小説「沈める滝」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

三島由紀夫の長編小説『沈める滝』は、愛というものが持つ、はかない幻想を追求し、その虚無の淵から「人工の愛」を創造しようとする、壮大で悲劇的な物語です。既存の愛の概念を信じない主人公、城所昇が、不感症の女性・顕子と出会い、自身の哲学を彼女に投影しようと試みる様は、読む者に深い問いかけを投げかけます。感情を排した関係性の構築が、いかに危うく、破滅的な結末へと繋がるのか。この作品は、愛の本質、人間の感情の複雑さ、そして人間の傲慢さがもたらす悲劇を、冷徹な筆致で描き出しています。

本作が発表されたのは1955年。三島が自身の幸福な時期にあったにもかかわらず、描かれるのは「愛の虚無」という対照的なテーマです。これは、幸福の絶頂にあるからこそ、愛の根源的な虚偽性や、三島自身の内面に潜む「無機物への愛」といった、より深遠な哲学的な問いを追求した三島の芸術家としての姿勢を示唆しています。表面的な感情にとらわれず、その奥底に潜む真実を見つめようとする三島文学の真髄が、この作品には凝縮されています。

主人公・城所昇の、徹底した合理主義と、幼少期から培われた無機物への信頼は、彼の愛の哲学の基盤を形成します。鉄や石に囲まれて育ち、人間という不確かな存在よりも、確固たる実体を持つものに価値を見出す彼の思想は、感情の不確実性から逃れようとする人間の普遍的な願望の表れとも言えるでしょう。その美貌と知性、財力を兼ね備えながらも、愛を「虚妄」と捉える昇の姿は、現代社会における人間関係のあり方にも通じる、示唆に富んだ問題を提起しています。

この作品は、単なる恋愛物語に留まらず、人間の内面に潜む感情の抑圧と解放、そしてそれがもたらす破滅を深く掘り下げています。顕子の悲劇的な結末は、感情を排除した「人工の愛」がいかに人間にとって破滅的であるかを示唆するとともに、読者に「真の愛とは何か」という根源的な問いを投げかけます。三島由紀夫の初期の傑作として、その後の彼の文学活動の基盤を築いた『沈める滝』は、今もなお、私たちの心に深く響く作品です。

小説「沈める滝」のあらすじ

三島由紀夫の『沈める滝』は、愛を信じない青年、城所昇の特異な思想と、彼が企てる「人工の愛」の実験を描いた物語です。昇は幼い頃に両親を亡くし、電力会社の会長である祖父・九造に育てられます。幼少期から玩具として与えられたのは発電機の模型や鉄や石ばかりで、彼は人間よりも無機物を信じ、確実な実体を持つ土木工学の道を志します。数学は得意な一方で、感情に乏しく、塗り絵では全てを灰色に塗るような子供でした。

成長した昇は、天性の美貌と優れた頭脳、そして莫大な財産を兼ね備えたエリート技術者となります。彼は数多くの女性と関係を持ちますが、愛情に基づくものではなく、特定の女性を愛することはありませんでした。彼にとって恋愛は「莫迦げたもの」「虚妄」であり、朝には「火のように熱い足の女たち」の「具体性」から逃れたいと願うほど、感情や肉体的な熱情を拒絶していました。

そんな昇が、ある晩夏の朝、多摩川のほとりで顕子と出会います。顕子は「石のように不感症な人妻」と描写されており、昇はこの「欠陥的要素」を持つ顕子に強い魅力を感じます。昇は、感情の起伏が少ない顕子ならば、自身の「愛を信じない」哲学と共鳴し、自身の理論に基づいた「人工の愛」を創造できると考え、彼女をその実験の対象とします。顕子の夫である菊池は証券会社経営者で、感情に乏しく、自身の社会的体裁しか重んじない男でした。

昇は、ダム設計の仕事で新潟県のダム現場に越冬することになります。豪雪に閉ざされた隔絶された環境の中、昇は顕子と直接会うことを避け、手紙を通じて「人工恋愛」を構築しようと試みます。不安に苛まれる若者たちの中で、昇だけは超然としており、同僚の瀬山にも頼りにされます。昇は瀬山に顕子への恋心を打ち明けますが、「あの人は感動しないから、好きなんだ」と、常識とは異なる愛の定義を語ります。

越冬期間を終え、春の訪れとともに顕子との再会が迫る中、物語はクライマックスを迎えます。顕子は昇との関係の中で、ついに「性愛のよろこび」を知るに至ります。しかし、顕子が感情、特に性愛の喜びを知ったことに対し、昇は「失望」します。彼の「愛」は顕子の「不感症」の上に成り立っていたため、彼女が感情を獲得したことで、その人工的な構造が崩壊したのです。

昇による「本質的な人間の冷酷さ」を突きつけられた顕子は、救いようのない絶望へと堕ちていきます。そして、昇への遺書を残し、滝に入水して自殺を図ります。この悲劇的な結末は、感情を排除した「人工の愛」の試みが、顕子の人間性を破壊し、死に至らしめたことを明確に示し、愛の本質と人間の感情の深淵を問いかけるものとして、読者に強い衝撃を与えます。

