小説「少年」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
谷崎潤一郎がその初期に放った、禍々しくも美しいこの物語は、一度読むと忘れがたい強烈な印象を心に刻みつけます。子供たちの無垢な遊びの世界が、いかにして倒錯した官能と支配の関係へと変貌していくのか。その過程を、息苦しいほどの緻密な心理描写で描ききっています。
本作は、単なる子供たちの残酷な物語ではありません。そこには、人間の心の奥底に潜むサディズムやマゾヒズムといった根源的な欲望が、鮮やかに描き出されています。谷崎文学の持つ独特のエッセンスが、この短い物語の中に凝縮されていると言っても過言ではないでしょう。
この記事では、物語の核心に触れながら、その抗いがたい魅力の正体を探っていきます。なぜ私たちは、この背徳的な世界にこれほどまでに惹きつけられてしまうのでしょうか。その答えを、一緒に見つけにいきましょう。
小説「少年」のあらすじ
物語の語り手である「私」、栄ちゃんの少年時代のある追憶から、この物語は始まります。彼が通う学校には、裕福な家の生まれでありながら、内気でひ弱ないじめられっ子の塙信一がいました。その一方で、界隈の子供たちの頂点に君臨するのが、腕っぷしの強い餓鬼大将の仙吉です。
学校という公の場では、仙吉が信一を圧倒するという、誰もが納得する力関係が存在していました。しかしある日、栄ちゃんは信一の家に招かれたことで、信じがたい光景を目にすることになります。そこでは、あの気弱なはずの信一が「暴君」として振る舞い、仙吉を徹底的に虐げていたのです。
信一の隠されたサディスティックな一面に、栄ちゃんは恐怖よりもむしろ、一種の戦慄と興奮を覚えます。やがて彼もまた、信一の仕掛ける倒錯した遊戯の虜となり、自ら進んで服従する喜びを見出していきます。三人の少年たちの間には、秘密の、そして歪んだ主従関係が築かれていきました。
しかし、物語はここで終わりません。信一には光子という美しい姉がおり、彼女の存在が、この危うい均衡を根底から覆すことになるのです。少年たちが足を踏み入れた禁断の西洋館で、彼らを待ち受けていた運命とは一体何だったのでしょうか。
小説「少年」の長文感想(ネタバレあり)
谷崎潤一郎の初期短編「少年」は、子供たちの世界に残酷な力と倒錯した官能性が侵入し、その世界を覆い尽くす様を描いた問題作です。物語は、語り手である「私」、すなわち萩原の栄ちゃんの視点を通じて、少年期のある特異な体験を追想する形で進められます。この物語は、登場人物間の権力関係の劇的な転覆、隠されたサディズムとマゾヒズムの目覚め、そして禁断の空間における儀式的な変容を通じて、谷崎文学の主要なテーマを鮮烈に提示しています。
物語の導入部で、語り手である「私」は、後に彼の姉と結婚することになる塙信一という少年と、その妹の光子との出会いを語り始めます。信一は、裕福な家庭のお坊ちゃんとして描かれ、学校では「女中と一緒に小さくなって運動場の隅の方にいじけて居る」ほど内気で虚弱な存在として認識されていました。
対照的に、界隈の腕白どもを束ねる「餓鬼大将」として君臨するのが仙吉です。学校という公的な空間においては、仙吉がその腕力で頂点に立ち、信一はその最下層に位置づけられるという、一見すると明快な力関係が成立しているように見えます。この日常的な学校の風景は、後に塙家という私的な空間で露呈する驚くべき権力構造の逆転劇への、壮大な序曲に他なりません。
学校という開かれた規範に支配された空間と、塙家という閉鎖的で規範が崩壊していく私的空間との対比は、信一が内に秘めた二面性をあらわにするための舞台装置として見事に機能しています。学校で見せる弱々しい姿は彼の公的な仮面であり、対して塙家で発揮される暴君性は、私的な領域で解き放たれる本性なのです。この二つの空間を往復することによって初めて、信一の隠された心理が読者の前に姿を現します。
語り手である「私」は、当初はこれらの人間関係の観察者として位置づけられているように見えますが、信一の隠された残酷性に触れた際の彼の内的な反応は、単なる傍観者以上の役割を暗示しています。信一が仙吉を虐げる場面を目撃した「私」の心は、「密かに心を轟かせる」のであり、この戦慄にも似た興奮は、彼自身のうちに潜む被虐的な欲望の芽生えを示唆しているのです。
