小説「暁の寺」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。三島由紀夫の畢生の大作である『豊饒の海』四部作の第三巻に位置づけられる本作は、その壮大な物語の中で「転」の役割を担っているのです。輪廻転生という深遠なテーマを仏教の唯識思想を背景に深く掘り下げ、主人公・本多繁邦の精神的な変遷と探求を中心に展開されます。

前二巻、『春の雪』で描かれた松枝清顕の純粋な悲恋、そして『奔馬』における飯沼勲の壮絶な行動的死というテーマから、本作では本多繁邦の内面的な堕落と認識の限界へと焦点が移ります。この「転」は単なる物語の進行上の区分に留まらず、作品全体の精神性が大きく転換する地点を示唆していると言えるでしょう。清顕の悲劇的な恋や勲の行動的な死といった前二作の主題から、本多が直面する老いと退廃、そして人間の醜悪さへと物語の軸が移り変わることで、作品はより深淵な心理的探求へと進んでいきます。

本作において、これまで物語の傍観者、観察者としての役割を担ってきた本多繁邦が、実質的な主人公として描かれています。物語は、亡き学友・松枝清顕と、その生まれ変わりと確信した飯沼勲の記憶を抱き続ける本多が、新たな転生者を探し求める執念を燃やす様を中心に展開されていくのです。読者は、本多の視点を通して、彼の内面的な葛藤や、輪廻転生という神秘的な現象に対する彼の執着を深く味わうことになります。

ジン・ジャン(月光姫)は、清顕と勲の生まれ変わりとされるタイの皇族の女性であり、本多の人生における最後の、そして最も倒錯的な執着の対象となります。本多が実質的な主人公となることは、単なる視点の変更以上の意味を持つのです。これは、作品の主題が「転生者の生」から「転生を認識しようとする者(本多)の認識の限界と堕落」へと移行したことを示しています。三島由紀夫が探求する「人間の限界超え」という主題において、輪廻そのものが実は障害となりうるという思想が提示されており、本多の認識を通してこの思想が描かれることは、物語の必然的な選択として理解できるでしょう。本多の老いと、それに伴う倒錯的な欲望は、理性的な観察者としての彼が、自らの認識の牢獄から脱出しようとする試みとして描かれ、その過程で彼の精神的な堕落が克明に描写されていくのです。

小説「暁の寺」のあらすじ

昭和初期、47歳の弁護士である本多繁邦は、仕事でタイのバンコクを訪れます。そこで彼は、タイの王宮に日本人の生まれ変わりだと主張する幼い姫がいることを知ることになります。この7歳の愛らしい姫、月光姫ジン・ジャンは、狂気の噂もあり、孔雀がとまる小さな御殿「薔薇宮」に幽閉同然で暮らしていました。本多が貢ぎ物の真珠の指環を差し出すと、姫はそれを熱心に見つめた後、本多の膝に飛びつき、「懐かしい」と告げるのです。このジン・ジャンは、本多の学友である松枝清顕の生まれ変わりと思える記憶を持っていました。

その後、本多はインドへと旅立ち、特に聖地ベナレス(現在のヴァラナシ)を訪れます。そこで彼は、ガンジス川での火葬の光景を目の当たりにし、死生観が塗り替えられるほどの衝撃を受けるのです。このインド紀行では、仏教やヒンドゥー教に根ざした深遠な宗教論が挿入され、本多の死生観、ひいては読者のそれにも大きな影響を与えていきます。本多がベナレスで経験する「ドロドロした現実所与」や、空襲体験を通じて垣間見る「物自体」の認識不可能な実相、そしてその先の「世界無」(死的な虚無)といった概念が、第二部でジン・ジャンという存在に収斂していくことになります。この旅は、本多の理性を揺さぶり、彼が輪廻転生の実相に触れる重要な契機となるのです。タイの寺院、例えばワット・アルン(暁の寺)やワット・ベンチャマボピット大理石寺院の描写は、その壮麗な美しさを詳細に描き出し、物語に異国情緒豊かな背景を与えています。

11年の時が経過し、物語は戦後の日本へと舞台を移します。58歳になった本多は、弁護士としての仕事で巨万の富を築き、豪奢な別荘を構える富豪となっていました。この時期の日本は、焼け野原の上に建てられたビルディングや、有り余る富で築かれた薄っぺらな場所、そしてそこで行われるパーティなど、古い日本の喪失と共に堕落していく様が描かれています。