小説「沈める滝」の長文感想(ネタバレあり)

三島由紀夫の『沈める滝』を読み終え、私の心には深い静寂と、同時に激しい問いかけが残りました。この作品は、一般的な意味での「愛」という概念を根底から揺さぶる、まさに知的爆弾のような一冊です。主人公・城所昇が追い求めた「人工の愛」とは何だったのか、そしてその果てに訪れた顕子の悲劇は、私たちに何を訴えかけるのでしょうか。

まず、城所昇という人物像に圧倒されます。彼は単なる美青年でも、冷酷な男でもありません。幼い頃から鉄や石に囲まれて育ち、人間という不確かな存在よりも、無機物の不変性を信頼するに至った彼の思考は、ある意味で極めて純粋です。感情を「火のように熱い足の女たち」の「具体性」と表現し、それから逃れたいと願う昇の姿は、感情の揺らぎや不確実性に疲弊し、確実なものに安寧を求める現代人の心の奥底にも響くのではないでしょうか。ダム設計という彼の職業は、自然の力を制御し、人工的な秩序を創り出す行為であり、まさに昇の思想を具現化したものです。彼の生きた世界は、感情という「自然」を制御し、「人工の愛」を構築しようとする試みそのものと、見事に呼応しています。

顕子との出会いは、昇にとってまさに運命的でした。彼女が「石のように不感症な人妻」であったことは、昇の「人工の愛」の実験にとって理想的な「空白のキャンバス」でした。昇は、感情の介入を排除し、自身の理論に基づいた「愛」を顕子に投影しようとします。豪雪に閉ざされたダム現場での越冬期間、手紙を通じて関係性を構築しようとする昇の試みは、感情の熱を避け、観念的な繋がりを求める彼の姿勢を象徴しています。彼は、顕子を愛していると瀬山に告白しながらも、「感動しないから、好きなんだ」と語る。この逆説的な言葉に、昇の愛の定義が、いかに常識的な「愛」の概念から逸脱しているかが明確に示されています。彼は愛を「創造」しようとしたのであり、それは既存の愛の否定から始まったのです。

そして、物語の最大の悲劇であり、最も心に突き刺さるのが、顕子が「性愛のよろこび」を知った時の昇の反応です。昇は顕子の感情の目覚めに「失望」します。彼が構築しようとした「人工の愛」は、顕子の「不感症」という欠陥の上に成り立っていたからです。顕子が感情を獲得したことは、昇にとって、自身の実験の失敗であり、彼女の「魅力」の解体でした。これは、昇の愛が、他者の感情や自律性を許容しない、極めて自己完結的な構築物であったことを露呈させます。彼は顕子を人間として深く理解しようとせず、自身の哲学を検証するための「無機的な対象」としてしか見ていなかった。彼女が人間らしい感情を獲得したことで、その対象が「人間化」し、彼の支配から逸脱したことを意味するのです。

顕子の絶望と入水自殺は、この物語の最も痛ましい結末です。感情を排除された「人工の愛」が、いかに人間性を破壊し、死に至らしめるかを示すものです。顕子の死は、昇が追求した冷徹な合理主義の限界と、感情という人間の根源的な側面を無視することの危険性を、雄弁に語りかけています。三島は、フロイトによる精神分析を導入せずには解けないと示唆していますが、これは顕子の行動が単なる失恋を超え、抑圧された感情の爆発や、自己存在の否定といった深層心理に根差していることを示唆しているのでしょう。

顕子の夫である菊池の存在も、昇の「人工の愛」を際立たせる対比として機能しています。菊池もまた、感情よりも形式や社会的体裁を重んじる人物であり、妻の不感症が治った秘訣を昇に尋ねる姿は、感情なき人間関係の虚偽を象徴しています。昇の「人工の愛」は、ある意味で、このような虚偽的な人間関係の延長線上にあるのかもしれません。

一方、同僚の瀬山とのエピソードは、昇の複雑な人間性を垣間見せます。越冬資材の横流しが露見し、解雇されそうになった瀬山を、昇が大口株主として助ける場面。昇は瀬山に対する「寛恕や友情の気持」から、顕子への恋心を打ち明けていました。これは、昇が徹底した合理主義者でありながらも、特定の人間に対しては、ある種の人間的な繋がりや義理を感じる側面を持つことを示唆しています。彼の冷徹さの中にも、微かな人間的な感情の揺らぎが全くないわけではないことを示唆しており、彼の人物像に深みを与えています。

ダム建設という舞台設定は、この物語に象徴的な意味合いを与えています。自然の力を制御し、人工的な秩序を創り出すダムは、昇が人間の感情を制御し、「人工の愛」を構築しようとする試みと深く連動しています。豪雪に閉ざされた隔絶された環境は、昇が感情的な干渉を受けずに「愛の実験」を行うための「実験室」として機能します。しかし、大雪崩など自然の猛威が描かれる一方で、食糧不足による人間の脆さも描かれることで、人間が自然を完全に制御することは不可能であり、その中で人工的なものを追求する昇の試みが、いかに危ういものであるかを暗示しています。顕子の入水自殺は、まるで「ダムの決壊」のメタファーのように、自然な感情を抑圧し、人工的な秩序を強いることの限界と悲劇性を暗示しているように感じられます。

