小説「蟲」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。江戸川乱歩の作品の中でも、特に異様な雰囲気を放つこの短編は、一度読んだら忘れられない強烈な印象を残します。名探偵も世紀の怪盗も登場しない、ただひたすらに人間の心の闇、歪んだ愛情が描かれる物語です。

この物語の主人公、柾木愛造(まさきあいぞう)は、極度の人嫌い。彼の特異な性質は、幼少期からの経験に根差しています。人と関わることを避け、蔵の中に引きこもって暮らす彼の日常は、ある再会によって大きく揺らぎ始めます。それは、彼が幼い頃に密かに想いを寄せていた女性、木下芙蓉(きのしたふよう)との再会でした。

本作は、美しいものへの憧れが、いかに醜悪な執着へと変貌しうるかを描き出しています。読み進めるうちに、柾木の狂気に満ちた行動と心理描写に、読者は言いようのない不安と嫌悪感を覚えるかもしれません。しかし、その語りの巧みさゆえに、目を逸らすことができなくなるのです。

この記事では、物語の結末まで触れながら、その詳細な流れと、私が感じたことを率直に綴っていきます。グロテスクな描写も含まれますので、そういった表現が苦手な方はご注意ください。乱歩が描き出す、人間の心の深淵を覗く覚悟はよろしいでしょうか。

小説「蟲」のあらすじ

物語は、主人公である柾木愛造の異様な性格描写から始まります。彼は「世にたぐいあらぬ厭人病者」であり、幼い頃から極端に内気で、他者との関わりを避けて生きてきました。彼はまた、特定の対象に異常な執着を見せるフェティシストでもありました。初恋の少女の鉛筆を盗み、それを崇拝するなど、その傾向は早くから現れていたのです。

両親の死後、わずかな遺産を手にした柾木は、荒れた屋敷を購入し、身寄りのない老婆を雇い入れ、屋敷の土蔵で世間から隔絶された生活を送ります。そんな彼にも、唯一、小学校時代の同級生である池内光太郎という友人がいました。社交的で活発な池内は、柾木とは正反対の性格です。

ある日、池内は柾木を、同じく小学校の同級生で、現在は人気舞台女優となっている木下芙蓉に引き合わせます。芙蓉こそ、柾木がかつて鉛筆を盗んだ初恋の相手でした。この再会が、柾木の内に秘められた歪んだ情念を呼び覚ますことになります。彼は芙蓉への想いを募らせますが、正常なコミュニケーションが取れないため、その想いは一方的で危険なものへと変わっていきます。

柾木は芙蓉をストーキングするようになります。彼女の芝居を密かに観に行き、楽屋口で待ち伏せ、友人の池内と芙蓉が密会する様子を覗き見するのです。その行為は彼の歪んだ欲望をさらに刺激し、憎しみと独占欲を増幅させます。彼はついに、芙蓉を殺害して完全に自分のものにしようと決意します。自家用車をタクシーに見せかけ、芝居帰りの芙蓉を乗せることに成功した柾木は、騒々しい場所で車を止め、彼女を絞殺します。「許してください。僕はあなたが可愛いのだ。生かしておけないほど可愛いのだ」という異様な言葉を呟きながら。

殺害後、柾木は芙蓉の遺体を自宅の土蔵に運び込みます。当初はすぐに庭の古井戸に隠すつもりでしたが、彼は死体となった芙蓉に、生前以上の強い魅力を感じてしまいます。魂のない肉体にこそ、彼を惹きつける倒錯的な美しさがあったのです。彼は遺体を手放せなくなり、二人きりの異常な生活を始めます。

しかし、遺体は時間とともに変化していきます。腐敗が始まり、死斑が現れ、硬直が解けていく。柾木は、愛する対象が朽ちていく現実に直面し、恐怖と焦燥に駆られます。彼は遺体の保存方法を模索し、防腐処置を試みますが失敗。次に、腐敗を隠すために遺体に化粧を施し始めますが、それも一時しのぎに過ぎません。遺体はさらに膨張し、見るも無残な姿へと変わっていきます。精神的に追い詰められた柾木は、ついに完全に狂気に陥り、街を徘徊します。最終的に、彼の異常な行動を心配した老婆からの通報で警察が土蔵に踏み込み、腐乱した芙蓉の遺体と、その傍らで息絶えている柾木を発見するのでした。

小説「蟲」の長文感想(ネタバレあり)

さて、ここからは小説「蟲」を読んだ私の、かなり個人的で長々とした感想になります。物語の結末に深く触れていますので、まだ知りたくない方はご注意ください。読み終えた後に残る、あの何とも言えない重苦しさ、そして乱歩の筆の力について語っていきたいと思います。

