小説「文芸的な、余りに文芸的な」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
まず押さえておきたいのは、「文芸的な、余りに文芸的な」は物語というより、芥川龍之介が同時代の作家たち、とくに谷崎潤一郎に向けて語りかける文芸論だという点です。どんな小説を良しとするか、その基準をめぐる論争の只中から生まれた文章なので、あらすじも人間関係や意見のぶつかり合いを追う形になります。
「文芸的な、余りに文芸的な」では、芥川が「話らしい話のない小説」とは何か、「筋の面白さ」と芸術性はどんな関係にあるのかを丁寧に掘り下げていきます。その過程で、志賀直哉やジュール・ルナール、夏目漱石など多くの作家名が次々と登場し、日本と海外の作品が縦横に比較されていきます。
さらに「文芸的な、余りに文芸的な」は、谷崎潤一郎の連載「饒舌録」への返答として書かれているため、一種の往復書簡のような読み味もあります。谷崎が「筋の面白さ」を強く擁護したのに対し、芥川はそこから距離を置き、物語の「話」だけに頼らない表現の可能性を熱心に主張します。読んでいると、あらすじの中にそのまま文壇の空気が流れ込んでくる感覚があるでしょう。
この記事では、「文芸的な、余りに文芸的な」のあらすじを整理したうえで、ネタバレも含めながら、芥川がこの文章で何を賭け、どこまで見通そうとしていたのかを長文感想として掘り下げていきます。文芸論にあまり慣れていない方でも読みやすいよう、できるだけ具体例を挙げながら解説していきます。
「文芸的な、余りに文芸的な」のあらすじ
最初に「文芸的な、余りに文芸的な」で芥川が切り出すのは、「話らしい話のない小説」をめぐる問題です。彼は「話」ばかりを重んじる風潮に違和感を示しつつも、筋のない作品だけを持ち上げるつもりもないと前置きし、あくまで小説の価値は別のところにも宿ると静かに主張し始めます。
そこから芥川は、志賀直哉やジュール・ルナールなど、いわゆる「話」が薄いのに魅力を放つ作品群を挙げていきます。読者が作中人物の呼吸や感情の揺れを味わうような文章の在り方を示し、「出来事の派手さ」では測れない文学の質があると、例を重ねることで語っていきます。
続いて話題は、谷崎潤一郎との論争へと移ります。雑誌上の座談会で芥川が「筋の面白さが芸術的価値を高めるとは限らない」と発言したことに対し、谷崎が別の場で反論した経緯が紹介され、そのやりとりを踏まえて「文芸的な、余りに文芸的な」が書かれていることが明かされます。読者はあらすじの段階で、この文章が個人的な意見表明にとどまらず、公開論争の一環なのだと理解していくことになります。
やがて芥川は、日本文学の歴史や古典にまで視野を広げ、日本の作家たちが古くから筋の構成に優れた伝統を持っていることを認めながらも、それだけではない価値を探ろうとします。最終的に彼がどこまで踏み込むのか、論の行き着く先はあえてここでは伏せておきます。実際の文章を読み進めることで、読者自身が「話」と「文芸性」の境目を考えることになるでしょう。
「文芸的な、余りに文芸的な」の長文感想(ネタバレあり)
読み始めてまず印象に残るのは、「文芸的な、余りに文芸的な」が非常に熱のこもった文章であるという点です。芥川は静かな口調を保ちながらも、同時代の小説観に対する苛立ちと期待を同時に抱えており、その感情がページの端々から立ちのぼってきます。ここから先は内容のネタバレも含めて、このテキストが何を目指しているのかを考えていきます。
芥川が起点に置く「話らしい話のない小説」という言い方には、わざと揺さぶりをかけるような響きがあります。単に筋の薄い作品を礼賛しているわけではなく、「物語の設計図だけでは測れないもの」が小説にはあるのだという問題提起として、この表現を持ち出しているわけです。出来事よりも言葉の手触りや視点の角度、人物の心理の微妙な揺れに価値を見出す、その感性が最初から貫かれています。