昇が幼少期から愛した「鉄や石」もまた、物語全体に深く影響を与えています。これらは感情的な変動や不確かさのない、安定し、不変なものの象徴です。昇は、人間の感情の「火のような熱さ」や「具体性」から逃れ、これらの無機物に安寧を見出します。これは、三島由紀夫が他の作品でも示した「世界崩壊後も残る何らかの物象・現象を高く評価する」という思想と深く関連しています。普遍的で不変なものに価値を見出す三島の美意識が、昇の人物像を通じて具現化されているのです。

『沈める滝』は、三島由紀夫の多岐にわたる思想的探求の初期の重要な表れです。主人公・城所昇の無機物への絶対的な信頼と人間感情への不信は、三島自身の思想、特に「世界崩壊後も残る物象・現象」への評価と深く繋がっています。顕子の入水自殺という悲劇的な結末は、三島が晩年に至るまで探求した「死の美学」や「死の実践哲学」への初期の萌芽と見ることができます。愛の破綻が死という究極の行為に結びつく構図は、三島文学に繰り返し現れるテーマであり、この作品はその原点の一つとして位置づけられるでしょう。

この作品は、現代社会における「愛」の本質についても深く問いかけてきます。感情や共感に基づかない「人工の愛」の試みは、現代の希薄な人間関係や、感情の表層化といった問題にも通じる普遍的な問いを投げかけます。昇は「愛を信じない」青年であり、恋愛を「莫迦げたもの」「虚妄」と捉え、既存の愛を否定し、新たな愛を創造しようと試みました。しかし、顕子が感情(性愛の喜び)を知ると、昇は失望し、顕子は絶望して自殺するという悲劇的な結末を迎えます。

この物語は、単に「愛を信じない男の物語」ではありません。「愛」という概念そのものの本質を破壊し、再構築しようとする壮大な知的実験の記録です。昇は、感情という「不確かなもの」を排除することで、より純粋で制御可能な「愛」を追求しましたが、それは他者の人間性(感情)を否定する行為でした。顕子の死は、感情を排除した「人工の愛」が、いかに人間にとって破滅的であるかを示唆します。しかし、同時に、この物語は、従来の愛の概念が持つ「虚妄」性をも浮き彫りにし、読者に「真の愛とは何か」という根源的な問いを投げかけます。三島は、この作品を通じて、愛が持つ二面性――人を繋ぐ力と、人を傷つけ、破滅させる力――を深く掘り下げています。

主人公・昇の冷徹な合理主義と、顕子の感情の目覚め、そしてその破滅という対比は、人間の心理の複雑さ、特に感情の抑圧と解放がもたらす影響の深淵を描き出しています。フロイト的解釈の示唆は、この作品が単なる恋愛小説に留まらず、深層心理学的アプローチを促すものであることを示しており、現代においても人間の内面と感情のあり方を深く考察するための重要な示唆を与え続けています。『沈める滝』は、読後も長く心に残り、私たち自身の愛と感情のあり方を問い直す、深く示唆に富んだ作品と言えるでしょう。

まとめ

三島由紀夫の『沈める滝』は、愛を信じない青年、城所昇が「人工の愛」の創造を試みる、壮大な悲劇の物語です。幼少期から無機物を愛し、人間よりも鉄や石を信頼するようになった昇は、感情という不確かなものを排し、論理と知性で「愛」を構築しようとします。その対象となったのが、「石のように不感症な人妻」顕子でした。豪雪に閉ざされたダム現場で、手紙を通じた関係性を築く昇の試みは、感情の熱を避け、観念的な繋がりを求める彼の特異な哲学を象徴しています。

しかし、昇が築き上げた「人工の愛」は、顕子が性愛の喜びを知ったことで崩壊します。顕子の感情の目覚めは、昇にとって「失望」であり、彼の愛が、顕子の「欠陥」の上に成り立つ自己中心的なものであったことを露呈させました。この「本質的な人間の冷酷さ」に直面した顕子は、深い絶望の果てに滝へと入水自殺を図ります。彼女の死は、感情を排除した愛がいかに人間性を破壊し、悲劇を招くかを示す、痛烈な結末です。

この作品は、単なる恋愛小説に留まらず、愛の本質、人間の感情の深淵、そして人間の傲慢さがもたらす破滅を深く掘り下げています。ダム建設という舞台設定や、昇が愛する鉄や石といった無機物の象徴性は、自然を制御し、人工的な秩序を創り出そうとする昇の試みと強く結びつき、物語に象徴的な意味を与えています。

『沈める滝』は、三島由紀夫の思想、特に無機物への評価や死の美学の初期の萌芽が垣間見える作品であり、彼の文学における重要な出発点の一つと位置づけられます。現代社会における人間関係の希薄さや、感情の表層化といった問題にも通じる普遍的な問いを投げかける本作は、読後も長く心に残り、私たち自身の愛と感情のあり方を問い直す、深く示唆に富んだ作品と言えるでしょう。