まず、主人公の柾木愛造という人物造形が、実に巧みであり、そして恐ろしいですね。極度の人嫌い、内気、複雑な感受性、そしてフェティシズム。これらの要素が、彼を社会から孤立させ、異常な行動へと駆り立てる土壌となります。冒頭で彼の幼少期が語られますが、単なる「変わった子」では済まされない、深い闇を感じさせます。でも、どこかに「もしかしたら、自分の中にもこういう部分があるかもしれない」と思わせるような、人間の孤独や執着心の一端を垣間見るような気もして、それがまた不気味さを増幅させるのです。

芙蓉との再会は、彼の人生における破滅へのスイッチが入った瞬間でした。社交的で華やかな芙蓉と、陰鬱でコミュニケーション不全の柾木。その対比が鮮やかです。柾木が車中で芙蓉の手を握るシーンは、彼の歪んだ愛情表現の象徴でしょう。言葉で想いを伝えられない、あるいは伝えようとしない。ただ一方的に、自分の内なる激情だけをぶつけようとする。芙蓉がそれを笑い飛ばしたことで、彼のプライドは傷つき、愛情は憎しみへと転化していきますが、これもまた彼の自己中心的な解釈に過ぎません。女性の視点から見れば、これは恐怖以外の何物でもないでしょう。

そして始まるストーカー行為。これがまた、読んでいて背筋が寒くなるほど詳細に描かれています。尾行、盗み聞き、隙き見。現代社会でも大きな問題となっている行為ですが、乱歩はこの時代に、その心理と行動を実に生々しく描き出しています。「むず痒い羞恥、涙ぐましい憤怒、歯の根も合わぬ恐怖の感情は、不思議にも、同時に、一面においては、彼にとって、限りなき歓喜であり、たぐいもあらぬ陶酔であった」。この一文に、ストーカー心理の倒錯した快楽が見事に表現されていると感じました。覗き見によって得られる情報が、彼の妄想をさらに強化し、殺意へと繋がっていく過程は、説得力があり、だからこそ恐ろしいのです。

殺害に至る柾木の心理描写も特筆すべき点です。「陰惨な人殺しに行くのではなく、いま彼は、十幾年も待ち焦がれた、あこがれの花嫁御寮を、お迎いに出かけるのだった」。この狂気的な高揚感。自分の行為を完全に正当化し、歪んだ愛の成就だと信じ込んでいる。そして、絞殺する際の「許してください。僕はあなたが可愛いのだ。生かしておけないほど可愛いのだ」というセリフ。自己陶酔と支配欲が凝縮された、本作屈指の気持ちの悪いセリフだと思います。被害者である芙蓉にとっては、あまりにも理不尽で、救いのない最期です。

しかし、この物語の本当の恐ろしさは、殺害そのものではなく、その後にあります。柾木が芙蓉の遺体に、生きていた時以上の魅力を感じてしまう場面。これは、彼のフェティシズムが究極の形で発露した瞬間と言えるでしょう。「死骸であるがゆえに、かえって、生前の彼女にはなかったところの、一種異様の、人外境の魅力があった」。多くの読者はここで完全に感情移入の糸を断ち切られ、ただただ彼の狂気を呆然と見つめることになるのではないでしょうか。ここから物語は、常軌を逸した死体愛の領域へと突入していきます。

柾木の根底にあるフェティシズムが、芙蓉の「死体」という、完全に彼の支配下に置かれ、変化しない(と最初は思った)「モノ」への執着として現れます。生きている人間は、彼の思い通りにはならない。しかし、死体は彼の意のままになる、究極の所有物なのです。この倒錯した論理が、彼をさらに深い闇へと引きずり込んでいきます。読んでいるこちらも、不快感を通り越して、ある種の眩暈すら覚えるような感覚に襲われます。

ところが、死体は「変化しないモノ」ではありませんでした。時間と共に、腐敗という避けられない物理的変化が訪れます。この「変化」に対する柾木の恐怖と焦燥感、そしてそれに抗おうとする必死の、しかし全く見当違いな努力が、後半の読みどころとなります。防腐剤を求め、医学知識もないまま注射を試みる滑稽さと悲壮感。このあたり、彼の計画性のなさと、衝動的な行動原理がよく表れています。

