小説「毒草」の物語の結末までを、隠さずに紹介します。読み終えた後の気持ちを詳しく書いた部分もありますので、どうぞ。
江戸川乱歩といえば、奇妙で怪しい雰囲気や、論理的な謎解きが魅力的な作品が多いですよね。この「毒草」という短編は、そうした中でも少し変わった味わいを持つ作品かもしれません。派手な事件が起こるわけではないのに、じわりと心に広がる不気味さがあるんです。
物語の中心にあるのは、主人公が抱える罪悪感。ふとした会話が、思いもよらない結果を招いたかもしれないという恐れ。読んでいるこちらまで、その重苦しい気持ちに引き込まれていくようです。結末がはっきりと示されないからこそ、余計に想像力がかき立てられ、後味の悪さが残ります。
この記事では、そんな「毒草」の物語の流れを追いながら、なぜこの作品がこれほどまでに心をざわつかせるのか、その理由を探っていきたいと思います。結末に触れる部分もありますので、まだ読んでいない方はご注意くださいね。それでは、一緒に「毒草」の世界を覗いてみましょう。
小説「毒草」のあらすじ
物語は、「私」が友人と散歩している場面から始まります。話題は、ある特殊な植物について。それは、知る人ぞ知る、堕胎に効果があるとされる「毒草」の話でした。「私」は得意げにその知識を友人に語って聞かせます。
その時、二人のすぐ近くで、一人の女性が休んでいました。近所に住む、子沢山で貧しい家の妊婦さんです。彼女が、二人の会話を偶然耳にしてしまったかもしれない、という可能性に「私」は気づきます。妙な胸騒ぎを覚える「私」。
数日後、「私」は言いようのない不安に駆られます。あの妊婦が、まさかあの「毒草」の話を真に受けて、行動に移したりはしないだろうか。罪悪感と恐怖心が、「私」の心を蝕んでいきます。自分が犯罪を誘発してしまったのではないか、という考えが頭から離れません。
いてもたってもいられなくなった「私」は、例の植物が生えていた場所へ足を運びます。すると、そこには恐れていた光景が。植物の茎が、根元近くからぽっきりと折り取られていたのです。まるで誰かが意図的に持ち去ったかのように。不吉な予感は確信に変わっていきます。
さらに数日が過ぎたある日、「私」は道端で偶然、あの妊婦と再会します。しかし、彼女の姿は以前とはまったく異なっていました。あれほど大きく膨らんでいたお腹が、まるで空腹の痩せた犬のように、不自然なほどぺちゃんこになっていたのです。「私」は声も出せず、ただ立ち尽くすばかりでした。
物語はここで明確な結末を迎えません。しかし、その後、近所では立て続けに妊婦が流産するという不吉な噂が広まります。あの妊婦が本当に「毒草」を使ったのか、他の妊婦たちの流産と関係があるのか、すべては曖昧なまま。このはっきりしない結末が、かえって読者に重苦しく、湿度の高い不気味な印象を残すのです。
小説「毒草」の長文感想(ネタバレあり)
江戸川乱歩の作品群の中で、『毒草』は少し異質な光を放っているように感じます。例えば、以前読んだ『踊る一寸法師』のような、ケレン味たっぷりで視覚的にも強烈な印象を与える作品とは、まったく方向性が異なります。あちらが極彩色でどぎつい悪夢だとすれば、『毒草』はモノクロームで、じっとりと肌にまとわりつくような悪夢、とでも言えるでしょうか。
この作品には、いわゆる探偵小説的な謎解きはありません。殺人事件が起こるわけでもなく、明確な犯罪行為があったかどうかすら、最後まで曖昧にぼかされています。主人公である「私」は、ただ散歩し、友人と話し、不安に駆られて再び散歩に出かける。行動だけを見れば、非常に地味で静かな物語です。
それなのに、なぜこれほどまでに心を掴まれ、読後に重たい気持ちを引きずってしまうのでしょう。それは、この短い物語の根底に流れる、土着的とも言えるような生々しい残酷さと、乱歩が人間の本質を見つめる冷徹な視線が、独特の凄みを生み出しているからではないかと、私は思います。
物語の中心にあるのは、主人公「私」の罪悪感です。友人に堕胎に効くという「毒草」の知識をひけらかしたこと。そして、それを貧しい子沢山の妊婦に聞かれてしまったかもしれないという恐れ。「私」は、自分の不用意な言葉が、一つの命を闇に葬る引き金になったのではないかと、ひたすらに悩み続けます。
この「私」の心理描写が、実に巧みです。「私は、思わぬ女の立聞きに、そしてその結果の想像に、すっかりおびやかされていた。」という一文に、彼の内面の動揺が凝縮されています。当時の日本では、人工妊娠中絶は法律で禁じられていました。母体保護法もまだ存在しない時代です。医師による正規の中絶手術は望めず、もし妊婦が自ら堕胎を試みたとすれば、それは法に触れる行為であり、同時に非常に危険な行為でもありました。
「私」は、自分がその違法で危険な行為を教唆してしまったのではないか、という恐怖に苛まれます。「あの女房が不用な一人の命を、暗から暗へ葬ったとて、それがどうして罪悪になるのだ。併し、理窟で、この身震いがどう止まるものぞ。私はただ、恐しい殺人罪でも犯した様に、無性に怖いのであった。」という彼の内なる声は、理屈では割り切れない、人間の根源的な倫理観や恐怖心が生々しく伝わってきます。貧しい彼女の境遇を思えば、生まれてくる子を減らしたいと願う気持ちも理解できなくはない。しかし、それでもなお、命を操作することへの言いようのない恐ろしさが彼を襲うのです。
