小説『奔馬』のあらすじをネタバレ込みでご紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
三島由紀夫がその命をもって完結させた大作『豊饒の海』。その第二巻にあたる『奔馬』は、純粋な魂の輝きと、それがゆえに破滅へと突き進む若者の姿を描いた、あまりにも鮮烈な物語です。前巻『春の雪』で儚く散った松枝清顕の生まれ変わりとされる青年、飯沼勲を主人公に据え、彼の熱情がどのような結末を迎えるのか、その一部始終が描かれます。
この物語は、単なるフィクションにとどまりません。作者である三島由紀夫自身の思想、行動、そして最期に深く通底するテーマが随所に散りばめられています。勲が抱く純粋な死への憧れ、社会の腐敗を憂う義憤、そしてそれを打破するための行動への衝動は、三島自身が晩年に至って追求した「行動の美学」と驚くほど重なります。
『奔馬』は、読む者に強烈な問いを投げかけます。純粋さとは何か、理想は現実の中でいかに生きるのか、そして、生と死の意味とは。そうした問いを胸に、この物語が描く世界へ深く踏み込んでいきましょう。
小説『奔馬』のあらすじ
物語は、前巻『春の雪』で夭折した松枝清顕がこの世を去ってから18年後、彼の親友であった本多繁邦が38歳になったところから始まります。本多は有能な裁判官として論理的な人生を送っていましたが、清顕を救えなかった深い悔恨を抱き続けていました。
ある日、本多は剣道の奉納試合で18歳の青年、飯沼勲の竹刀捌きに目を奪われます。勲は清顕の書生であった飯沼の息子で、国粋主義的な思想に傾倒していました。彼の剣道には、まさに三島が求めた「行動の精髄」が宿っているかのようでした。
その後、本多は偶然にも三輪山の神秘的な滝で水垢離をとる勲と再会します。この決定的な場面で、本多は勲の脇腹に清顕と同じ位置に三つの黒子を発見し、「清顕はよみがえった!」と歓喜に震えます。さらに、清顕の夢日記に記されていた「滝の下で会う」という予言的な記述が、この現実の場面と奇妙に符合し、本多の確信を一層深めます。
勲は、当時の腐敗した政財界と疲弊した社会に激しい憤りを感じ、口先だけでなく剣をもって日本を浄化したいという強い志を抱いていました。彼は明治政府の廃刀令に対抗した「神風連」の思想に傾倒し、武士道の精神を説く「葉隠」を愛読していました。志を同じくする仲間たちと「純粋な結社」を結成し、財界の巨頭である蔵原を標的とした同時多発テロ計画を練り上げます。
しかし、計画は勲の父である飯沼の密告によって事前に露見し、勲を含む12名の同志は実行に移る前に逮捕されてしまいます。勲の逮捕を知った本多は、清顕を救えなかった過去を償うかのように、判事の職を辞し弁護士へと転身。勲の減刑に奔走します。
法廷では、勲の幼馴染であり、彼が純粋さの象徴と見ていた槇子が証人として出廷し、愛する勲を救うために堂々と嘘をつきます。この槇子の偽証により、勲の最も大切にしていた「純粋な精神」は泥まみれになり、彼が信じていた世界は根底から壊されてしまいます。獄中で勲は、今まで目を背けていた「死と性」という概念を認識し、「知る」こと、そして「考える」ことを覚えていきます。
裁判で「純粋さ」を失った勲でしたが、釈放後、蔵原が伊勢神宮で玉串を尻に敷くという「涜神」行為を犯したことを知ります。この不敬行為が、勲の内に残る純粋な愛国心と尊皇思想を再燃させ、彼を最終的な行動へと駆り立てる決定的な引き金となります。12月29日、勲は誰にも告げずに短刀を携え伊豆山へ。蔵原の別荘に忍び込み、「伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」と告げて彼を殺害します。蔵原殺害後、追手を逃れた勲は夜の海を前にした断崖へと向かい、自らの手で鮮烈な切腹自決を遂げるのでした。物語は「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」という象徴的な一文で締めくくられます。
