小説『我々は、みな孤独である』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

貴志祐介先生が7年ぶりに発表された長編『我々は、みな孤独である』は、探偵小説というジャンルに収まらない、読者の想像を遥かに超えた物語です。私立探偵が、前世で自分を殺した犯人を捜してほしいという奇妙な依頼を受けるところから、この壮大な物語は幕を開けます。

最初は半信半疑だった探偵も、調査を進めるうちに自身も前世の記憶としか思えない鮮明な夢を見るようになります。この現象は、探偵だけでなく読者をも巻き込み、現実と非現実の境界を曖昧にする巧妙な仕掛けとなっています。単なるミステリーの謎解きに留まらず、人間の根源的な問いへと誘う、貴志祐介先生ならではの筆致が光ります。

物語はさらに深まり、暴力団やマフィアといった裏社会との接触、凄惨な描写も含まれ、読者に衝撃を与えます。しかし、これらの描写は単なるショッキングな要素としてではなく、輪廻転生というテーマに絡められ、普遍的な「業」や「因果」として描かれることで、物語に深い意味をもたらします。

小説『我々は、みな孤独である』のあらすじ

経営難に喘ぐ零細探偵事務所を営む私立探偵、茶畑徹朗。闇金からの厳しい取り立てに苦しむ彼のもとに、ある日、奇妙な依頼が舞い込みます。依頼主は、一代で巨大企業を築き上げた80歳近い傑物、正木栄之介会長。その内容は、「前世で自分を殺した犯人を捜してほしい」という、常識では考えられないものでした。

茶畑と、彼の助手を務める毬子は、前世の存在など信じていませんでした。しかし、高額な報酬に目がくらみ、適当に話を合わせて依頼を引き受けてしまいます。半信半疑ながらも調査を開始する二人。正木が見たという江戸時代の夢の断片を手がかりに、古文書を読み解き、前世の時代や地域を特定しようと奔走します。

調査を進めるうちに、思わぬ事態が起こります。茶畑と毬子自身もまた、前世の記憶としか思えない鮮明な夢を見るようになるのです。当初の懐疑心は打ち砕かれ、彼らは否応なく前世の存在を信じざるを得ない状況へと追い込まれていきます。しかし、複数の人物が同じ前世を持つといった、論理では説明できない矛盾も生じ、事態は一層複雑化していきます。

前世の謎を追う中で、物語は思いがけない方向へと展開します。茶畑の元部下の横領逃亡事件が絡み、サイコパス的な暴力団組長・丹野やヒスパニック系マフィアといった反社会勢力が登場。彼らは茶畑をヤクザやマフィアの抗争に巻き込み、命の危険に晒します。単なる前世探しは、暴力とサスペンスに満ちたハードボイルドな展開へと加速していくのです。

福森家の一家惨殺事件の調査を通じて登場する霊能者、賀茂禮子の存在もまた、物語に新たな視点をもたらします。彼女は、前世の記憶を巡る不可解な現象に対し、科学や論理だけでは解決できない領域があることを示唆し、現実と非現実の境界を曖昧にしていきます。

そして物語は、単なる前世の犯人探しという探偵小説の枠を超え、輪廻転生の秘密、死生観、そして最終的には「宇宙の真理」へとスケールを拡大していきます。人類はみな「ひとつの意識」で繋がっているという哲学的な概念が提示され、タイトルの「我々は、みな孤独である」という言葉の真の意味が、壮大な宇宙論へと発展していくのです。

小説『我々は、みな孤独である』の長文感想(ネタバレあり)

貴志祐介先生の『我々は、みな孤独である』を読み終え、まず感じたのは、これまでの貴志作品とは一線を画す、圧倒的なまでの「深み」と「広がり」でした。探偵小説という出発点から、SF、ホラー、そして哲学的な問いへと縦横無尽に展開する物語は、まさに「未体験のエンターテインメント」と呼ぶにふさわしいものです。読み進めるごとに、私たちの「世界観」そのものが揺さぶられ、意識の奥底にまで問いが投げかけられるような感覚に陥りました。

物語の導入は、私立探偵・茶畑徹朗への奇妙な依頼から始まります。正木会長の「前世で自分を殺した犯人を捜してほしい」という言葉は、最初は荒唐無稽で、茶畑と同じく「高額な報酬のために適当に引き受ける」という心境でした。しかし、この「前世」という概念が、物語全体を貫く壮大なテーマの布石となっていることに、読み進めるうちに気づかされます。

茶畑と助手の毬子が、自身も「前世の記憶」を見るようになる展開は、読者の懐疑心を打ち砕く決定打でした。彼らが夢の中で体験する江戸時代の風景や出来事が、あまりにも鮮明に、そして生々しく描かれることで、読者はいつの間にか「もし本当に前世があるとしたら」という思考に引きずり込まれます。特に、「小説内小説」のように挿入される前世の物語は、単なる挿話としてではなく、過去生からの繋がりや因果を深く感じさせる効果を生み出していました。

物語が裏社会の暴力に足を踏み入れる部分は、貴志祐介先生の真骨頂とも言えるでしょう。『悪の教典』を彷彿とさせる凄惨な描写や、サイコパス的な暴力団組長・丹野の存在は、読者に生理的な嫌悪感を抱かせます。しかし、これらの暴力描写は単なるスプラッター要素としてではなく、輪廻転生というテーマと深く結びついていました。肉体の破壊や苦痛が、魂の不滅性や業の連鎖と対比されることで、暴力行為の持つ普遍的な重みが強調されます。この「醜い」という言葉が繰り返し使われる描写は、単なるグロテスクさを超え、行為の倫理的側面を強く訴えかけてきました。読者は、肉体的な苦痛を超えた精神的な恐怖、つまり「孤独」や「不条理」を鮮やかに感じ取ることになります。

