小説「翔ぶが如く」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
司馬遼太郎さんが描く、明治維新という巨大な変革期を生きた二人の薩摩藩士、西郷隆盛と大久保利通。彼らの友情と、やがて避けられぬ運命によって引き裂かれていく様を描いた壮大な物語が、この「翔ぶが如く」であります。文庫版で全10巻というボリュームは、読む前から圧倒されるかもしれませんが、一度ページをめくり始めれば、その緻密な歴史描写と、登場人物たちの激しい生き様に引き込まれてしまうことでしょう。
明治という新しい時代を築き上げた英雄たちが、なぜ袂を分かち、西南戦争という悲劇へと突き進んでしまったのか。特に、維新の最大の功労者である西郷隆盛が、なぜ新政府に反旗を翻すに至ったのか。その背景には、理想と現実の狭間で揺れ動く人々の葛藤、そして「薩摩」という土地が持つ独特の気風がありました。
この記事では、「翔ぶが如く」の物語の核心部分、つまり征韓論から西南戦争の終結、そしてその後の出来事までを、結末に触れながら詳しくご紹介します。さらに、物語を読み終えた私の心に深く刻まれた、登場人物たちの魅力や、歴史の大きな流れについて、たっぷりと語らせていただきたいと思います。これから読もうと考えている方、あるいは既に読了された方も、一緒に「翔ぶが如く」の世界を追体験してみませんか。
小説「翔ぶが如く」のあらすじ
物語は、明治維新後の日本から始まります。欧米視察から帰国した大久保利通らに対し、国内に残っていた西郷隆盛らは、朝鮮への使節派遣を巡る「征韓論」で激しく対立します。西郷は、武士階級の精神を保ち、国内の不満を外に向ける意図もあって、自身が大使として朝鮮へ赴くことを主張しますが、内政の安定を優先する大久保や岩倉具視らの反対に遭い、計画は頓挫します。
これに失望した西郷は、参議をはじめとする一切の官職を辞し、故郷・鹿児島へと下野します。彼を慕う桐野利秋(中村半次郎)や篠原国幹といった多くの薩摩出身の軍人・官僚たちも、後を追うように次々と辞職し、鹿児島へ帰郷。彼らは「私学校」を設立し、薩摩士族の若者たちに軍事教練や精神教育を施します。これにより、鹿児島は中央政府から半ば独立したような状態となり、全国の不平士族たちの期待を集める、いわば「最大野党」のような存在になっていきます。
一方、東京では大久保利通が内務省を設立し、初代内務卿として強力な中央集権国家の建設を推し進めます。彼の右腕となったのが、同じ薩摩出身で初代大警視(現在の警視総監)の川路利良でした。川路はフランスで学んだ警察制度を導入し、国内の治安維持と近代化に邁進します。しかし、そのやり方は旧来の士族たちの反感を買い、特に西郷を信奉する私学校党からは強い憎しみを受けることになります。
明治10年、事態は急変します。川路が鹿児島に密偵を送り込んだことが発覚。「西郷暗殺の刺客が送り込まれた」と解釈した私学校の過激派たちは激昂し、暴発します。もはや西郷でさえ、この流れを止めることはできませんでした。「おい(私)の身体をみんなに預ける」と、半ば運命に身を任せるように、西郷は担がれる形で挙兵を決意。「政府に問罪する」という名目で、薩摩軍は熊本鎮台を目指して進撃を開始します。これが西南戦争の始まりでした。
しかし、西郷自身は戦争の指揮にほとんど関与せず、戦略なき薩摩軍は各地で政府軍の近代的な装備と物量の前に苦戦を強いられます。熊本城攻略に失敗し、最大の激戦地となった田原坂でも敗退。九州各地を転戦した後、薩摩軍は故郷・鹿児島へと追い詰められます。そして明治10年9月24日、城山での最後の抵抗もむなしく、西郷隆盛は自刃。桐野利秋ら主だった幹部も次々と斃れ、薩摩軍は壊滅します。
西南戦争の終結からわずか8か月後の明治11年5月14日、日本の近代化を牽引してきた大久保利通もまた、東京の紀尾井坂で不平士族によって暗殺されます。維新を成し遂げた二人の巨星は、こうして相次いでこの世を去りました。物語は、西南戦争の翌年、大久保の後を追うように病死した川路利良の最期をもって、静かに幕を閉じます。鎌倉時代から続いた武士の時代が、完全に終わりを告げた瞬間でした。
小説「翔ぶが如く」の長文感想(ネタバレあり)