その頃、18歳になったジン・ジャンが留学生として来日し、本多と再会します。彼女は幼少期の記憶を失っていましたが、あどけない顔に大きな胸、漆黒の髪、印象的な黒い瞳を持ち、ジャングルのような蠱惑的な雰囲気を纏っていました。これまで理知的な人生を送ってきた本多は、この若い月光姫に対して「理不尽な想い」を抱き、年齢差にもかかわらず、彼女に「生涯初めての恋」をするのです。この老いた弁護士の「妄愛」は、「醜いほどの恋情」として描写され、エメラルドの指環に彫られた怪奇な神ヤスカの顔に似ていると表現されます。この指環は、本多が学生時代にタイの王子が持っていたもので、行方不明になっていたものを本多が骨董店で見つけ出したものでした。

本多のジン・ジャンへの執着は、彼女が清顕や勲の生まれ変わりであるという確信から、その身体に転生の証である三つの黒子を見出そうとする「執念」へと発展します。この執念は、彼の性欲とも相まって、次第に倒錯的な「覗き趣味」へとエスカレートしていくのです。本多は、夜の公園で他人の情事を覗き見する常習犯となり、さらには自身の別荘の書斎に隣室を覗くための穴を設けるまでに至ります。この覗き見の行為は、本多がゲストルームに泊まったジン・ジャンと友人である久松慶子との同性愛行為を目撃し、その際にジン・ジャンの乳房の下に三つの黒子があることを確認する場面で頂点に達します。

本多の豪奢な別荘で優雅なプール開きが行われた夜、突如火事が起き、まもなくジン・ジャンは母国タイに帰国します。そして火事からさらに10年余りの時が経ち、老いた本多は、あるパーティーでジン・ジャンの双子の姉と出会うのです。姉によると、ジン・ジャンはタイの王宮で暮らしていましたが、20歳のある日、一人で庭に出かけた際に悲劇的な死を迎えます。侍女たちは澄んだ幼げな笑い声を聞いた後、青空の下にはじけた鋭い悲鳴を聞き、駆けつけた時には、姫は深紅にけぶる花の下で、コブラに腿を噛まれ、倒れていました。医師が到着した時には、すでに最後の痙攣を起こし、息絶えていたと伝えられます。

小説「暁の寺」の長文感想(ネタバレあり)

三島由紀夫の「暁の寺」は、彼のライフワークである『豊饒の海』四部作の中でも、ひときわ異彩を放つ作品だと感じています。前二作の若々しい情熱や行動とは打って変わって、本作では本多繁邦という老いた男の、人間としての堕落、そして認識の限界が深く掘り下げられています。正直なところ、読んでいて時に目を背けたくなるような、人間の醜さや業が赤裸々に描かれていて、思わず息をのむ場面も多々ありました。しかし、その描写の生々しさこそが、三島が追求したかった人間の本質ではないかと感じずにはいられません。

物語の冒頭、本多繁邦がタイを訪れる場面から、すでに不穏な空気が漂っていました。異国の地で出会う月光姫ジン・ジャンの幼い姿に、かつての友である松枝清顕の面影を見出し、そこに輪廻転生の確信を得る本多の様子は、理性的な弁護士としての彼の姿とは裏腹の、ある種の狂気を孕んでいるように思えました。特に印象的だったのは、ジン・ジャンが本多の膝に飛びつき「懐かしい」と告げる場面です。この一言が、後の本多の人生を大きく揺るがすことになるとは、この時点では想像もしませんでした。この瞬間から、本多のジン・ジャンに対する執着が芽生え始めたのだと思うと、どこか恐ろしくも感じます。

そして、インドでの滞在は、本多の死生観に決定的な影響を与えます。ガンジス川での火葬の光景、燃え盛る炎と昇っていく魂、そのあまりにも現実的な死の光景は、彼の知的な殻を打ち破り、人間の生の根源的な部分を揺さぶったのでしょう。仏教やヒンドゥー教といった東洋の思想が、物語の背景に深く根差していることを改めて感じさせられました。本多がベナレスで経験する「ドロドロした現実所与」や、空襲体験を通じて垣間見る「物自体」の認識不可能な実相、そしてその先の「世界無」といった概念は、単なる哲学的な記述に留まらず、彼の内面的な葛藤を具現化しているように思えました。これらの経験が、後の本多のジン・ジャンへの倒錯的な執着へと繋がっていくのだと考えると、彼の旅が持つ意味合いは非常に重いものがあります。