このとき例として挙げられる志賀直哉は、「清潔さ」という語で語られます。芥川は志賀作品の思想の澄み方に敬意を払いながら、そこに潜む道徳的な厳しさにも敏感です。「文芸的な、余りに文芸的な」は志賀直哉礼賛の文章ではなく、志賀を一つの指標にしながら、自分自身の位置を測り直そうとする試みでもあります。志賀への距離感の取り方に、芥川の複雑な自意識がにじんでいます。
また「文芸的な、余りに文芸的な」は、谷崎潤一郎とのやりとり抜きには語れません。谷崎は「筋の面白さを除外するのは、小説という形式の特権をみすみす捨てることだ」と主張しましたが、それに対して芥川は、筋を重んじる立場を否定しきらないまま、あえて別の方向へ舵を切ろうとします。ここに、芸術論争というよりも、「自分には別の道を行かせてほしい」という静かな宣言が隠れているように感じられます。
ネタバレ気味に踏み込むと、「文芸的な、余りに文芸的な」における芥川の立場は、単純な反筋派ではありません。むしろ彼は、筋の妙も、細部の描写も、どちらも文学の可能性の一部にすぎないと感じているようです。ただし当時の風潮が筋の面白さに偏りすぎていると見たからこそ、あえてもう一方の価値を強調しているのでしょう。そのバランス感覚こそが、この文章の核心の一つだと読めます。
「文芸的な、余りに文芸的な」で興味深いのは、芥川が海外文学や古典を自在に引用しながら、話の組み立てと文体のあり方を比較していく部分です。ゲーテやシェイクスピア、トルストイ、ダンテ、さらには芭蕉や近松門左衛門など、多様な作家の名が挙がります。列挙に終わらず、それぞれの作品がどのように「筋」と「文芸性」の関係を示しているのかを、着実に例示していくスタイルから、彼の読書量と観察眼の広さが伝わってきます。
一方で、「文芸的な、余りに文芸的な」には、どこか追い詰められた人間の声も聞こえます。執筆時期は芥川が精神的な不調に悩まされていた晩年であり、自分の文学観を言語化することが、ぎりぎりの自己確認の作業でもあったのではないかと感じさせる箇所が少なくありません。自分は何を書き、何を書かないのか。その決断を他者との対話の場にさらしているのが、この文章の緊張感の源です。
ネタバレと言ってよければ、終盤に向かうほど「文芸的な、余りに文芸的な」は、小説観そのものよりも、書き手としての倫理や矜持の問題へとズレていきます。筋を工夫することも、技巧的な構成を凝らすことも否定しないが、それが「芸」のための「芸」になってしまう瞬間を、芥川は強く警戒しているように見えます。彼にとっては、作品の背後にある人格のあり方が、どうしても無視できないテーマだったのでしょう。
ここで重要なのは、「文芸的な、余りに文芸的な」が谷崎の主張を一刀両断する構図にはなっていない点です。芥川は繰り返し、谷崎の才能を評価しつつ、その方向性には自分はなじめないという立場を取ります。だからこそ、この文章を読むと、勝ち負けを決める論争というより、異なる美意識同士がすれ違いながらも正面から向き合おうとする過程が浮かび上がってきます。現代の読者にとっても、この距離の取り方は学ぶところが多いと感じられるはずです。
「文芸的な、余りに文芸的な」は、言ってしまえば文芸批評の文章ですが、その読み味はかなりドラマティックです。座談会での一言がきっかけとなって谷崎が応じ、さらに芥川が反論し…と、論争の流れ自体が一つのストーリーを形作っています。あらすじを追うだけでも、当時の雑誌文化がどれほど活気に満ちていたかが伝わってきて、現代のオンライン上の議論と重ねて読むこともできるでしょう。
さらに深読みすると、「文芸的な、余りに文芸的な」は小説という形式そのものへのラディカルな疑問状になっています。筋の有無だけでなく、「小説とは何をしうるのか」「どこまで現実と切り離されるべきか」といった問いが、文章のあちこちに散りばめられています。それらは結論を押しつけるというより、読み手に問いを手渡してくるような性格のものです。そのため、ネタバレを読んでから原文に当たっても、むしろ問いが自分の中で増えていく感覚があるでしょう。
また、「文芸的な、余りに文芸的な」は、『侏儒の言葉』と並んで芥川晩年の思想を示すテキストとしても重要です。短い断章で世界を見渡した『侏儒の言葉』に対し、こちらはより長いスパンで文学全体を俯瞰しようとしています。両者を合わせて読むと、当時の芥川が、自身の精神状態の不安定さと向き合いながら、それでも言葉を通じて世界とつながろうとしていた姿が立ち上がってきます。
