小説「獣の奏者 王獣編」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

上橋菜穂子さんの壮大なファンタジーシリーズ『獣の奏者』。国際アンデルセン賞作家賞を受賞するなど、世界的に高い評価を得ているこの作品は、「人」と「獣」という永遠の他者同士の物語を圧倒的なスケールで描き出します。特に、このシリーズの第二巻にあたる「獣の奏者 王獣編」は、主人公エリンの運命を決定づける重要な転換点として位置づけられています。

著者がこの巻で物語を完結させることも考えていたと明かしているように、エリンと王獣リランの関係性、そしてリョザ神王国の政治的対立という主要な物語の軸が、ここで一つの大きな区切りと結論を提示しているのです。これは、「獣の奏者 王獣編」が単なるシリーズの中継点ではなく、エリンの初期の成長と、人と獣、そして政治という物語の主要テーマが一度ここで完結するような、非常に凝縮された構造を持っていることを示唆しています。

読者はこの巻で提示される問い、例えば禁忌を破ることの代償や絆の真の意味、権力の腐敗といった問題に対して、ある種の答えや決着を見出すことが可能となります。物語の意図や構成の巧みさを理解する上で、この巻がいかに重要であるかを実感させられます。壮大でありながらも、個人の内面と社会の構造が緻密に絡み合う上橋菜穂子さんの世界観に、ぜひ足を踏み入れてみてください。

小説「獣の奏者 王獣編」のあらすじ

母ソヨンとの悲劇的な別れを経験し、蜂飼いのジョウンに助けられた少女エリンは、母と同じ獣ノ医術師を目指すことを決意します。ジョウンの計らいで、エリンはカザルム学舎に入学し、獣の生態や治療法について深く学ぶ日々を送ることになります。彼女の獣ノ医術を志す動機は、単なる職業選択に留まらず、「この世に生きるものが、何故、このようにあるのかを知りたい」という、根源的な生命への好奇心と探求心に根差していました。

学舎での生活の中で、エリンは傷つき瀕死の状態にあった王獣の子「リラン」と運命的な出会いを果たします。王獣は「決して人に馴れない、また馴らしてはいけない聖なる獣」とされており、その傷を癒すことは、これまでの禁忌や常識を飛び越える行為でした。エリンはリランを救いたい一心で献身的に治療にあたり、その過程で「竪琴を使って意志を交わせる」という、王獣と心を通わせる独自の術を見出します。これは、限られた言葉でしか意思疎通できない人と獣の物語の始まりを告げるものでした。

エリンがリランと心を通わせる術は、単なる動物との交流を超え、王国の歴史と深く結びついた「禁忌」に触れる行為でした。王獣は「王獣規範」によって「飛ばない」「産まない」ように飼育されています。これは、王祖ジェが王獣を戦争に使わせないために定めた掟であり、その強大な力が人間の制御を超え、再び悲劇を繰り返さないための「封印」でもありました。エリンがこの禁忌を破ることは、過去の過ちを繰り返す危険性と、同時に新たな可能性を切り開く希望の両面を持つ行為だったのです。

しかし、物語の中盤、エリンはトラブルによりリランに左腕を噛みちぎられるという衝撃的な事件に遭遇します。王獣たちが最も嫌う「音無し笛」を吹こうとした獣使いをリランが襲った際に、エリンが巻き込まれた結果でした。この出来事により、エリンは「いくら懐いてもリランは獣」であり、「どれだけ情をもって接しても獣は獣なのだ」と痛感し、絶望に打ちひしがれます。生命への純粋な探求心が「知ろうとすること自体が危険なのではないか」という恐れに変わってしまったのです。

物語の背景では、リョザ神王国における真王と大公の対立が描かれています。真王が「権威」の象徴、大公が「武力」の象徴としてバランスを保ってきた国に、貧富の格差や「大公を国の王に」と望む組織の活動など、歪みが生じていました。真王の護衛士イアルは、真王ハルミヤの崩御が、真王と大公の間の均衡を取り戻すことを目的とするダミヤの陰謀によるものであることを突き止めます。ダミヤは、操りやすい真王セィミヤを即位させることで、真王の権威を強化し、強大化する大公の武力とのバランスを調整しようと目論んでいたのです。