「私」が初めて信一の家、すなわち塙家を訪れる場面は、物語が日常から非日常へと移行する重要な転換点です。その描写は、外部から隔絶された、どこか芝居の舞台のような閉鎖的な空間の印象を与えます。この塙家という私的な領域への移行こそが、物語の倒錯的な力学が展開されるための不可欠な準備段階であり、家屋そのものの描写が、これから明かされるであろう秘密の存在を予感させるのです。
塙家の内部で、「私」は信じられない光景を目撃します。学校ではあれほど意気地なしであった信一が、自宅では「暴君」として君臨し、あの腕白な仙吉や、さらには自身の姉である光子までも支配下に置いていたのです。語り手は、信一が仙吉の「顔や体を踏みにじる姿」を目撃し、その虐待は縄で縛ったり、鼻糞をなすりつけたりという具体的な行為にまで及びます。この倒錯した支配の様相は、語り手の既成概念を打ち砕き、物語にサディズムとマゾヒズムという主題を導入します。
身体的に劣るはずの信一が仙吉を支配できている事実は、単なる腕力ではない、階級差やより根源的な倒錯性に由来する心理的な力の存在をうかがわせます。これらの「残忍な遊び」は、遊戯と虐待、そして芽生え始めた性的感覚の境界を曖昧にするような、力と感覚の探求の様相を呈しているのです。信一の行為の生々しい描写と、恐怖や道徳的嫌悪ではなく興奮を覚える語り手の内的反応は、この関係性が、倒錯した形の親密さと快楽の追求でもあることを示唆しています。
語り手である「私」は、この信一の隠されたサディスティックな側面に嫌悪感を抱くどころか、むしろ強く惹きつけられます。「信一が、仙吉の顔や体を踏みにじる姿を見ながら、密かに心を轟かせる栄」という描写は、彼のマゾヒスティックな嗜好の覚醒を見事に捉えています。この魅惑は、やがて「私」自身の服従へと繋がっていきます。「そして、栄も、信一に全身を舐められ心を征服されるようになります」という記述は、彼がこの倒錯的な関係性に取り込まれる決定的な瞬間を示すものです。
三人の少年たちの間で続けられる「残忍な遊び」は、信一によって確立された、倒錯的ではあるが合意に基づいた新たな秩序の成立を意味します。この過程は、本作が「マゾヒズム」を主題の一つとしていることを明確に示しており、「私」の自発的な服従と「心の征服」は、後の光子に対する彼の反応を理解する上で極めて重要となるのです。
信一の暴虐は、姉の光子にも向けられます。彼は「姉の光子をいじめて遊んでいた」とされ、光子が信一によって作られた痣について不満を漏らすと、信一は「毎日喧嘩して泣かしてやるんだ。姉さんたって彼(あれ)はお妾の子なんだもの」と言い放ちます。このやり取りは、信一の残酷さの背景にある家族内の怨恨や、光子が「妾の子」であるという出自にまつわる複雑な力学をあらわにしています。この時点では、光子は虐待の対象であり、彼女の立場は脆弱なものとして描かれます。
当初は信一の残酷な仕打ちの対象として描かれていた光子ですが、彼女は謎めいた西洋館と結びつけて語られ、そこでピアノを練習している姿が示唆されます。「私」と仙吉は「屋敷内の西洋館で光子がピアノの練習をしているのを耳にします」という記述は、彼女が単なる受動的な存在ではないことを示唆します。ピアノという西洋楽器と西洋館という空間は、光子に、少年たちの粗暴な遊戯の世界とは異なる、洗練された、あるいは異質な雰囲気をまとわせ始めるのです。
この西洋館は、子供たちにとって「禁じられていた」場所として明確に規定されており、その禁止こそが少年たちの好奇心と侵入への欲望を掻き立てます。「私」と仙吉は、この好奇心に駆られ、西洋館への侵入を企てます。彼らはまだ自分たちの優位を信じ、光子を強要して夜の西洋館へと導き入れさせることを約束させますが、この行為こそが、皮肉にも彼らを光子の力が完全に顕現する領域へと導き、結果として彼ら自身が服従する運命を招き寄せるのです。
