小説「算盤が恋を語る話」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。江戸川乱歩といえば、奇怪な事件や名探偵・明智小五郎の活躍を描いた探偵小説で知られていますが、本作は少し趣が異なります。探偵も殺人事件も登場せず、ある内気な男の一方的な恋心が、思いもよらぬ形で描かれていきます。
舞台は大正時代のとある会社。主人公は、臆病で女性と話すのが苦手な会計係の男、Tです。彼は同僚の若い女性事務員、S子に密かな恋心を抱いています。しかし、真正面から想いを伝える勇気がないTは、ある奇妙な方法で彼女にアプローチしようと考えつきます。それが、算盤を使った暗号でした。
この物語の核となるのは、Tが算盤の珠を使って示す数字の羅列です。これは単なる計算結果ではなく、五十音を数字に割り振った社内独自の符丁を利用した、TからS子への秘めたるメッセージなのです。果たして、この算盤は恋を語ることができるのでしょうか? Tの計画は成功するのでしょうか?
この記事では、「算盤が恋を語る話」の物語の筋道を追いながら、その結末まで詳しく解説します。さらに、Tの行動や心理、そしてこの物語が持つ独特の味わいについて、深く掘り下げた読み応えのある考察もお届けします。乱歩の隠れた名作とも言われるこの短編の魅力を、存分に味わっていただければ幸いです。
小説「算盤が恋を語る話」のあらすじ
○○造船株式会社会計係のTは、三十歳近くになっても女性とまともに話した経験がない、内気な男です。彼は隣の席で助手を務める若い事務員のS子に、ひそかな恋心を抱いていました。しかし、臆病で自尊心の高いTは、もし告白して断られたら…と考えると、どうしても直接想いを伝えることができませんでした。
そこでTは、誰にも気づかれず、拒絶されても傷つかない方法として、算盤を使った暗号を思いつきます。彼の会社では、職工への賃金計算のために五十音を数字に割り振る符丁が存在しました。これを利用し、S子にだけわかるようにメッセージを送ろうと考えたのです。
ある朝、一番乗りで出社したTは、S子の机にある算盤を手に取り、「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭」と珠を置きました。これは、符丁で「いとしききみ(愛しき君)」を意味します。Tは算盤を目につきやすい場所に置き、S子が気づくかどうか、一日中気が気ではありませんでした。しかしS子は算盤を脇に寄せ、特に気にする様子もなく仕事をしていました。
Tは諦めず、毎日同じように「いとしききみ」のメッセージを算盤に置き続けました。数日後のある時、S子がいつもより長く算盤を見つめ、ハッとしたようにTの方を振り返りました。目が合うと、S子は顔を赤らめて俯いてしまいます。Tは、これで自分の想いが通じた、暗号が解読されたのだと確信しました。
手応えを感じたTは、次のステップへ進みます。今度は「六十二万五千五百八十一円七十一銭(ヒノヤマ)」と算盤に置きました。これは会社近くの遊園地がある小山の名前です。さらに確信を深めたTは、ある日、「二十四億六千三百二十一万六千四百九十二円五十二銭(ケフカヘリニ)」、つまり「今日帰りに(樋の山で)」というメッセージを残しました。
その日の退社時間、S子はいつも通り挨拶をして帰っていきました。Tは失望しかけますが、ふとS子の机を見ると、算盤が出しっぱなしになっています。そこに置かれていた数字は「八十三万二千二百七十一円三十三銭」。Tが符丁で解読すると、それは「ゆきます」という返事でした。Tは有頂天になり、樋の山へと急ぎました。しかし、夜になってもS子は現れません。Tは会社に戻り、S子の机にあった原価計算簿を見て愕然とします。「八十三万二千二百七十一円三十三銭」は、その日の計算の締高だったのです。S子は暗号を理解していたわけではなく、ただ計算途中の算盤を片付け忘れただけだったのでした。Tの恋は、算盤の上だけで空回りしていたのです。
小説「算盤が恋を語る話」の長文感想(ネタバレあり)
江戸川乱歩の「算盤が恋を語る話」を読み終えた時、心に残るのは探偵小説のようなスリルや謎解きの爽快感ではなく、人間の心の複雑さやコミュニケーションの難しさを突きつけられたような、ほろ苦い感覚でした。これは、乱歩作品の中でも異色の、しかし非常に味わい深い一編だと思います。
まず、主人公であるTの人物造形が実に巧みです。彼は臆病で、容姿に自信がなく、異性とのコミュニケーションが極端に苦手。現代で言えば「こじらせている」と評されるかもしれません。しかし、彼の内面には、人一倍強い自尊心も同居しています。このアンバランスさが、彼の行動原理を理解する上で非常に重要になります。
真正面からのアプローチを恐れるT。告白して拒絶されることの「気まずさはずかしさ」を何よりも恐れる彼の心性は、痛いほど伝わってきます。失敗を恐れるあまり、確実性の低い、そしてある意味では卑怯とも言える方法を選んでしまう。彼の弱さが、この物語の悲劇性を際立たせています。
そして、Tの「思い込みの激しさ」も見逃せません。S子が算盤を長く見つめたこと、目が合った時に赤面したこと。これらは客観的に見れば、Tの想いが通じた証拠とは到底言えません。しかし、恋に焦がれるTは、これらの些細な出来事を自分に都合の良いように解釈し、「彼女が何もかも悟ったに相違ない」と確信してしまうのです。この主観と客観のズレが、物語を悲劇的な結末へと導いていきます。
