するまで貞操を守りたい」という願いと、譲二の「体を求める」行動、そしてその後の突然の失踪。ここは、二人の価値観の相違と、譲二の中に愛よりも優先される別の「使命」が存在することを示唆する決定的な場面でした。ここから物語は、甘いロマンスの様相から、よりシリアスな方向へと舵を切っていきます。譲二の背後に常にちらつく「ふしぎな男」の存在は、彼の人生が単なる個人の選択によってのみ成り立っているのではないことを示唆しており、物語に得体の知れない緊張感を与えていました。

そして、クライマックスで明らかになる譲二の背中の刺青は、まさに圧巻でした。これまでの譲二の「複雑さ」の全てが、この刺青によって集約され、その意味が明らかになる瞬間に、私は鳥肌が立ちました。小坂部元秀が評するように、「すばらしく魅力的な制服の下の卑俗な刺青という手品の種の、最終場面における種明かし」は、まさに三島的な機知に富んだ演出です。この刺青は、譲二の洗練された外見と、彼の内奥に潜む「野生」や「非日常性」との繋がりを決定的に示すものであり、彼が社会の表層的な規範や期待(冴子との結婚)には収まらない存在であることを明確に示しています。冴子が刺青を見てもなお「行きます」と答える純粋さは、彼女の譲二への深い愛と献身の表れであり、その健気さに胸を打たれました。

しかし、「ふしぎな男」の存在は、物語にさらに深い影を落とします。彼が語る「アジアを救う」という大義は、譲二を個人的な恋愛から引き離し、より大きな、思想的・国家的な使命へと導く存在です。この男の介入によって、物語は単なるロマンスから、三島由紀夫自身の思想的探求へと深みを増し、個人の恋愛感情や幸福よりも、国家や大義といった集団的・思想的な価値を優先させる三島的世界観の具現化となっていると感じました。譲二が「女たちの世界を卒業」し、「冒険と戦いの日々」へと向かう結末は、まさしく三島の行動(三島事件)を予見させるかのようです。

譲二という人物は、単なるイケメンキャラクターとして描かれているわけではありません。彼の「複雑さ」は、社会の表と裏、秩序と混沌、理性と本能といった対立する要素を内包しており、三島が自身の作品で繰り返し描いた「行動する人間」「美と死の融合」「伝統的な日本精神」といったテーマを、娯楽小説という形式の中で表現するための器として機能していると感じます。彼は、個人的な幸福や安定を犠牲にしてでも、より根源的な「男らしさ」や「義侠心」を追求する三島的な理想の具現化と言えるでしょう。

冴子の存在もまた、譲二の「複雑さ」を際立たせる対照的な要素として機能しています。彼女の純粋さと、危険に惹かれる強い意志は、譲二の多面的な過去を解き明かす物語の推進力となります。三島由紀夫の得意とする女性の心理描写が存分に発揮されており、冴子が譲二の「汚点」(刺青)を知ってもなお彼を受け入れようとする姿勢は、表面的な魅力だけでなく、譲二の内奥にある「男気」や「本質」を愛した結果と解釈できます。しかし、最終的に彼女が譲二の道に同行できないことは、譲二の選択が個人的な愛を超えた領域にあることを示し、冴子の愛の限界、あるいは譲二の選択の絶対性を際立たせています。

この作品は、文学的な論究は少ないとされているようですが、それは単に「娯楽小説」というジャンルに分類されるためではないかと感じます。しかし、その「巧みなストーリー展開」や「女性の心理描写」は、三島が「通俗小説」というジャンルにおいても、その卓越した筆力を遺憾なく発揮していたことを示しています。私は、この作品が持つ多層的な魅力は、純文学作品に匹敵するほどの深みを持っていると確信しています。

映画化された背景を知ると、この作品が大衆文化の中でいかに受容されたかが見えてきます。海外ロケを敢行したという規模の大きさは、当時の映画界が本作の持つ商業的潜在力を高く評価していたことを示唆しています。しかし、映画版で指摘される「刺青のショボさ」という評価は、小説が持つ象徴的な描写が、視覚的な表現において常に完全に再現されるわけではないという、メディア間の表現の差異を教えてくれます。小説の刺青は、読者の想像力を掻き立て、譲二の「複雑さ」を象徴する強力なメタファーとして機能していますが、映像化されることで、その神秘性が失われてしまう可能性もあるのでしょう。

全体として、『複雑な彼』は、単なる恋愛小説という枠を超え、三島由紀夫の多面的な才能と深い思想が交錯する特異な作品であると強く感じました。譲二の「複雑さ」は、彼の個人的な遍歴に留まらず、社会の表と裏、個人の欲望と集団的使命の間の葛藤、そして三島が理想とした「行動する男性像」のメタファーとして機能しています。憂いを残す結末は、三島自身の人生観や行動原理と深く結びついており、読み終えた後もその余韻が長く心に残ります。この作品は、三島由紀夫の文学的キャリアにおいて、娯楽と芸術、個人の感情と国家の思想が交錯する、極めて「複雑な」位置を占める作品であると言えるでしょう。

まとめ

三島由紀夫の長編小説『複雑な彼』は、国際線スチュワード宮城譲二と、彼に恋するお嬢様森田冴子の恋愛を軸に、譲二の謎多き過去と、彼が最終的に選択する道を描いた、読み応えのある作品です。譲二の多岐にわたる遍歴、彼を取り巻く過去の恋人たちとの関係、そして物語の核心となる彼の背中の刺青が、作品に深みと「複雑さ」を与えています。

冴子が譲二の過去を探ることで、読者は彼の多面的な魅力を知るとともに、その危険な側面にも触れることになります。リオでの試練や「ふしぎな男」の登場は、二人の恋愛が単なる個人的な感情の領域を超え、より大きな「使命」や「大義」へと引き込まれていく転換点となります。特に、譲二の刺青が明らかになるクライマックスは、彼の「複雑さ」の集大成であり、三島由紀夫ならではの巧みな演出が光る場面です。

本作の結末は、必ずしも甘いハッピーエンドとは言えません。譲二が個人的な愛よりも「アジアを救う」という「冒険と戦いの日々」を選ぶ姿は、三島由紀夫自身の思想、特に「行動」や「日本人の誇り」といったテーマが色濃く投影されたものと解釈できます。この作品は、三島が娯楽小説という形式を通じて、自身の根源的な思想を大衆に提示しようとした試みとしても読み解くことができるでしょう。

『複雑な彼』は、通俗小説としての読みやすさがありながらも、その中に三島由紀夫の深い人間洞察と哲学が込められています。読者は、譲二の「複雑さ」を通して、愛と、それ以上の「使命」との間で揺れ動く人間の普遍的な葛藤を深く感じ取ることができるでしょう。三島由紀夫の作品世界を多角的に味わいたい方には、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。