物語の終盤、王国の命運を左右する大規模な戦いが勃発します。この戦いでは、王獣が「武器」として利用されようとする状況が描かれ、エリンは自身の能力が意に反して利用されていくことに葛藤を抱きます。そんな中、戦場の真ん中で矢に射られそうになったエリンを、王獣のリランが劇的に救い出すのです。リランは、その巨大な体躯にもかかわらず、エリンを傷つけないように細心の注意を払って口の中に保護します。このシーンは、エリンが一度は絶望した「いくら懐いても獣は獣」という認識を、獣の「本能」による行動が「絆」として昇華させる瞬間であり、人と獣の絆の複雑さと深遠さを象徴する場面として描かれています。

小説「獣の奏者 王獣編」の長文感想(ネタバレあり)

上橋菜穂子さんの『獣の奏者 王獣編』を読み終え、私の心には深い感動と、いくつもの問いが残りました。本作は、単なるファンタジーの枠を超え、生命の本質、倫理、権力、そして人間の愚かさと可能性といった普遍的なテーマを深く掘り下げた、まさに「傑作」と呼ぶにふさわしい作品です。

主人公エリンの成長は、この物語の核をなしています。幼い頃に母を失い、ジョウンに育てられた彼女が、獣ノ医術師として生命の奥深さに魅了されていく過程は、読者の心を強く惹きつけます。特に「この世に生きるものが、何故、このようにあるのかを知りたい」という彼女の純粋な探求心は、私たち読者自身の根源的な好奇心をも刺激するものでした。彼女の探求心は、決して表面的なものではなく、生命そのものへの畏敬と、理解への飽くなき願いに満ちています。

そして、その探求心の対象が、王獣の子リランへと向けられたとき、物語は大きく動き出します。傷つき瀕死の状態にあったリランを、エリンが献身的に治療する姿は、慈愛に満ちたものでした。王獣は「人に馴れない」「馴らしてはいけない」という絶対的な禁忌があるにもかかわらず、エリンは竪琴の音色を通じてリランと心を通わせる術を見出します。この「操者ノ技」は、彼女の才能の証であると同時に、王国の根幹を揺るがす禁忌に触れる行為であったことが、後に物語の重要な伏線として効いてきます。人と獣との間に存在する「深い淵」を、懸命に埋めようとするエリンの姿は、他者との理解の困難さと、それでもなお対話を諦めないことの尊さを私たちに示してくれます。

しかし、物語はエリンに過酷な現実を突きつけます。リランに左腕を噛みちぎられるという衝撃的な事件は、読者にとっても忘れられない場面でしょう。この出来事によって、エリンは「いくら懐いてもリランは獣」であり、「どれだけ情をもって接しても獣は獣なのだ」という、厳しくも真実を伴う現実を突きつけられます。彼女の心は絶望に沈み、純粋な探求心すら「知ろうとすること自体が危険なのではないか」という恐れに変わってしまうのです。この描写は、人が他者を理解しようとするときに直面する本質的な困難を鮮やかに描き出しています。たとえどれほど愛情を注ぎ、理解しようと努めても、他者はあくまで「他者」であり、その本能や根源的なあり方は、人間の理屈では測れない部分がある、ということを痛感させられます。この経験が、エリンを単なる純真な少女から、現実の厳しさと向き合い、自己の行動に責任を持つ大人へと成長させる契機となるのです。