舞台が戦後の日本に移り、富豪となった本多の生活が描かれると、その堕落ぶりはさらに鮮明になります。焼け野原の上に築かれた薄っぺらな繁栄、そしてそこで営まれる空虚な社交。古い日本の美意識が失われ、物質的な豊かさだけが残った社会の姿は、三島が生きた時代の日本の姿を象徴しているのかもしれません。その中で、再びジン・ジャンと出会う本多の描写は、まさに彼の精神的な衰退を象徴しています。18歳になったジン・ジャンの、蠱惑的な美しさと対照的に、老いた本多が彼女に抱く「理不尽な想い」は、読者として非常に痛々しく感じられました。

本多のジン・ジャンへの執着が、やがて倒錯的な「覗き趣味」へとエスカレートしていく過程は、本作の最も衝撃的な部分の一つです。彼が夜の公園で他人の情事を覗き見し、さらには自身の別荘に覗き穴を設けるに至る姿は、読者に深い嫌悪感を抱かせます。しかし、同時に、なぜ彼はそこまでして覗き見に固執するのか、という問いが頭から離れませんでした。それは、彼が知性と理性によって築き上げてきた「認識の牢獄」からの脱獄を試みる、ある種の必死な試みだったのではないでしょうか。対象と距離を取り、冷静に観察することで情念を消し去る「見る」という行為を純化しようとする彼の姿は、まさに自己欺瞞の極みであり、その皮肉に満ちた結末が、読者の心に深く刻み込まれるのです。

特に印象的だったのは、本多がジン・ジャンと久松慶子の同性愛行為を覗き見する場面です。そこで彼は、ジン・ジャンの乳房の下に三つの黒子があることを確認し、それが清顕の生まれ変わりであるという確信を深めます。この場面は、物語の大きな転換点であり、本多の執着が頂点に達する瞬間でもあります。しかし、この「発見」が、彼にもたらすものは真実の喜びではなく、むしろ虚しさだったのではないでしょうか。彼が本当に見たい「真実」は、決して「覗き見」によっては見ることができないという皮肉が、この場面に凝縮されているように思えます。

唯識思想が本作の思想的底流にあるという指摘は、非常に腑に落ちるものでした。世界が一瞬一瞬新たに生成され、同時に廃棄されるという「滝」のような時間の概念は、本多が直面する現実の曖昧さ、そして彼の認識の限界を深く説明していると感じます。彼の認識する「現実」が「夢の夢」であるという捉え方は、彼の老いと、転生者が老いることができないという対比を際立たせ、読者に強烈な印象を与えます。三島が「信じられない」と表現した戦後の虚無感が、仏教的な虚無主義として作品の骨組みを形成していると考えると、彼の時代への深い洞察力を感じずにはいられません。

本多繁邦は、物語を通して一貫して「観察者」あるいは「認識者」としての役割を担ってきました。しかし、暁の寺では、彼のその立場が大きく変容し、老境に差し掛かった男の性的不満という「最も醜いもの」が、輪廻転生という「最も崇高なもの」と結びつくという倒錯的な展開を見せるのです。彼は、知能と理性によって築き上げられた「認識の牢獄」からの脱獄を試み、若い女の痴態を覗き見ることによって、その限界を超えようとします。この試みは成功しませんが、その失敗こそが、人間の認識の限界を示唆していると言えるでしょう。

あらゆる事物は彼が覗いた途端に、彼の認識に囚われてしまうため、本多が本多である限り、彼の本当に見たいものは見ることができないという皮肉が、読者に深く突き刺さります。これは、認識すること、理解することが常に「覗き」という態度に転落する危険性を孕んでいることを示唆しており、「行動と力」の世界(見られる世界)の対極に「覗き」の世界が描かれることで、本多の堕落が強調されています。彼は、歴史に参与することが己の使命であると心に決めていたにもかかわらず、結局何もできぬまま、傍観者のまま老いさらばえてしまったという自己認識と、彼の性的嗜好としての覗き趣味が対比され、その人生の空虚さが浮き彫りにされていくのです。

