小説「女生徒」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この作品は、太宰治が描く思春期の少女の心の機微が、驚くほど繊細に、そして鮮やかに表現されていることで知られていますね。読んでいると、まるで自分がその少女になったかのような、不思議な感覚に包まれるかもしれません。

朝起きてから夜眠るまでの、ほんのささやかな一日。でも、その一日の中には、喜び、悲しみ、苛立ち、不安、希望といった、万華鏡のように移り変わる感情が詰まっています。大人になる前の、不安定で、それでいてキラキラとした特別な時間が、見事に切り取られているんです。

この記事では、そんな「女生徒」の世界を深く味わっていただくために、物語の筋道を詳しく追いかけ、さらに私自身の心に響いた部分を、ネタバレも気にせずにたっぷりとお話ししていきたいと思います。読んだことがある方も、これから読もうと思っている方も、ぜひ一緒にこの作品の魅力に触れてみてください。

「人間失格」や「走れメロス」といった有名な作品とはまた違った、太宰治の新たな一面を発見できるかもしれませんよ。それでは、少女の目を通して見た、ある一日の物語へとご案内しましょう。

小説「女生徒」のあらすじ

物語は、14歳の「わたし」が朝、気だるさとともに目覚めるところから始まります。なんだか憂鬱な気分。鏡に映る自分の顔、特に「光のない」と感じる目が好きになれません。飼い犬のジャピイは可愛がるけれど、汚れた足の悪いカアにはつい意地悪をしてしまい、そんな自分に嫌気がさします。それでも、誰にも見えない下着でお洒落をすることに、ささやかな満足感を覚えるのです。

朝食を済ませ、お気に入りの傘を持って学校へ。道中、労働者の一団にからかわれ、泣きそうになるのを堪えて笑顔を作ってしまい、自己嫌悪に陥ります。「強く清くなりたい」と願う心とは裏腹に、現実はままなりません。電車の中では、雑誌の記事に心を揺さぶられます。「若い女の欠点」という見出しが、まるで自分のことを言われているようで、恥ずかしくなります。

雑誌に書かれた価値観に影響され、それを満たすことで満足しているだけの自分が嫌になる。でも、そんな自己批判すら、どこかで読んだ受け売りのような気がして、思考は堂々巡り。世の中の矛盾や嘘にも気づいていて、正直者が馬鹿を見る現実と、学校で教わる建前とのギャップに苦しみます。かと思えば、車内の疲れたサラリーマンを見て、ふと結婚の妄想をしてしまい、そんな自分を情けなく思うのでした。

学校の図工の時間、先生に頼まれてモデルになります。お気に入りの傘を持ってポーズをとるけれど、先生の少し気取った態度がなんだかいやらしく感じられます。そして、自分もまた、無意識にポーズをとって生きているのではないか、と自問します。「自然に、素直にあるがまま生きたい」と願う気持ちが募ります。放課後は友達と美容院へ行くものの、見た目を飾ることに軽薄さを感じ、途中で別れてバスに乗ります。

帰り道、草原に寝転んで美しい夕焼けを眺めていると、亡くなったお父さんのことを思い出します。この美しい景色を、お父さんにも見せてあげたかった、と感傷的な気持ちに。家に帰るとお客さんが来ていました。母がお客さんに対してよそ行きの顔で接しているのを見て、内心で軽蔑してしまいます。夕食の支度をしながら、かつての賑やかだった家のこと、今は亡き父や嫁いだ姉のことを思い出し、感傷にふけります。

夕食後、お客さんとの場にいるのが耐えられなくなり、後片付けを手伝うふりをして台所へ。やがて母がお客さんと連れ立って出かけていき、一人でお風呂に入ります。湯船で自分の体が大人へと変化していくのを感じ、もどかしい気持ちに。風呂上がり、庭で星を眺めていると、また父のことを思い出します。やがて上機嫌で帰ってきた母に、頼まれて肩を揉むことに。母の苦労や愛情を感じ、先ほど母を軽蔑したことを深く反省します。「良い娘」でありたい、と強く思うのでした。洗濯を済ませ、布団に入ると、母が欲しがっていた靴の話を始めます。庭からは犬のカアの足音が聞こえ、「明日は優しくしてあげよう」と思いながら、少女は眠りにつくのでした。

