小説「歪笑小説」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。東野圭吾氏が描く、出版業界という名の迷宮。そこに蠢く作家、編集者たちの悲喜こもごもを、私は少々意地の悪い笑みを浮かべながら眺めさせてもらいました。この物語は、彼らが織りなす人間ドラマの縮図と言っても過言ではないでしょう。
輝かしい文学の世界、その舞台裏が常に清廉潔白であるなどと、まさかお考えではありませんよね?本書は、そんな甘美な幻想を打ち砕く、ある種の暴露本に近いのかもしれません。もっとも、そこには東野氏らしい、計算され尽くしたエンターテイメント性が仕込まれているわけですが。作家という生き物の業、編集者という存在の狡猾さ、そしてそれらを取り巻く出版社の論理。それらが赤裸々に、しかしどこか滑稽に描かれています。
この記事では、そんな「歪笑小説」の物語の核心に触れつつ、私が抱いた所感を詳しく述べていきたいと思います。これから本書を手に取る方も、すでに読了された方も、しばし私の語りにお付き合いいただければ幸いです。もしかしたら、あなたの知らない出版界の”真実”が垣間見えるかもしれませんよ。
小説「歪笑小説」の物語の概要
舞台は架空の出版社「灸英社」。ここは、多くの作家と編集者が集い、日夜、新たな物語を生み出そうと鎬を削る場所です。しかし、その内実は、華やかなイメージとは裏腹に、泥臭い人間関係と生存競争が渦巻いています。本書は、この灸英社を中心に繰り広げられる、出版業界の日常と非日常を描いた12編の連作短編集なのです。
各編では、個性的な登場人物たちが、それぞれの立場で奮闘し、あるいは翻弄される姿が描かれます。例えば、伝説的な手腕で作家から原稿をもぎ取ってくるベテラン編集者。彼の活躍は、もはや奇策の域に達しています。また、念願のデビューを果たし、自作の映像化に舞い上がる新人作家。しかし、現実は彼の甘い夢を容赦なく打ち砕きます。売れない作家の悲哀、美人編集者に振り回される担当作家、リストラ同然の状況から起死回生を狙う中年社員…。
彼らの物語は、時に笑いを誘い、時に씁쓸함을 남깁니다.文学賞の創設を巡るドタバタ劇、売れないことを逆手に取った引退宣言、奇抜なキャラ設定を強要される作家など、出版業界ならではの「あるある」が、東野氏ならではの皮肉と観察眼で切り取られています。作家や編集者だけでなく、作家志望者やその家族といった、業界の周辺にいる人々の視点も盛り込まれ、多角的にこの世界の姿を映し出しているのです。
これらの物語は独立しつつも、登場人物や舞台設定が緩やかにリンクしており、読み進めるうちに「灸英社」という世界の全体像が浮かび上がってきます。そこにあるのは、理想と現実のギャップ、成功と挫折、見栄と本音。出版という営みの裏側で繰り広げられる、実に人間臭いドラマなのです。本書を読むことで、普段何気なく手に取っている書籍が、どのような過程を経て世に出てくるのか、その一端を知ることができるでしょう。
小説「歪笑小説」の長文所感(ネタバレあり)
さて、この「歪笑小説」という作品、出版業界の内幕を描いたものとして、実に興味深いものでした。東野圭吾氏が、自らが身を置く世界を、これほどまでに皮肉たっぷりに、そしてある種の愛情(あるいは諦念?)を込めて描いている点に、まずは感嘆せざるを得ません。読者は、普段窺い知ることのできない作家や編集者の生態を、安全な場所から覗き見するような感覚を味わえるのです。全12編、それぞれが独立した物語でありながら、「灸英社」という共通の舞台と、時折顔を見せる共通の登場人物によって、一つの大きな世界観を形成しています。