個人的に印象深いのは、「文芸的な、余りに文芸的な」が、読書の仕方そのものを問い直してくるところです。筋だけを追う読み方、評判や流行だけを頼りにする読み方に対して、芥川はさりげなく警鐘を鳴らしています。一冊の本の中で何が語られ、何が黙されているのか。どんな細部が、読後になぜか心に残り続けるのか。そうした読書体験の質を大切にしようと促してくるのです。
言い換えれば、「文芸的な、余りに文芸的な」は、読み手として成熟することへの招待状でもあります。谷崎や志賀、漱石や海外作家の名をたどりながら、自分はどの作品にどう反応するのかを振り返ることで、読者はいつのまにか自分自身の美学を測られていることに気づきます。小説のあらすじやネタバレだけでは掴み切れない、「好み」の深層を見つめさせる力が、この文章にはあります。
書き手の側に目を向ければ、「文芸的な、余りに文芸的な」は、創作を志す人にとってもかなり刺さる内容です。筋を組み立てることに熱中しすぎて、登場人物の息づかいや文体の質が置き去りになっていないか。あるいは逆に、細部の表現にこだわるあまり、作品全体の構造が弱くなっていないか。芥川の論は、どちらか一方の極端に流れがちな創作姿勢に、常に揺り戻しをかけてきます。
そのうえで、「文芸的な、余りに文芸的な」は、最終的な正解を提示しません。ここがこの文章の誠実さだと感じます。芥川自身、自分の立場が暫定的なものであることを自覚しており、その迷いを含めて読者に見せているように読めるのです。だからこそ、読み終えたあとも、あらたなネタバレが頭の中で静かに続いていくような余韻が残ります。
現代の作品に照らして読むと、「文芸的な、余りに文芸的な」はむしろ新鮮です。娯楽性の高い作品も、実験的な作品も豊富な今の時代にこそ、筋と文芸性のバランスという芥川の問いが、より切実なものとして感じられます。どんな作品にも通じる「読みの軸」を与えてくれる、その意味で、単なる昔の論争資料ではなく、今も使える思考の道具として読めるのです。
最後に、「文芸的な、余りに文芸的な」はタイトル自体が魅力的です。「文芸的であること」が行き過ぎたとき、いったい何が失われ、何が守られるのか。芥川はその境目を、自分自身も危うく踏み越えそうになりながら探っているように見えます。タイトルに込められた自己諷刺と情熱、その両方を味わうためにも、あらすじやネタバレで概要を押さえたうえで、ぜひ原文に触れてみてほしいと感じます。
まとめ:「文芸的な、余りに文芸的な」のあらすじ・ネタバレ・長文感想
ここまで「文芸的な、余りに文芸的な」のあらすじを整理しつつ、ネタバレも交えて長文感想を述べてきました。この文章は、物語というよりも、芥川龍之介が小説観をめぐって自分と他者を見比べた文芸論であり、その中で「話らしい話のない小説」という刺激的なテーマが立ち上がっています。
「文芸的な、余りに文芸的な」は、志賀直哉や谷崎潤一郎、海外の古典作家たちを引き合いに出しながら、筋の面白さと文芸性の関係を問い直していきます。あらすじの段階で論争の流れが見えてきますが、読めば読むほど、その背後にある芥川自身の精神状態や倫理観の揺れも透けて見えてくる構造になっています。
長文感想の部分で見てきたように、「文芸的な、余りに文芸的な」は、読み手と書き手の双方に問いを投げかけるテキストです。単に昔の文壇のネタバレ資料として読むのではなく、自分がどのような作品を好み、どんな価値をそこに見出しているのかを考えるきっかけとして読むと、より深い手応えが得られるでしょう。
あらすじで概要を押さえたうえで、実際に「文芸的な、余りに文芸的な」の原文を開くと、芥川の言葉が持つ鋭さと揺らぎの両方が、より立体的に感じられます。文芸観をめぐる問いを今の時代に引き寄せて考えてみたい方には、ぜひじっくり味わってほしい一篇です。












