小説「女生徒」の長文感想(ネタバレあり)

太宰治の「女生徒」を読むたびに、私はいつも、まるで自分の心の奥底を覗き込まれているような、少し気恥ずかしい、それでいて妙に懐かしい気持ちになるんです。14歳という、大人と子供の狭間で揺れ動く少女の一日。それは特別な事件が起こるわけではない、ごくありふれた日常のはずなのに、彼女の心の中では、めまぐるしいほどのドラマが繰り広げられています。

朝の気だるさ、鏡の中の自分への不満、飼い犬への矛盾した感情。些細な出来事ひとつひとつに、少女の心は敏感に反応します。誰も気づかない下着のお洒落にひそかな喜びを見出す一方で、労働者の心ない言葉に傷つき、作り笑いをしてしまった自分を激しく責める。このあたりの描写は、思春期特有の自意識の鋭さ、潔癖さ、そして不安定さを見事に捉えていますよね。

電車の中で読む雑誌の記事。「若い女の欠点」という言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。自分の考えや価値観が、実はどこかの受け売りなのではないか、という疑念。自己批判をしても、その批判自体が借り物のように思えてしまう無限ループ。これは、多くの人が一度は経験するであろう、自己形成期の混乱ではないでしょうか。何が本当の自分で、何が他者から植え付けられたものなのか。その境界線が曖昧で、もがき苦しむ姿が痛々しいほど伝わってきます。

学校での出来事も印象的です。図工の先生の、悪気はないけれどどこか芝居がかった言動に対する嫌悪感。そして、そんな先生を嫌悪する自分自身もまた、「ポーズをとって」生きているのではないか、という気づき。「自然に、素直に、あるがまま生きたい」という切実な願いは、周囲の世界や自分自身の中にある「いやらしさ」を敏感に感じ取ってしまうからこそ、より強く生まれてくるのでしょう。

友達と美容院に行く場面も、少女の複雑な心境がよく表れています。流行に乗って見た目を飾ることに内心では軽薄さを感じながらも、完全にそれを拒絶することもできない。友人のはしゃぎぶりに嫌気がさしつつも、孤独になることを恐れているような空気も感じられます。この、周囲に合わせたい気持ちと、そこから距離を置きたい気持ちとの間の揺らぎも、とてもリアルですよね。

そして、私がこの作品で特に心惹かれるのは、夕焼けのシーンです。バス停からの帰り道、草原に寝転んで空を見上げる。その美しさに心を打たれ、亡くなったお父さんを思う。「この夕焼けを、お父さんに見せてあげたかった」。この純粋で切ない思いは、日中の様々な出来事でささくれ立っていた少女の心が、ふっと素直になれた瞬間のように感じられます。美しい自然が、彼女の内面の葛藤を一時的に忘れさせ、優しい気持ちを呼び覚ます。短い場面ですが、非常に印象的です。

家に戻ってからの描写も、実に細やかです。来客に対する母親のよそ行きの態度への軽蔑。これは、子供が親の「社会的な顔」を目の当たりにして抱く、ある種の幻滅かもしれません。しかし、その一方で、夕食の支度をしながら思い出すのは、父や姉がいた頃の温かい家庭の記憶。失われたものへの郷愁と、現在の状況への不満が交錯します。

お客さんとの食事の場面では、自分もまた「良い子」を演じてしまう。子供の頭を撫でたり、愛想よく振る舞ったり。内心では、客人の奥さんの下品さを冷ややかに見ているにもかかわらず。この、自分の中の矛盾に対する気づきと、それに対する嫌悪感が、彼女をさらに苦しめます。「あの場にいるのがいたたまれなくなってきた」という気持ちは、痛いほどよく分かります。

お風呂のシーンでの、自分の体への意識も、思春期の少女ならではでしょう。大人へと変化していく体への戸惑い、もどかしさ。それは、精神的な成長とのアンバランスさとも結びついているのかもしれません。そして、風呂上がりに庭で星を見上げ、再び父を思う。父の不在は、彼女の心に常に影を落としているようです。