まず、『伝説の男』。この編集者の手練手管は、もはや常軌を逸しています。作家を酒で潰して原稿を取り付けるなど、現実にもありそうな話ではありますが、そのやり口の巧妙さ、あるいは厚顔無恥さには、呆れを通り越して一種の感動すら覚えます。もっとも、このような強引さが許される(あるいは必要とされる)業界の体質そのものに、問題があるのかもしれませんがね。
『夢の映像化』に登場するハードボイルド作家、熱海圭介。この人物の滑稽さは、本作の白眉と言っても良いでしょう。売れない作家が、自分の作品がドラマ化されると聞いて舞い上がり、有名俳優の起用を夢想する。しかし、現実は厳しく、設定は大幅に変更され、キャスティングもままならない。この落差、そして担当編集者・小堺の冷徹なツッコミ。実に痛快です。特に、編集者の「馬鹿かこいつは」「論外」「こいつ全然わかってねえなあ」といった心の声は、読者の気持ちを代弁しているかのよう。熱海のような勘違い作家は、現実にも少なからず存在するのではないでしょうか。彼の存在は、作家という職業に付きまとう虚栄心や承認欲求を、カリカチュアライズして見せてくれます。そして、この熱海が後の短編『戦略』で、さらに奇妙な状況に追い込まれる様は、まさに”歪んだ笑い”を誘います。編集部の意向で奇抜なキャラ作りを強要され、それが意図せぬ形で功を奏してしまうという皮肉。まるで、操り人形が、糸の絡まり具合によって予期せぬ喝采を浴びるような、そんな不条理さが漂っています。彼の書く小説が「くさや」に喩えられるくだりも、辛辣極まりない。ここまで言われると、逆にどんな代物なのか読んでみたくなるのが人情というものですが、さて。
『最終候補』は、よりシリアスな側面を覗かせます。リストラ同然の会社員が、一念発起して小説家を目指す。しかし、その過程で作家として生きていくことの厳しさを痛感し、最終的には別の道を選ぶ。これは、多くの作家志望者が直面するであろう現実を、リアルに描いていると言えるでしょう。文学賞を受賞することの難しさ、そして受賞しても成功が約束されるわけではないという事実。夢を追うことの尊さと、現実を見据えることの必要性。その狭間で揺れる主人公の姿は、他人事とは思えません。彼が下した決断は、ある意味で賢明だったのかもしれません。
『小説誌』では、編集者が中学生からの素朴な疑問に答える形で、小説誌の存在意義や出版業界の構造について、本音(あるいは建前?)を吐露します。このやり取り自体が、業界に対する痛烈な皮肉となっているのは言うまでもありません。読者や社会との間に存在する認識のズレを、巧みに描き出しています。
『文学賞創設』は、出版社の都合で新たな文学賞が作られる過程を描いた、これまた内幕物です。選考委員の人選や賞のコンセプト作りなど、裏側では様々な思惑が交錯しているであろうことが窺えます。ギャグテイストの中に、文学賞という権威に対する冷めた視線が感じられます。
『職業、小説家』は、娘の婚約者が新人作家だと知った父親の戸惑いを通して、外部から見た「小説家」という存在の不安定さや、世間的なイメージを描いています。他の短編とは異なり、業界内部の人間ではなく、一般人の視点から描かれている点が新鮮です。作家という職業に対する不安や偏見は、根強いものがあるのでしょう。しかし、最終的には、娘の選んだ相手とその作品を認めようとする父親の姿に、一筋の光が見えるようです。
これらの物語を通して浮かび上がってくるのは、出版業界という特殊な世界の、ある種グロテスクなまでの人間模様です。作家の才能や努力だけでなく、編集者の戦略、出版社の都合、そして何よりも”運”といった要素が複雑に絡み合い、一冊の本が世に出る。その過程には、多くの打算や駆け引き、そして時には理不尽な出来事が存在します。東野氏は、それを決して声高に告発するのではなく、あくまで淡々と、しかし鋭い観察眼で描き出し、読者に”歪んだ笑い”を提供しているのです。