司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」を読み終えて、まず心に押し寄せてきたのは、何とも言えない重苦しさと、登場人物たちの生き様に対する深い感慨でした。文庫にして10巻、描かれるのは明治初期のわずか数年間ですが、そこには日本の歴史が大きく転換する瞬間の、凄まじい熱量と悲劇が凝縮されています。
特に印象に残るのは、やはり西郷隆盛という人物の描き方です。幕末にはあれほど活気に満ち、維新回天の原動力となった人物が、明治に入るとどこか魂が抜けたように描かれています。参議という政府の最高幹部にありながら、新しい国家づくりへの情熱よりも、失われゆく武士(特に薩摩士族)の精神世界への郷愁が強く感じられます。まるで、時代に取り残されることを自ら望んでいるかのようです。
作中でも触れられていますが、西郷は征韓論を唱え、自ら朝鮮へ赴くことを望みます。その真意は「かの地で殺されたい」というものであったとされます。この「死に場所」を探しているかのような西郷の姿は、読んでいて非常に切なくなります。維新という大事業を成し遂げた後の虚無感なのか、それとも、変わりゆく時代についていけない自身の限界を感じていたのか。司馬さんも「小説をもってしても把えがたい」と書かれているように、西郷隆盛という人物の核心に迫るのは、本当に難しいことなのだと感じさせられました。
彼が下野し、鹿児島に帰ってからの日々は、まるで隠遁者のようです。山に入り、犬を連れて兎を狩る。政治の中心から遠く離れ、静かに過ごそうとしている。しかし、彼の人望がいかに絶大であったか。彼を慕う薩摩士族たちが次々と鹿児島へ集結し、私学校を中心に一大勢力を形成していきます。もはや西郷個人の意思とは関係なく、「西郷さん」は不平士族たちの巨大な期待を背負わされてしまうのです。
そして、西南戦争へ。驚くべきことに、西郷はこの戦争において、ほとんど具体的な指示を出していません。「おいの体を預ける」と言い、ただ神輿のように担がれていく。戦略もなければ、明確な政治目標もない。ただ、「政府に問罪する」という曖昧な名目だけで、1万を超える将兵が死地へと向かっていく。この戦争の虚しさと悲劇性は、指導者であるはずの西郷の、この「空虚さ」と深く結びついているように思えます。
対照的に描かれるのが、大久保利通です。かつては西郷と共に維新を成し遂げた盟友でありながら、征韓論を機に袂を分かちます。大久保は、極めて冷徹なリアリストとして描かれています。彼の目指すものは、強力な官僚機構による中央集権国家の建設であり、そのためには旧来の封建的な制度や、士族という特権階級を解体する必要がありました。彼の理想は、プロイセンのような富国強兵国家でした。
西郷が「情」の人であるならば、大久保は「理」の人と言えるでしょう。彼は私情を排し、国家の未来のため、時に非情とも思える決断を下します。西郷や、彼を慕う薩摩士族たちの心情を理解しつつも、国家建設のためには彼らを切り捨てざるを得ない。この大久保の苦悩もまた、深く胸に迫るものがあります。二人は互いのことを誰よりも理解し合っていたはずなのに、時代の大きな流れの中で、対立せざるを得なかった。まさに悲劇です。
そして、この二人の「私闘」とも言える対立の、ある意味で火付け役となったのが、大警視・川路利良です。彼もまた薩摩出身でありながら、郷土主義に与せず、フランスで学んだ警察制度を日本に根付かせようと情熱を燃やします。彼は、警察こそが文明化を推し進める力だと信じていました。西郷への恩義を感じつつも、それを超える理想のために、彼は非情な決断を下します。鹿児島への密偵派遣は、結果的に西南戦争の引き金となりました。川路の存在は、旧時代の「情」や「義」が、新しい時代の「法」や「制度」と衝突する様を象徴しているように感じられます。
西南戦争の描写は、凄惨の一言です。特に田原坂の戦いは、両軍合わせて数千人の死傷者を出す激戦となりました。しかし、そこには戦略的な意味合いは薄く、ただただ薩摩隼人の「進むを知って退くを知らず」という気質だけが、無益な消耗戦を繰り返させていきます。「翔ぶが如く」というタイトルは、この薩摩人の気質、古代の隼人のように勇猛果敢に戦う姿を指していると解説されていますが、その戦いぶりは、近代戦においてはあまりにも無謀で、悲壮感が漂います。個々の兵士は勇猛であっても、組織として近代的な戦略・兵站を持たない薩摩軍の敗北は、必然だったのかもしれません。