小説『奔馬』の長文感想(ネタバレあり)
三島由紀夫の『奔馬』を読み終えたとき、まず心を鷲掴みにされたのは、そのあまりにも生々しい「死」の描写でした。特にラストシーンの飯沼勲の切腹は、美しさすら感じさせる筆致で描かれており、読者の脳裏に深く焼きつくことでしょう。この作品は、単なるフィクションとして読むにはあまりにも重厚で、作者三島由紀夫の人生そのものと不可分であるように感じられます。
『豊饒の海』四部作の第二巻に位置する『奔馬』は、前巻『春の雪』の「雅」の世界とは一線を画し、「武」の世界を描いています。松枝清顕の再来として登場する飯沼勲は、純粋な思想と行動、そして「純粋な死」への強烈な憧れを抱く青年です。彼の姿は、三島自身が晩年に行った「行動」への傾倒、そしてその後の「三島事件」と驚くほど重なります。この作品が三島自身の「死の覚悟」を文学的に昇華しようとした試みであったと考えると、読者はただならぬ緊張感をもってページをめくることになります。
本多繁邦が清顕の生まれ変わりとして勲を「認識」することから物語は始まりますが、この「認識」は単なる知的な理解を超え、本多自身の人生に新たな情熱を吹き込む契機となります。清顕を救えなかった悔恨を抱える本多が、今度こそ勲を救おうと判事の職を辞し弁護士となる姿は、彼の内なる情熱が再燃する瞬間でもあります。しかし、本多の論理的で現実的な世界観では、勲の絶対的な「純粋」や「死への憧れ」を完全に理解し、救うことは不可能であったという限界が示唆されます。本多の「救済」の試みが、勲の精神的な破滅を止めることができなかったという皮肉な結末は、人間の限界、そして他者の内面や運命の奔流を完全に制御することはできないという、深い洞察を私たちに与えます。
飯沼勲という人物は、『奔馬』の核をなす存在です。彼の「純粋」への絶対的な執着は、腐敗した社会への激しい憤りへと繋がり、テロリズムという行動へと彼を駆り立てます。彼は、自らを世の規矩を外れた「異常な純粋」を持つ者と見なし、そのためにこそ法律があるという独自の認識を持っています。神風連の思想に傾倒し、「葉隠」の死生観を胸に抱く勲は、単なる政治的テロリストではなく、「死」そのものに美を見出し、それを自己実現の究極の形と捉えています。彼の行動は、生への執着よりも、むしろ「純粋な死」への憧れによって突き動かされているのです。
特に印象深いのは、勲の「純粋」が現実によって汚されていく過程です。彼の暗殺計画が父の密告によって露見し、愛する槇子による偽証によって法廷で「純粋さ」を失っていく場面は、胸が締め付けられるほど苦しいものでした。勲が信じていた世界が根底から壊され、「僕は幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によって罰せられたわけですね。……どうか幻でないものがほしいと思います」と吐露する姿は、理想主義者が現実の複雑さに直面した際の、避けがたい絶望を示しています。この「純粋」の崩壊は、三島が描く「純粋」がいかに現実世界では維持しがたいものであるかという、悲劇的な認識を浮き彫りにします。
しかし、勲の物語はそこで終わりません。一度は「純粋」を失ったかに見えた彼が、蔵原の伊勢神宮での「涜神」行為を知ることで、再び行動への動機を見出すのです。これは個人的な復讐ではなく、神聖なものへの冒涜に対する「神罰」の執行という、より高次の「正義」として位置づけられます。彼の自決は、現実世界で汚された「純粋」を、死という究極の行為によって完結させ、絶対的なものとして確立しようとする試みです。三島が「行動は一瞬に火花のように炸裂しながら、長い時間を要約するふしぎな力を持っている」と述べた「至純の行動」の体現が、ここにあります。勲の死は、単なる破滅ではなく、彼の理想主義が現実世界で挫折した後に、別の次元で「純粋」を達成しようとする悲壮な試みとして描かれているのです。