そして、「私」が不安に駆られて毒草の生えていた場所へ確認に行く場面。茎が折り取られているのを発見した時の描写は、本作の白眉と言えるでしょう。「一本の茎が、半ばからポッキリ折り取られて、まるで片腕なくした不具者の様に、変に淋しい姿をしているのだ。」この表現には、単なる植物の描写を超えた、不吉な出来事への暗示と、欠損してしまったものへの痛ましさが込められています。
さらに印象的なのは、その光景を目にした「私」が、妊婦の姿を想像する場面です。「醜い顔に、いつも狂者のように髪の毛を振り乱している、あの四十女の女房が、さっき私たちの立ち去ったあとで、恐ろしい決心のために頬を引きつらせながらノソノソと丘を下り、四つん這いになってその植物を折りとっている有様が、気味わるく私の眼に浮かんでくる。」この想像の中で、妊婦はもはや人間的な理性や感情を超えた、生きるための本能に突き動かされる存在として描かれています。
そして、乱歩は続く文章で、この光景を「それは、なんという滑稽な、しかしながら又、なんという厳粛な、一つの光景であったろう」と表現します。「滑稽」と「厳粛」。一見、相反するように思えるこの二つの言葉を並置することで、乱歩は人間の「業」とも言うべき、抗いがたい生命の現実を描き出そうとしているのではないでしょうか。貧困の中で、これ以上子を増やせないという切実な状況。生きるために、あるいはこれ以上苦しまないために、禁じられた手段に手を伸ばさざるを得ないのかもしれない女性の姿。それは、傍から見れば奇妙で「滑稽」に見えるかもしれないけれど、当人にとっては生きるか死ぬかの瀬戸際であり、命と向き合う「厳粛」な瞬間でもある。この表現に、乱歩の人間に対する深い洞察が感じられます。
解題によれば、『毒草』は、それまで論理性を重視してきた乱歩が、より深く人生の真実を探ろうとし始めた、転換点となる作品だとされています。確かに、この作品で描かれる人間の姿は、単なるトリックや謎解きの駒ではなく、もっと生々しく、複雑な感情を抱えた存在として立ち現れています。この「滑稽」でありながら「厳粛」でもあるという人間観は、その後の乱歩作品にも通底するテーマになっていくように思います。
物語の結末も、非常に印象的です。ぺちゃんこになったお腹で現れた妊婦。そして、近所で続く流産の噂。しかし、結局のところ、真相は何もわかりません。彼女が本当に毒草を使ったのか、他の流産と関係があるのか、すべては読者の想像に委ねられます。このはっきりしない終わり方が、作品全体のジメジメとした、湿度の高い不気味さを一層際立たせています。まるで、梅雨時のじっとりとした空気の中に置き去りにされたような、不快で不安な感覚が残るのです。
この作品を読む上で、当時の時代背景、特に堕胎が違法であったという事実を知っているかどうかは、恐怖の質を理解する上で重要かもしれません。現代の感覚からすると、なぜ主人公がそこまで罪悪感を抱くのか、ピンとこない部分もあるかもしれません。しかし、法や社会通念が現在と異なる時代に生きた人々の倫理観や恐怖心を想像することで、この物語の持つ重みがより深く感じられるはずです。
小さな出来事、何気ない会話が、次第に大きな恐怖へと積み重なっていく構成も見事です。ただ毒草について話しただけ。それが、立ち聞きされたかもしれないという疑念を生み、植物が折り取られたという事実によって補強され、ぺちゃんこになったお腹という決定的な(しかし状況証拠に過ぎない)場面に繋がり、最後は不吉な噂で締めくくられる。この恐怖の段階的な増幅が、読者をじわじわと追い詰めていくのです。
『毒草』は、派手さはないけれど、人間の心の奥底にある不安や罪悪感、そして生命に対する畏敬の念のようなものを静かに、しかし鋭く突いてくる作品です。乱歩の多彩な作風を知る上で欠かせない一篇であり、短いながらも深く考えさせられる、読み応えのある物語だと感じました。この、もやもやとした割り切れない読後感こそが、『毒草』の最大の魅力なのかもしれません。
まとめ
江戸川乱歩の短編「毒草」は、主人公が抱える罪悪感と、最後まで真相が明らかにならない不気味さが印象的な物語でした。
何気ない会話がきっかけとなり、貧しい妊婦が危険な堕胎を行ったかもしれないという疑念。「私」の心に渦巻く恐怖と後悔の念は、読んでいるこちらにも重くのしかかってきます。明確な解決が示されない結末は、かえって想像力を掻き立て、ジメジメとした湿度の高い余韻を残します。
派手な事件やトリックはないものの、人間の心の深淵や、当時の社会が抱えていた問題、そして生命に対する複雑な感情が静かに描かれています。「滑稽」と「厳粛」という言葉で表現された、生きるための必死さとその異様さ。乱歩の人間観察の鋭さが光る作品と言えるでしょう。
他の乱歩作品とは一味違う、静かで重苦しい恐怖を味わいたい方に、ぜひ手に取ってみていただきたい一編です。読後、しばらく考え込んでしまうような、深い問いを投げかけてくる物語ですよ。