小説「大暗室」の物語の筋道を、結末まで含めて紹介します。長文の所感も書いていますのでどうぞ。江戸川乱歩の作品の中でも、独特の雰囲気を持つ長編で、一度読み始めるとその世界観に引き込まれてしまいますよ。
本作は、探偵役として有名な明智小五郎が登場しない物語の一つです。その代わりに、善と悪、二人の宿命的な兄弟が壮大なスケールで対決する冒険活劇が繰り広げられます。海難事故から始まる陰謀、恐ろしい復讐、そして東京の地下深くに築かれた秘密基地「大暗室」…。息もつかせぬ展開が待っています。
この記事では、まず物語の顛末を詳しくお伝えします。どのような事件が起こり、登場人物たちがどうなっていくのか、結末まで触れていきます。まだ読んでいない方にとっては、物語の核心に触れる内容となりますので、その点をご留意くださいね。
そして後半では、この物語を読んで私が感じたこと、考えたことを詳しく述べていきます。作品の魅力や、少し気になった点などを、ネタバレを気にせず自由に書いてみました。乱歩作品がお好きな方、あるいはこれから読んでみようと考えている方の参考になれば嬉しいです。
小説「大暗室」のあらすじ
物語は、客船「宮古丸」の沈没事故から始まります。救命ボートには、有明友定男爵、その友人である大曾根五郎、そして男爵の召使い久留須左門の三人が乗り合わせていました。死を覚悟した有明男爵は、妻・京子への遺言を大曾根に託します。それは、自分が死んだら京子と大曾根が結婚するようにというものでした。しかし、大曾根は男爵の財産を狙う悪人。陸地が近づくと、彼は本性を現し、久留須と有明男爵を殺害してしまいます。
五年後、大曾根は計画通り京子と結婚し、男爵の財産を手に入れています。京子との間には竜次という息子も生まれましたが、先夫・友定との子である友之助もいました。ある日、大曾根は友之助を庭の池に突き落としますが、その現場を、死んだはずの久留須に目撃されます。海賊船に救われて生き延びていた久留須は、友之助を救出し、大曾根の悪事を京子に暴露します。逆上した大曾根は屋敷に火を放ち、京子は死亡。久留須は大火傷を負いながらも友之助と共に脱出し、復讐を誓うのでした。
二十年の歳月が流れます。成長した友之助は有村清と名乗り、一方、大曾根の息子・竜次は大野木隆一と名乗っていました。二人は互いの素性を知らぬまま飛行機競技会で出会い、墜落事故を経て、奇しくも互いの宿命を語り合います。竜次は悪の限りを尽くすことを、友之助は悪を滅ぼすことを誓い、二人は宿命の対決を予感させながら別れます。
その後、竜次は「殺人事務所」を開設し、辻堂作右衛門という老人を利用して、星野清五郎とその娘・真弓が持つという財宝の在処を示す暗号文書を狙います。変装した竜次は辻堂老人になりすましますが、真弓は違和感を覚え、偶然知り合った友之助(有村)に相談します。友之助もまた星野に変装し、竜次と対決。一度は竜次を追い詰めますが、竜次は逃亡し、本物の星野親子と辻堂老人を誘拐してしまいます。
誘拐された真弓は、竜次の秘密基地「大暗室」に監禁されます。そこは地下深くに築かれた奇怪な空間で、竜次は真弓に様々な拷問まがいの仕掛けで苦しめようとします。一方、友之助は久留須の助けを得て、竜次の正体とその陰謀を知ります。竜次は「渦巻き魔」として東京で次々と奇怪な事件を起こし、歌劇女優・花菱ラン子の誘拐を企てます。友之助と久留須は、竜次の変装やトリックを見破りながら、ラン子救出作戦を展開します。
友之助は竜次のアジトである倉庫を突き止めますが、竜次は再び逃走。そして、新聞記者たちを「大暗室」へ招き入れ、その恐るべき全貌と、東京各所に仕掛けた爆薬による破壊計画を明かします。久留須と警察は、「大暗室」への出入り口を発見。友之助は人魚に扮して潜入し、捕らわれていた真弓と再会。竜次がラン子を誘拐して戻ってきたところを、警官隊と共に待ち伏せ、ついに追い詰めます。追い詰められた竜次は、自らを盲信する6人の女性を道連れにし、崖の上で自害して果てるのでした。
小説「大暗室」の長文感想(ネタバレあり)
江戸川乱歩の『大暗室』、このタイトルからして、もう何やら禍々しい、それでいて覗いてみたくなるような魅力を感じませんか。「暗室」に「大」を付ける。ただそれだけで、こんなにも想像力をかき立てられるのですから、言葉の選び方一つで読者を引き込む乱歩の手腕には、いつも感嘆させられます。写真の現像室とは全く違う、もっと深く、もっと暗い何かを予感させますよね。