本多の執念は、ジン・ジャンの脇の下にあるとされる三つの黒子に転生の証を見出そうとすることに集約されます。しかし、彼はその直感を証明できる具体的な根拠を何も持たず、ただ「三つの黒子」がその証拠だと主張することしかできません。これは、理性的な認識の限界と、神秘的な事象に対する人間の執着との相克を示していると言えるでしょう。三島が「人間の限界超え」を主題とした『豊饒の海』において、輪廻そのものが実は障害となりうるという思想が提示されており、本多の認識の試みは、この限界に直面する人間の姿を描き出しています。彼の認識の試みは、最終的に「官能性はあっても悪趣味として解釈されて仕方ない物語的発展」を遂げ、自国の醜さを直視した三島の眼が、完全なる認識者となり果てる未来をも眺めていたことを示唆しているように思えます。

ジン・ジャンの悲劇的な死は、物語の終盤に訪れます。コブラに噛まれて息絶える彼女の姿は、その純粋さや美しさとは裏腹に、本多が直面する世界の「醜さ」や「退廃」を象徴しているとも解釈できるのではないでしょうか。『奔馬』で描かれた純潔な精神が崩れ落ちたかのような暁の寺の展開は、純潔とは真逆の背徳的な行為とそれを覗き見る行為が、肉体の高まりを感じさせ、それがベナレスで見た究極の光景によって昇華されたようにも感じられます。この死は、本多の執着がもたらした必然的な結末であり、同時に、彼の人生の虚しさを際立たせるものでした。

暁の寺は、『豊饒の海』四部作の「転」の巻として、最終巻『天人五衰』への重要な橋渡しをします。物語の終盤では、本多のジン・ジャンへの倒錯的な欲望と、彼が『春の雪』のヒロインである聡子に対して抱く「会いたい」という能動的な欲望とが対比されます。聡子は暁の寺ではほとんど登場しないにもかかわらず、この場面での言及は、第四巻における本多と聡子の最後の再会を予見させる伏線となっています。この対比は、本多の心の奥底に、まだ純粋な感情が残っていることを示唆しているようにも思え、読者に一縷の希望を与えるかのようです。

ジン・ジャンの死をもって暁の寺は閉じられますが、インドのベナレスで本多が見た火葬の光景が終盤に再現される構成は、物語が深遠な哲学的な意味合いを持つことを示唆しています。このシリーズは、作品が進むにつれて「人間の持つ『気持ち悪さ』(暗部)」が「イヤさ大豊作となって結実」していくと評されており、三島由紀夫が生涯のテーマとした「人間の限界超え」と、それがもたらす虚無や醜悪さが、この巻で一層深く描かれていると感じました。全体を通して、人間の内面にある光と闇、そしてその境界線を探求する三島の筆致は、やはり圧巻の一言に尽きます。

まとめ

三島由紀夫の「暁の寺」は、『豊饒の海』四部作における重要な転換点であり、輪廻転生という壮大なテーマを、唯識思想という深遠な哲学を背景に探求しています。主人公・本多繁邦の精神的な変容は、理性的な観察者から、老いと倒錯的な欲望に囚われた人物へと堕落していく過程として克明に描かれています。彼の覗き趣味は、認識の限界を超えて「真実」を捉えようとする試みであると同時に、その試みがもたらす醜悪さと虚無を象徴していると言えるでしょう。

ジン・ジャンの悲劇的な死は、本多の執着がもたらす結末であると同時に、世界の美と退廃の対比を際立たせます。本作は、前二巻の純粋な悲恋や行動的な死とは異なる、より内省的で、時に不穏な心理描写を通じて、人間の存在、認識、そして欲望の根源を深く問い直す作品として位置づけられます。読者は、本多の心の闇を覗き見ながら、人間の本質について深く考えさせられることになります。

三島由紀夫は、この作品を通して、戦後社会の虚無と人間の暗部を直視し、その極限を描き出そうとしたのではないでしょうか。彼の筆致は、時に残酷なまでに人間を描き出し、読者に衝撃を与えますが、それこそが真実を追求する彼の姿勢の表れだと感じます。この作品は、単なる物語としてだけでなく、哲学的な問いかけを内包した、読み応えのある一冊と言えるでしょう。

「暁の寺」を読み終えた後、心に残るのは、本多繁邦という一人の男の業の深さと、人間の認識の限界、そして生と死の根源的な問いかけです。三島由紀夫が命がけで探求した「人間の限界超え」というテーマが、この作品で鮮やかに示されていることを、ぜひ多くの方に体験していただきたいです。この作品を読まずして、三島由紀夫の文学を語ることはできない、と私は思います。