物語のクライマックスは、やはり母親との関係性の変化にあると思います。上機嫌で帰宅した母に肩を揉む場面。最初は、映画に行かせてもらうための打算的な気持ちもあったかもしれません。しかし、母の肩に触れ、その苦労や愛情を肌で感じ取るうちに、昼間の母に対する軽蔑の念は、深い反省へと変わっていきます。

父を亡くし、女手一つで自分を育て、世間から馬鹿にされないように必死で頑張っている母の姿。その母に対して、自分は甘えてばかりで、勝手な批判をしていただけではないか。「お母さんもお父さんがいなくなって辛いのに」。この気づきが、少女の心を大きく動かします。母への愛おしさ、感謝、そして自分自身への自省の念が、一気に込み上げてくる。この心の変化が、とても感動的なんです。

そして、その心の変化は、彼女に新たな希望をもたらします。「新しい自分になれるかもしれない」。日中のあれほどの混乱と自己嫌悪を経て、ようやくたどり着いた、澄み切ったような気持ち。このカタルシスは、読んでいるこちらまで、なんだか救われたような気持ちにさせてくれます。

ラストシーンも素晴らしいですね。布団の中で、母がふと欲しがっていた靴の話を切り出す。それは、娘の心の変化を察してのことなのか、あるいは単なる気まぐれなのか。どちらにしても、そこには確かな親子の絆が感じられます。庭で聞こえる犬のカアの足音。「明日は優しくしてあげよう」。朝には「早く死ねばいい」とまで思っていた犬に対して、優しい気持ちが芽生えている。この小さな変化が、少女の内面的な成長を象徴しているようで、温かい余韻を残してくれます。

この「女生徒」という作品は、太宰治が19歳の女性ファンから送られてきた日記をもとに書いたと言われていますね。それにしても、30歳前後の男性作家が、これほどまでに10代の少女の心理をリアルに、そして共感的に描けるものかと、読むたびに驚嘆します。それは単に日記をなぞっただけでなく、太宰自身の内にも、この少女と同じような繊細さ、潔癖さ、そして社会や自己に対する矛盾への葛藤があったからではないか、と思わずにはいられません。

「人間失格」に見られるような自己破滅的な苦悩とは少し違いますが、世の中の欺瞞や自分の中の「いやらしさ」に対する鋭敏な感覚は、通底しているように感じます。ただ、「女生徒」では、その苦悩の先に、母への愛や自己肯定への小さな光が見出されている点が、救いになっているのかもしれません。太宰治の作品の中でも、特に瑞々しく、希望を感じさせる作品だと思います。読む者の心の中にある、忘れかけていた思春期の記憶を呼び覚まし、そっと寄り添ってくれるような、そんな優しい力を持った小説です。

まとめ

太宰治の「女生徒」は、14歳の少女が経験する、朝から晩までの一日を、彼女自身の視点から克明に描いた作品です。特別な出来事が起こるわけではない日常の中で、少女の心は絶えず揺れ動き、喜び、怒り、悲しみ、そして自己嫌悪といった様々な感情が渦巻きます。

思春期特有の自意識の揺らぎ、世の中や大人に対する批判的な視線、そして自分自身の内面にある矛盾との葛藤が、驚くほどリアルに、そして繊細な筆致で描き出されています。読んでいると、まるでその少女の心と一体化したかのような感覚を覚えるかもしれません。

物語の後半、特に母親との関係性の中で見せる心の変化は、深く胸を打ちます。母の苦労や愛情に気づき、それまでの反抗的な気持ちが素直な反省と感謝へと変わっていく過程は、感動的です。そして、その経験を通して、少女が新たな自分へと踏み出す希望を感じさせるラストは、温かい余韻を残します。

「人間失格」などで知られる太宰治のイメージとは少し異なる、瑞々しく、どこか希望の光を感じさせる本作は、多くの読者の心に響くのではないでしょうか。忘れかけていた若い頃の感情を思い出させてくれる、貴重な一作と言えるでしょう。