そして、物語の核心に迫る「輪廻転生と宇宙的真理」の探求は、圧巻の一言です。特に、「人類はみな『ひとつの意識』で繋がっている」という遍在転生論の提示は、これまでの貴志作品では見られなかった壮大なスケール感でした。一見すると、この概念は「孤独ではない」という結論に繋がりそうですが、本作では逆に「全ての人が孤独である」という逆説的な結論を導き出します。意識が共有されていても、個々の存在は独立した経験と感覚を持ち、他者と完全に一体化することはできないという、より深い「宇宙的孤独」が提示された時、鳥肌が立ちました。

本作のタイトルにもなっているボズ・スキャッグスの名曲「We’re All Alone」の解釈の変容は、この「孤独」の多層性を象徴しています。本来は親密な意味を持つこの曲が、物語の中で「孤独」という言葉の深淵へと誘い、個人的な感情としての孤独から、存在論的な孤独へとテーマが昇華される過程は、まさに貴志祐介先生の天才性を感じさせる部分でした。読者は自身の存在、意識、そして他者との関係性について深く考えさせられます。

主人公・茶畑の個人的な喪失、特に東日本大震災で「最愛の人」を失った過去は、物語に人間的な深みを与えていました。この巨大な悲劇が、輪廻転生や宇宙的孤独といった抽象的なテーマに、具体的な重みと痛みを加えます。亜未の記憶が茶畑を支える「よすが」となる点は、絶望的な状況下での人間の精神的な支え、そして「繋がり」への渇望を象徴していました。個人的な悲劇が宇宙的な真理と結びつくことで、物語は読者自身の人生における意味や目的、そして「孤独」との向き合い方について深く問いかける構造となっているのです。この要素があることで、作品は単なるSFやホラーに留まらない、普遍的な人間ドラマとして成立していました。

結末に対する賛否両論は理解できます。従来のミステリーのような明確な解決を期待する読者にとっては、確かに「消化不良感」や「すっきりしないオチ」と感じられるかもしれません。しかし、貴志祐介先生が語るように、この結末は「どうして自分は、自分なんだろう?」という長年の疑問に決着をつけるために書かれたものであり、読んだ後に「自分が自分であることの苦痛がちょっと和らいで、人に対して優しくなれるかもしれない」という意図があったと聞くと、その深遠な意味合いが理解できました。

明確な答えを与えないことで、読者は物語が終わった後もその問いと向き合い続けざるを得なくなります。これは、作品のテーマが読者の内面で生き続けるための、貴志祐介先生が意図的に読者に与えた「生理的嫌悪感」であり、従来のミステリーの「解決」というカタルシスを否定する戦略だと感じました。

「死よりも恐ろしいものは何ですか」という問いに対し、「孤独よ。もっと本質的、絶対的な、宇宙的と言ってもいい孤独」という答えが提示された時、私はその言葉に深く共感しました。人間は皆、孤独であるからこそ人を信じ、求め、恋をする。裏切られ、絶望することで、改めて孤独を再認識する。それでもなお人を求めてしまう、という人間の本質的な矛盾が、これほどまでに深く掘り下げられている作品は他に類を見ません。犬や猫といったペットの存在が、孤独の隙間を埋める象徴として登場するのも印象的でした。

人生が避けようのない一本道の運命であり、全てが既に経験したことであるかのような「嫌な予感」(デジャヴュ)の正体についても、ある種の答えが提示されます。これは、主人公が抗えない運命に翻弄されるホラーの本質にも通じます。貴志祐介先生が語るホラーの本質「不条理な怖さ」と密接に結びついており、人間が理解できない、抗えない運命や真理に直面した際の無力感と絶望感を、読者自身に体験させることで、物語は単なるフィクションを超えた「怖い作品」としての真価を発揮していると感じました。

まとめ

貴志祐介先生の『我々は、みな孤独である』は、探偵小説という枠を超え、SF、ホラー、そして深遠な哲学を融合させた、まさに貴志祐介先生の作家性の集大成とも言える作品です。7年ぶりの長編として発表された本作は、「鬼才」貴志祐介先生の緻密に練り上げられた展開と、読者を惹きつける筆力が健在であることを示しています。

本作の核となるテーマは「孤独」であり、それは個人的な感情に留まらず、「宇宙的」なスケールで描かれています。人間は皆、孤独であるからこそ人を信じ、求め、恋をする。しかし、裏切られ、絶望することで、改めて孤独を再認識する。それでもなお人を求めてしまう、という人間存在のパラドックスが深く掘り下げられています。

『我々は、みな孤独である』は、貴志祐介先生がこれまで培ってきたホラーやミステリー、SFといった各ジャンルの要素を単に組み合わせただけでなく、それらを「孤独」という普遍的なテーマの下に統合し、新たな文学的領域を開拓しようとする試みだと感じました。従来のホラーが「見慣れないものが迫る恐怖」であるのに対し、本作では「宇宙的孤独」という、より哲学的で根源的な恐怖を追求している点が特異です。

この作品は、単なるエンターテインメントとして消費されるだけでなく、現代社会における人間の疎外感や存在不安を、壮大なスケールで描いた哲学的な寓話としての側面を持っています。読後感の「モヤモヤ」や「難解さ」は、作者が提示する真理が、容易に受け入れられるものではないことを示唆しており、それこそが本作の文学的価値と、読者の心に深く残る理由となっているのだと思います。