この物語は、単なる西郷と大久保の物語ではありません。「薩摩」という土地そのものを描いた作品でもあると感じます。明治になっても中央政府の統制が及びにくく、旧藩主の父・島津久光の影響力が残り、独自の気風を保ち続けた鹿児島。税金すらまともに納めなかったという描写には驚かされます。この特異な風土が、西郷隆盛という人物を生み、そして西南戦争という悲劇の舞台を用意したとも言えるでしょう。
司馬さんは、大久保利通の暗殺に触れて、日本の政治風土における「権力の集中」に対する警鐘を鳴らしています。権力が一人に集中し、反対勢力が封じ込められると、暗殺という形でその権力が停止させられる、という指摘は、現代においても考えさせられるものがあります。意見の多様性や、自由な言論がいかに大切か。歴史は繰り返す、という言葉の重みを感じずにはいられません。
物語の終盤、西南戦争に敗れ、城山で最期を迎える西郷隆盛。そして、その翌年に暗殺される大久保利通。さらに、大久保の後を追うように病死する川路利良。明治維新を駆け抜けた主要人物たちが、まるで嵐が過ぎ去るかのように、次々と舞台から姿を消していきます。それは、鎌倉時代から700年以上続いた「武士の時代」が、完全に終焉を迎えたことを象徴しているかのようです。読後には、大きな喪失感と共に、新しい時代が始まる予感のようなものが残ります。
司馬さんは、西郷隆盛の魅力について、作中で「会った者にしかわからない」と書いています。中津隊の増田宋太郎が「一日先生に接すれば一日の愛生ず。…今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と言って、西郷と共に死を選んだエピソードは、その不可解なまでの人間的魅力を間接的に伝えています。文章や記録だけでは捉えきれない、人間そのものが持つオーラのようなものがあったのでしょう。司馬さん自身が「小説をもってしても把えがたい」と白旗を上げるほど、西郷隆盛は謎に満ちた巨人だったのかもしれません。
「翔ぶが如く」は、歴史の知識を深めてくれるだけでなく、人間という存在の複雑さ、理想と現実の葛藤、時代の変化に翻弄される人々の生き様を深く考えさせてくれる作品です。10巻という長さを感じさせない筆力と、緻密な描写、そして登場人物たちの魅力。読み終えた今、しばらくはこの壮大な物語の余韻に浸ることになりそうです。
まとめ
司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」は、明治維新という激動の時代を生きた西郷隆盛と大久保利通という二人の英雄を中心に、西南戦争に至る日本の大きな転換点を描いた壮大な歴史小説です。文庫全10巻という長編ですが、その内容は非常に濃密で、読者をぐいぐいと引き込む力があります。
物語の核心は、維新の功労者である西郷がなぜ新政府に反旗を翻し、西南戦争という悲劇へと突き進んだのか、という点にあります。そこには、征韓論を巡る対立、失われゆく武士道への郷愁、そして大久保利通との友情と決別がありました。西郷の「空虚さ」や「死に場所探し」、大久保の冷徹なリアリズム、そして川路利良ら新しい時代の担い手たちの葛藤が、克明に描かれています。
この小説は、単なる歴史の叙述に留まらず、「薩摩」という土地の特異な気風や、権力の集中がもたらす危険性など、現代にも通じる普遍的なテーマを投げかけてきます。そして何より、西郷隆盛という人物の、記録だけでは捉えきれない人間的な魅力の謎に迫ろうとしています。司馬さん自身が「把えがたい」と認めるほど、西郷は複雑で巨大な存在でした。
「翔ぶが如く」を読むことで、私たちは日本の近代化の過程で何が失われ、何が生まれたのかを深く知ることができます。武士の時代の終焉という、大きな歴史のうねりを体感できるでしょう。重厚な読後感と共に、歴史と人間について深く考えさせられる、まさに不朽の名作と言えるのではないでしょうか。