「水天宮の縁日に行くと偽って家を出て」という口実を設けた「私」は、仙吉と共に、光子の手引きで夜の西洋館へと忍び込みます。そこで彼らが目撃したのは、光子の驚くべき変化でした。「光子は豹変しており、仙吉とともに彼女にひれ伏した」とあるように、その変貌は劇的かつ絶対的です。ほんの数時間前まで彼女をいじめていた少年たちは、今や完全に彼女の前に平伏しているのです。この場面は、物語の中心的な転換点であり、光子の変容は、彼女の象徴的な領域である西洋館の内部で、瞬時にして成就します。
赤を基調とした西洋館は、この変容のための儀式空間として機能し、光子を単なる支配的な遊び相手ではなく、畏怖と恐怖の対象として確立します。今や威厳ある存在となった光子は、命令を下し始めます。彼女は「女王」となり、少年たちはその「家来」や「奴隷」となるのです。具体的な服従の儀式として、光子は少年たちに自分を「女王様」と呼ぶように命じ、彼らの背中を足で踏みつけ、靴を舐めさせ、足の裏を舐めさせます。
これらの屈辱的な行為に対し、「私」は苦痛ではなく、明確なマゾヒスティックな快楽を覚えます。「私は、光子に、背中を踏みつけられると、不思議な喜びを感じた」「私は、光子の足の裏を舐めると、恍惚とした気持ちになった」そしてついには「私は、光子に、もっといじめてほしいと願った」と、彼の心理は克明に描写されていきます。足を踏みつけたり、靴や足の裏を舐めさせたりする行為は、谷崎の作品群にしばしば見られる足へのフェティシズムの強い表れと言えるでしょう。
光子の支配は、「私」と仙吉に限定されるものではありませんでした。決定的なことに、かつての暴君であった兄の信一までもが彼女の軍門に下り、その「奴隷」となるのです。「最終的には信一も光子の奴隷となっていく」という記述は、この完全な権力転倒を示しています。かつて家庭内の暴君であった者が、かつていじめ抜いた妹によって征服される。これは、信一のかつてのサディズムが、光子のより強力で、より魅惑的な支配形態の前に屈したことを意味します。
「妾の子」として、当初はその低い社会的地位ゆえに虐待の対象であった光子が、最終的に正妻の子である信一を打ち負かすという展開は、倒錯した形での社会正義の実現、あるいは確立された家父長的階層構造の転覆として読み解くことができます。周縁化された人物が、自ら創造した領域内で絶対的な権力を掌握するのです。物語は、この新たな倒錯的秩序が確固として確立されたところで幕を閉じます。
物語は、「正常」への回帰ではなく、倒錯の永続的な「王国」の確立で終わります。この事実は、目覚めた欲望が、一過性の子供時代の段階ではなく、登場人物たちの精神の根本的な側面であることを示唆しています。「私」の変化は永続的であり、光子が「長く此の国の女王と」なっていくことが示唆されるように、この倒錯した王国は一過性のものではないのです。この倒錯した力学は、彼らにとって新たな、持続可能な現実となっているのです。
谷崎潤一郎自身が本作を高く評価していたように、マゾヒズム、サディズム、フェティシズム、権力闘争といった主題が、美しい文章で描かれており、これらは谷崎の文学的キャリア全体を特徴づけるテーマを集約しています。光子の人物像は、谷崎の後年のより有名な作品に登場する、恐ろしくも魅力的な女性像の初期の原型と見なすことができるでしょう。
まとめ
谷崎潤一郎の「少年」は、子供たちの無垢な世界が、いかにして残酷で官能的な支配と服従の関係へと変貌するかを描いた、衝撃的な物語です。学校での力関係が、ある屋敷の中では完全に逆転し、やがて禁断の西洋館を舞台に、新たな「女王」が誕生する様は、息を飲むほどの迫力があります。
この物語の魅力は、ただ倒錯的であるというだけではありません。人間の心の奥底に眠る、サディズムやマゾヒズムといった根源的な欲望が、美しく、そしてどこか詩的な文章で描き出されている点にあります。読者は、登場人物たちの背徳的な快楽に、知らず知らずのうちに引き込まれてしまうことでしょう。
特に、虐げられていた少女・光子が「女王」として覚醒し、かつての支配者たちを跪かせる場面の鮮やかさは、本作の白眉と言えます。この物語は、一度読んだら決して忘れられない強烈な体験を、私たちに与えてくれます。
谷崎潤一郎の文学の核心に触れることができる、初期の傑作です。その抗いがたい魅力に、ぜひ酔いしれてみてください。