そして「蟲」というタイトル。これは直接的には、遺体を蝕む無数の目に見えない微生物、腐敗菌を指しているのでしょう。「幾億とも知れぬ極微なる虫どもは、いつ増えるともなく、いつ動くともなく、まるで時計の針のように正確に、着々と彼らの領土を侵食して行った」。この冷徹な描写は、人間の力が及ばない自然の摂理、死の現実を突きつけます。しかし同時に、柾木の心の中に巣食う、執着や狂気といった「心の蟲」をも暗示しているように思えてなりません。

腐敗を隠すために、遺体に胡粉(ごふん)で化粧を施す場面は、狂気の極みです。「死体というキャンバスに向かって、妖艶なる裸像をえがく、不思議な画家となり」。グロテスクな状況でありながら、どこか倒錯した美意識すら感じさせるこの描写は、乱歩ならではと言えるかもしれません。しかし、それも長くは続かず、遺体はガスで膨張し、「女角力のような白い巨人」へと変貌します。この視覚的なインパクトも強烈です。

美しかったはずの愛の対象が、見るも無残な腐乱死体へと変わっていく。その過程を克明に描き出すことで、乱歩は読者に生理的な嫌悪感を喚起させます。柾木は、愛する対象が目の前で朽ち果てていくという、地獄のような状況に耐えられなくなります。ミイラ作りの方法を調べようとしますが、彼の精神はすでに限界を超えていました。

街中で奇行に走り、「なんだっけなあ」と呟きながら徘徊する柾木の姿は、哀れでありながらも、やはり不気味です。彼が警察官に自白しても信じてもらえない場面は、彼の狂気がすでに社会から完全に乖離してしまったことを示しています。そして、土蔵で発見される最後の情景。腐乱した芙蓉の遺体に顔をうずめ、そのはらわたに指を食い込ませて死んでいる柾木。この凄惨な結末は、彼の歪んだ愛と執着が行き着いた、必然的な終着点なのでしょう。

読み終えた後には、ずっしりとした重苦しさと、強烈な不快感が残ります。爽快感など皆無。しかし、それでもなお、この作品には奇妙な魅力があると感じてしまうのはなぜでしょうか。それはやはり、江戸川乱歩の圧倒的な筆力、人間の心理の暗部をえぐり出す描写の巧みさにあるのだと思います。

本作は、乱歩の他の多くの作品のように、名探偵が謎を解き明かしたり、怪盗が華麗に暗躍したりするエンターテイメント性はありません。むしろ、純粋な異常心理劇、あるいは病的な愛の物語と呼ぶべきかもしれません。だからこそ、乱歩文学の持つ、もう一つの側面――人間の心の闇、グロテスクさ、倒錯した美意識――を、最も純粋な形で味わうことができる作品の一つと言えるのではないでしょうか。

決して万人におすすめできる作品ではありません。むしろ、読後感が悪くなることを覚悟で読むべき作品です。しかし、江戸川乱歩という作家の持つ底知れない深淵、その一端に触れたいと願うならば、この「蟲」という短編は避けて通れない一作だと、私は思います。読む者の心にも、何か「蟲」のようなものを残していく、そんな力を持った物語です。

まとめ

江戸川乱歩の「蟲」は、一度読んだら忘れられない、強烈な印象を刻みつける作品です。名探偵も怪人も登場せず、ひたすらに描かれるのは、柾木愛造という男の、常軌を逸した執着と狂気の世界でした。初恋の相手への歪んだ愛情は、ストーカー行為を経て殺人へと至り、さらに死体への倒錯的な愛へと変貌していきます。

物語の後半、愛する対象であるはずの遺体が腐敗していく様と、それに抗おうとする柾木の絶望的な行動は、読む者に生理的な嫌悪感と恐怖を与えずにはおきません。美しかったものが醜く朽ちていく過程を、乱歩は容赦なく、しかし巧みな筆致で描き出します。それは、人間の心の闇や、死という逃れられない現実を突きつけるかのようです。

「蟲」というタイトルが示すように、目に見えない微生物が遺体を蝕む様は、同時に柾木の心を蝕む狂気をも象徴しているように感じられます。最終的に彼が迎える凄惨な結末は、その歪んだ愛の必然的な帰結と言えるでしょう。読後感は決して良いものではありませんが、人間の心理の深淵を覗き見るような、稀有な読書体験を与えてくれます。

この物語は、江戸川乱歩の持つ、エンターテイメント性とは異なる、もう一つの文学的な側面――人間の暗部への深い洞察力と、それを描き切る筆の力を如実に示しています。読む人を選ぶ作品であることは間違いありませんが、乱歩文学の奥深さに触れたい方にとっては、読む価値のある一編だと感じています。