登場人物たちの多くは、どこか欠点があり、滑稽で、しかし憎めない。彼らの行動原理は、保身であったり、承認欲求であったり、あるいは単なる勘違いであったりしますが、それもまた人間の性(さが)なのでしょう。完璧な人間など存在しないように、完璧な業界などありはしない。その身も蓋もない真実を、エンターテイメントとして昇華させている手腕は、さすがと言うほかありません。
特に印象的なのは、作家と編集者の関係性です。彼らは、作品を世に出すという共通の目的を持つ協力者でありながら、時には互いの利害が対立する緊張関係にもあります。編集者は作家の才能を引き出し、サポートする一方で、売れる作品を作るために様々な要求をし、時には作家をコントロールしようとする。作家は編集者の助けを必要としながらも、その干渉に反発したり、過剰な期待を寄せたりする。この微妙なバランスの上に、彼らの関係は成り立っているのかもしれません。本書に登場する編集者・小堺のような人物は、その典型例と言えるでしょう。冷静沈着で、作家を的確に(あるいは冷徹に)分析し、時には非情な判断も下す。しかし、それもまた、出版というビジネスを成り立たせるためには必要な資質なのかもしれません。
また、本書は単なる業界暴露や皮肉にとどまらず、”書くこと”や”物語”そのものへの問いかけも含んでいるように感じられます。売れる作品とは何か? 文学賞の意味とは? 作家として生きるとはどういうことか? これらの問いに対して、明確な答えが提示されるわけではありません。しかし、登場人物たちの悪戦苦闘を通して、読者自身が考えさせられるのです。
この「歪笑小説」は、東野圭吾氏の作品群の中でも、異色の存在感を放っています。シリアスなミステリーで知られる氏が、これほどまでに振り切ったコメディ(それも、自身が属する業界を題材にしたブラックなもの)を書いているという事実に、驚きを感じる読者もいるでしょう。しかし、そこにはやはり、人間という存在への深い洞察と、物語を紡ぐことへの情熱が根底にあるように思えます。出版業界の現実に打ちのめされそうになりながらも、それでもなお、物語を生み出そうとする人々への、歪んではいるけれども、確かなエールが込められているのかもしれません。…まあ、穿ちすぎた見方かもしれませんが。
まとめ
さて、東野圭吾氏の「歪笑小説」について語ってきましたが、いかがでしたでしょうか。本書は、出版業界という、一般には見えにくい世界の裏側を、皮肉と愛情を込めて描き出した連作短編集です。作家や編集者たちの、時に滑稽で、時に哀しい奮闘劇を通して、この世界のリアルな(あるいは、そうであってほしいと願う?)姿を垣間見せてくれます。
物語の概要で触れたように、そこには手練手管の編集者、勘違いの新人作家、起死回生を狙う会社員など、実に様々な人間が登場します。彼らの行動や心理描写は、誇張されている部分もあるでしょうが、妙な説得力があり、読者は思わずニヤリとさせられたり、あるいは씁쓸함을感じたりするはずです。特に、熱海圭介というキャラクターの暴走ぶりと、それに対する編集者の冷徹なツッコミは、本書の大きな魅力の一つと言えるでしょう。
ネタバレを含む所感で述べたように、この作品は単なる業界コメディにとどまらず、”書くこと”、”売ること”、そして”生きること”について、深く考えさせられる要素もはらんでいます。成功と挫折、理想と現実、見栄と本音。出版業界に限らず、どんな世界にも存在するであろう普遍的なテーマが、東野氏ならではの筆致で描かれているのです。シリアスなミステリーとは一味違う、東野圭吾氏の新たな一面を発見できる一冊と言えるかもしれません。まだ手に取られていない方は、この”歪んだ笑い”の世界に足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。きっと、本を読むという行為が、少し違って見えてくるはずですよ。