次に、物語の核となる「算盤暗号」について。これは非常に独創的なアイデアであり、乱歩らしい小道具の活かし方だと感じます。計算機が普及していない時代、事務仕事に算盤は不可欠な道具でした。その日常的な道具に、秘めた恋心を託すという発想はユニークです。数字の羅列が、実は熱烈な愛の言葉であるというギャップも面白い。
しかし、この算盤暗号は、コミュニケーション手段としては極めて一方的で、信頼性に欠けるものでした。Tはメッセージを送るだけで、S子が本当にそれを理解したのかどうか、確かめる術を持ちません。いや、確かめようとしなかった、と言った方が正確かもしれません。彼は自分の解釈だけを頼りに、一方的に関係が進展していると思い込んでしまうのです。
Tが算盤を選んだ理由には、「証拠が残らない」「万が一知られても偶然で言い逃れできる」という計算高さも含まれています。傷つくことを恐れるあまり、安全な場所から一方的に想いを投げかける。これは、対等な人間関係を築こうとする態度とは言えません。彼の臆病さが、コミュニケーションの歪みを生み出しているのです。
物語の前半、Tが算盤にメッセージを込め、S子の反応に一喜一憂する場面は、滑稽でありながらも、どこか切ない期待感を抱かせます。もしかしたら、この奇妙な方法でも恋が実るかもしれない、と読者もTと一緒になって淡い希望を抱いてしまうかもしれません。それだけに、結末の落差はより一層際立ちます。
ここで、S子の視点についても少し考えてみたくなります。作中では彼女の心理はほとんど描かれませんが、彼女はTの奇妙な行動に全く気づかなかったのでしょうか? 毎日、自分の机に不自然な数字が置かれた算盤があることを、本当に単なる偶然や片付け忘れとしか思わなかったのでしょうか。もしかしたら、何かを感じ取ってはいたけれど、Tの内気さを慮って、あるいは単に関わり合いになるのを避けて、気づかないふりをしていた可能性もゼロではないかもしれません。しかし、物語はあくまでTの主観で進むため、S子の真意は謎のままです。
そして、物語はクライマックスへ。S子の机に残された算盤の「ゆきます」というメッセージ。これをTが発見し、有頂天になるシーンは、彼の喜びが伝わってくるようで、読んでいるこちらも一瞬、安堵しかけます。しかし、それが単なる計算結果であり、S子が片付け忘れただけだったという真実が明かされる場面の残酷さ。天国から地獄へ突き落とされるような、あまりにも皮肉な結末です。
この結末は、Tの空回りの悲劇性を強調すると同時に、コミュニケーションの本質について深く考えさせられます。言葉で直接伝え合うことの重要性、そして、思い込みや一方的な解釈がいかに危険であるか。もしTが、ほんの少しの勇気を出して、直接S子に話しかけることができていたら、たとえ結果が同じであったとしても、このような惨めな勘違いは避けられたはずです。
「算盤が恋を語る話」は1925年(大正14年)に発表された作品ですが、描かれているテーマは現代にも通じる普遍性を持っています。Tのような、コミュニケーションに臆病で、自分の殻に閉じこもりがちな心理は、現代社会においても決して珍しくありません。手段こそ算盤からSNSなどに変わったかもしれませんが、一方的な思い込みやすれ違いから生じる悲喜劇は、形を変えて繰り返されているのではないでしょうか。
江戸川乱歩の作品群の中で、本作は派手なトリックや猟奇的な事件が中心となる探偵小説とは一線を画します。むしろ、人間の内面、特に恋愛における屈折した心理を丹念に描いた心理劇としての側面が強いと言えます。同じく暗号を用いた一方的な恋を描いた「日記帳」という作品もほぼ同時期に発表されており、この時期の乱歩が、こうしたテーマに関心を寄せていたことがうかがえます。
最終的に、この物語は読者に何を問いかけるのでしょうか。Tの行動に対して、共感や同情を覚える人もいれば、彼の愚かさや卑怯さに苛立ちを感じる人もいるでしょう。しかし、いずれにしても、彼の空回りした恋の顛末は、どこか物悲しく、読者の心にほろ苦い余韻を残します。算盤の珠が奏でたのは、恋の成就ではなく、コミュニケーション不全が生んだ、あまりにも切ない勘違いの物語だったのでした。
まとめ
江戸川乱歩の「算盤が恋を語る話」は、探偵小説とは異なる魅力を持つ、人間の心理を深く描いた短編作品です。内気な会計係Tが、同僚のS子への恋心を、算盤の珠を使った暗号で伝えようとする、そのユニークな設定がまず読者を引きつけます。
物語は、Tの一方的な思い込みと空回りによって進行します。S子の些細な反応を好意のサインだと誤解し、算盤に残された数字の偶然の一致を運命的な返事だと信じ込んでしまうT。彼の行動は滑稽でありながらも、その必死さや切実さには、どこか同情を禁じ得ません。しかし、その結末はあまりにも皮肉で、ほろ苦いものです。
この作品は、コミュニケーションの難しさや、言葉で直接想いを伝えることの大切さを教えてくれます。臆病さや自尊心が邪魔をして、遠回しな方法を選んだ結果、Tは大きな勘違いと絶望を味わうことになります。これは、大正時代だけでなく、現代にも通じる普遍的なテーマと言えるでしょう。
「算盤が恋を語る話」は、派手さはないかもしれませんが、読後に深い余韻を残す作品です。Tという人物の心理描写の巧みさ、そして予想外の結末がもたらす切なさ。江戸川乱歩の多才ぶりを感じさせる、隠れた名作の一つとして、ぜひ多くの人に読んでいただきたい物語です。