エリンの成長は、単なる能力の獲得や知識の深化に留まりません。愛する者たちの喪失(育ての親ジョウンの死やリランによる襲撃)と、それによって生じる痛みや絶望を「受容」するプロセスとして描かれています。特にリランによる襲撃は、彼女が抱いていた「獣との完全な相互理解」という理想が、獣の本能という現実によって打ち砕かれる瞬間であり、この喪失が彼女をより現実的な「覚悟」へと導きます。この「喪失と受容」のテーマは、人間の成長における普遍的な苦難と、それを通じて得られる強さを表現していると言えるでしょう。エリンが「自分の理想と現実は違う」と理解し、それでも「自分のしたことの重大さを受け入れ覚悟する」姿は、彼女が単なる「操者」ではなく、自らの行動とその結果に責任を持つ「人間」としての成熟を示しています。個人の選択が社会全体に与える影響の大きさを、これほどまでに説得力をもって描き出した作品は、そう多くはありません。

物語の背景に広がるリョザ神王国の政治状況も、本作の大きな魅力の一つです。真王と大公という二つの権力が併立し、バランスを保ってきた社会が、貧富の格差や権力争いによって徐々に歪みを見せる様は、まるで現実世界の社会問題を見ているかのようです。真王が「権威」の象徴、大公が「武力」の象徴という設定は、単なるファンタジー世界の創造に留まらず、国家統治の根源的な問題を提起しています。特に、真王ハルミヤの崩御と、その裏で糸を引くダミヤの陰謀は、物語に緊迫感と深みを与えています。ダミヤの行動は、単なる悪意からではなく、「真王と大公のパワーバランスの調整」という目的に基づいている点が重要です。これは、政治的行動が必ずしも単純な善悪で測れないこと、そして「安定」を求めるがゆえに非道な手段が選ばれる現実を示唆しています。権力構造の複雑さと、それに翻弄される人々の姿が、リアルに描かれていることに感銘を受けました。

イアルやシュナンといった登場人物たちも、それぞれの立場で物語に深みを与えています。真王の護衛士であるイアルは、エリンの物語と、権威と権力が分断された国の政治劇という二つの視点を繋ぐ重要な役割を果たします。彼の信念のある行動と、エリンとの間に育まれる純粋な思いやりは、殺伐とした政治劇の中で一服の清涼剤のような存在です。大公の長男シュナンもまた、大公家としての責任感と、国の安定を願う現実的な政治的判断に基づいて行動します。彼らの存在が、個人の純粋な探求心や愛情が、図らずも強大な「力」となり、それが国家の運命を左右する「戦い」へと発展していく、物語における「ミクロとマクロの連動」をより明確にしていると感じました。

そして、物語のクライマックスは、まさに圧巻の一言です。「降臨の野」での大規模な戦いにおいて、王獣が「武器」として利用されようとする状況は、人間の愚かさと欲深さをこれでもかと見せつけます。しかし、その中で、矢に射られそうになったエリンを、王獣のリランが劇的に救い出す場面は、涙なしには読めませんでした。リランがエリンを傷つけないように細心の注意を払って口の中に保護する描写は、獣としての本能と、エリンが注ぎ込んだ愛情が織りなす奇跡的な瞬間であり、人と獣の絆の超越性を象徴しています。エリンが「いくら懐いてもリランは獣」と一度は絶望したにもかかわらず、最後に「その情をもって獣に救われる」という展開は、他者理解の困難さを受け入れた上で、それでもなお繋がりを求め続けることの、計り知れない価値を示しているように思えます。

さらに、王獣が「飛ばない」「産まない」理由が、過去の悲劇を防ぐための人為的な「王獣規範」によるものであるという真実の開示は、物語に新たな深みを与えます。これは、権力者が「大いなる災い」を防ぐために、知識や真実を隠蔽し、自然の摂理に介入してきた歴史を示しているのです。エリンがリランの本来の能力を取り戻すことで、この「封印」が解かれ、王獣の力が再び戦争に利用される危険性が高まる一方で、王獣の本来の生態が明かされることは、リョザ神王国の建国神話や権力構造の根幹を揺るがす真実でもありました。知識の隠蔽がもたらす安定と、その裏にある抑圧という社会構造の根源的な問題が、本作では鋭く問いかけられています。