『奔馬』というタイトルもまた、この作品の多層的な意味を読み解く上で非常に重要です。「勢いよく走る馬」のイメージは、勲の短い人生と死への猛進を象徴していますが、「奔」の字が持つ「思慮の足りなさ」や「逃げ出す」といったネガティブなニュアンスも含まれるという指摘は、勲の行動の危うさを示唆しています。また、「奔馬性結核」という急激に進行する死の病を連想させることで、勲の死が避けられない運命であったことを暗喩しているかのようです。このタイトルは、勲の行動の純粋さと同時に、その思慮の浅さ、そして避けられない死への疾走という、複雑な意味合いを内包していると言えるでしょう。
作品全体に散りばめられた象徴も、この物語の深みを増しています。「赤心」「赤い雷管」「紅い桜落葉」といった「赤」は血、自決、情熱を象徴し、「白」は死装束や純粋さを連想させます。これらの色は、勲の血まみれの死と、その死が持つ純粋な美学を視覚的に強調しています。そして、勲の自決の瞬間に「日輪は瞼の裏に赫奕と昇った」という一文は、彼の死が内面的な成就であり、究極の美と光の体験であったことを象徴しています。これは、三島が『太陽と鉄』で語ったような、肉体と精神の統合、そして死によって得られる「絶対の青空」のような明晰さとも通じるものです。
勲の「純粋」への執着は、彼を社会の腐敗と対峙させる原動力となる一方で、現実との妥協を許さないため、彼を孤立させ、最終的に自己破壊へと導きます。彼の理想は誰にも真に理解されず、彼の行動は「大人たちに護られて」「ぬるーく落着」させられ、純粋な思いを踏みにじられてしまいます。この孤独は、三島自身が「彼を真の意味で理解してくれた者は物語でいない。孤独過ぎる」と評されたこととも重なります。純粋であることの代償としての孤独、そしてその孤独が最終的な自死へと繋がるという悲劇的な構図が、この作品には描かれています。
『奔馬』は、三島が自身の「行動」への憧れと、その失墜をたどる物語であり、彼の晩年の思想と行動の核心をなす作品であると言えるでしょう。作品の完成と作者の自決が同時に訪れたという事実は、文学と人生の究極的な合一を示し、半世紀を経た今なお、世界中でその意味が問われ続けています。『奔馬』は、三島が日本社会に投げかけた「警鐘」であり、彼の文学的遺言の一つとして、その衝撃と問いかけは時代を超えて響き続けています。
まとめ
三島由紀夫の『奔馬』は、『豊饒の海』四部作の中でも特に「武」の精神が色濃く描かれた、強烈な作品です。純粋な魂を持つ青年、飯沼勲が、腐敗した社会への義憤から行動を起こし、その理想ゆえに破滅へと突き進む姿が鮮烈に描かれています。彼の「純粋な死」への憧れは、作者三島由紀夫自身の思想や最期と深く結びつき、作品に計り知れない深みと重みを与えています。
物語は、本多繁邦が清顕の生まれ変わりとして勲を「認識」することから始まり、本多の「救済」の試みと、勲の「純粋」が現実によって汚されていく過程が描かれます。父の密告や愛する者の偽証によって理想が打ち砕かれた勲が、それでもなお「純粋な死」へと向かう姿は、読者に強い衝撃を与えます。
『奔馬』は、理想主義者が現実社会で直面する孤独や葛藤、そして「純粋」であることの代償を深く掘り下げています。勲の行動が時に「思慮の浅さ」と評されながらも、「至純の行動」として読者の心に残るのは、彼が命をかけて理想を追求した証でしょう。
この作品は、単なる物語を超え、三島由紀夫という作家の文学的探求と人生の集大成として存在しています。彼の「死の美学」や「行動の哲学」が凝縮されており、読者に「生と死の価値」や「理想と現実」といった根源的な問いを投げかけ続けています。