「獣の奏者 王獣編」は、リランによる劇的な救出の後、エリンの新たな決意の言葉で締めくくられます。「おまえにもらった命が続くかぎり、わたしは深い淵の岸辺に立って、竪琴を奏でつづけよう。天と地に満ちる獣に向かって、一本一本弦をはじき、語りかけていこう。未知の調べを、耳にするために」この決意は、エリンがリランとの絆を深め、その力を利用しようとする者たちと対峙した末に、自らの進むべき道を見定めたことを示しています。彼女は、獣との「深い淵」を埋めることはできないと理解しつつも、その「縁」に立ち続けることで、未知の可能性を探求し続けることを選んだのです。

著者が本来ここで終わりのつもりだったと明かしている通り、この巻は非常に高い完成度で物語が閉じられています。読後感は「満足感の奔流に流されるような、華々しい読後感」と評されるように、エリンとリランの絆、そして人間の愚かさが描かれつつも、希望を感じさせる終わり方となっています。エリンの決意は、単なる物語の終わりではなく、人と獣、あるいは他者との間に存在する本質的な隔たりを認識しつつも、対話を諦めないという哲学的姿勢の表明であると言えるでしょう。完全な理解は不可能であっても、探求とコミュニケーションを続けることの価値を、これほどまでに力強く示した作品は他にありません。

この物語は、人間の愚かさと欲深さを容赦なく描きながらも、個人の純粋な探求心と、他者との間に築かれる絆の中に、希望の光を見出すことを示唆しています。それは、リランによるエリンの救出に象徴される「情」であり、エリンの揺るぎない探求心と決意に宿る「希望」です。これらのテーマは、上橋菜穂子作品全体に流れるものであり、読者に深い問いかけと感動を与えるでしょう。そして、その希望は、単にエリン個人の物語に留まらず、次なる物語へと受け継がれるべき知識と知恵の「松明」として、読者の心に深く刻まれるのです。

まとめ

上橋菜穂子さんの『獣の奏者 王獣編』は、生命の本質、倫理、権力、そして人間の愚かさと可能性といった普遍的なテーマを深く掘り下げた、まさに文学と呼ぶにふさわしい作品です。主人公エリンが、傷ついた王獣リランとの出会いを通じて禁忌を破り、「操者ノ技」を習得する過程は、彼女の純粋な探求心と、それがもたらす予期せぬ結果の両面を描き出しています。

リランによる襲撃という痛ましい経験は、人と獣の間に横たわる「深い淵」の存在をエリンに突きつけますが、同時に、その淵の「縁」で交わされる絆の尊さをも示唆します。物語の背景には、真王と大公の対立に象徴されるリョザ神王国の複雑な政治状況があり、ダミヤの陰謀や真王ハルミヤの崩御といった出来事が、エリンとリランの運命を否応なく国家の戦いへと巻き込んでいくのです。

クライマックスにおけるリランによるエリンの劇的な救出は、獣の本能と、人間が注ぎ込んだ愛情が織りなす奇跡的な瞬間であり、人と獣の絆の超越性を象徴しています。また、王獣が「飛ばない」「産まない」理由が、過去の悲劇を防ぐための人為的な「王獣規範」によるものであるという真実の開示は、知識の隠蔽と歴史の繰り返しという人間の性に対する深い問いかけを提示します。

『獣の奏者 王獣編』は、エリンの「深い淵の岸辺に立って、竪琴を奏でつづけよう」という決意をもって締めくくられます。これは、完全な理解は不可能であっても、他者との対話を諦めず、未知の可能性を探求し続けるという、エリンの揺るぎない覚悟と哲学的な姿勢を表明していると言えるでしょう。人間の愚かさと欲深さを容赦なく描きながらも、個人の純粋な探求心と、他者との間に築かれる絆の中に、希望の光を見出すことを示唆する、心に深く残る一冊です。