この作品は、乱歩の長編の中でも「通俗長編」と呼ばれるジャンルに入るかと思います。初期の作品に見られたような、緻密な謎解きや犯人当ての要素は薄れ、善玉と悪玉がはっきりと分かれた冒険活劇、あるいは乱歩自身が好んだ「決闘小説」としての色合いが非常に濃い作品です。言うなれば、乱歩が自身の持つ怪奇趣味や冒険譚への情熱を、よりストレートに表現し始めた、ある種の転換点にある作品と言えるかもしれません。
物語の始まりからして、もう劇的です。海に漂うボートの上での裏切りと殺人。悪役である大曾根五郎の非道さが、これでもかと描かれます。そして、生き延びた召使い・久留須左門が、骸骨のような恐ろしい姿となって現れ、復讐を誓う。この導入部だけで、もうワクワクしてきませんか。善と悪の対立構造が、非常に分かりやすく提示されます。
そして、その対立は息子たちの世代へと引き継がれます。有明男爵の息子・友之助(有村清)と、大曾根五郎の息子・竜次(大野木隆一)。二人は父親違いの兄弟でありながら、それぞれ善と悪の宿命を背負って対決することになります。飛行機事故の後に、互いの正体を知らぬまま、それぞれの生きる道を語り合う場面は印象的です。竜次は悪の道を突き進むと宣言し、友之助はそれを阻止すると誓う。まるで騎士道物語のようでありながら、どこか現実離れした、大仰な雰囲気が漂います。
ただ、この二人の対決には、少し引っかかる点もあります。彼ら自身には直接的な恨みはないはずなのです。母親を殺したのは竜次の父親ですが、それは友之助にとっても同じこと。元凶である大曾根五郎はすでに物語から退場しています。だから、二人の戦いは、どこか育ての親である久留須と、父親である五郎の代理戦争のような、あるいは教え込まれた信念に基づくゲームのような印象も受けるのですね。だからでしょうか、対決シーンも、どこか真剣味に欠けるというか、不思議なやり取りが多いように感じます。「兄さん」「弟よ」と呼び合う場面などは、血を分けた兄弟ならではの葛藤というよりは、少しおかしみすら感じてしまいます。
物語は三部構成になっていますが、第一部「陥穽と振り子の巻」では、竜次が財宝を狙って暗躍します。変装、暗号解読、そして財宝の隠し場所へ…。乱歩作品らしいガジェットが満載で、読者を楽しませてくれます。竜次が辻堂老人になりすまし、友之助が星野氏になりすますという、変装合戦のような展開も、いかにも乱歩らしいですよね。しかし、悪の化身を名乗る割には、竜次の行動や捨て台詞が少し小物っぽく感じられる場面もあります。友之助の方も、意外と簡単に竜次に騙されたりして、善悪対決の壮大さに比べて、少しこぢんまりとした印象を受けるかもしれません。でも、この独特の調子が、乱歩作品の味なのかもしれませんね。
第二部「うずまきとどくろの巻」では、舞台は少女歌劇の世界へ。花菱ラン子という、いかにもな名前の歌劇スターを巡って、再び友之助と竜次が激突します。ここでの見どころは、やはり久留須の存在感でしょう。骸骨のような仮面の下で高笑いする姿は、もはや善玉の協力者というより、彼自身が悪の化身のようですらあります。「黒マントの化鳥の羽根をひろげ、羽ばたきをうって、気違いのように、いつまでもいつまでも笑いつづけた」なんて描写は、強烈な印象を残します。友之助よりも、むしろ彼の方が物語を動かしているようにさえ見えます。
そして友之助も、竜次の裏をかいて敵を追い詰めますが、またしても取り逃がしてしまいます。隅田川の地下水道での対決シーンでは、水に浮きながら二人がまたもや語り合う。この奇妙な兄弟喧嘩は、一体なんなのでしょうか。読者はハラハラしながらも、どこかその滑稽さにクスリとしてしまうのかもしれません。このあたりの、シリアスなようでいて、どこか抜けた感じが、乱歩作品の独特な空気感を作り出しているのでしょう。
いよいよ第三部「大暗室の巻」。タイトルにもなっている、竜次の秘密基地が登場します。新聞記者たちを誘拐し、地下に築き上げた奇怪な王国を見せつける場面は、乱歩の「パノラマ島奇談」を彷彿とさせますね。美女たちが天女や人魚に扮し、奇怪な生物(?)が闊歩する地底世界。その発想自体は非常に面白いのですが、正直なところ、「パノラマ島」ほどのスケール感や狂気は感じられなかったかもしれません。地下という閉鎖空間だからか、あるいは描写の密度のためか、思ったよりもこぢんまりとした印象を受けてしまいました。
竜次が企てる、東京各所に仕掛けた爆薬による帝都破壊計画も、アイデアとしては面白いのですが、その計画の全貌や実行方法の描写は、現代の視点から見ると、少し物足りなさを感じるかもしれません。もちろん、書かれた時代の技術水準や社会状況を考えれば仕方のないことですが、もう少し緻密な描写や、圧倒的なスケール感があれば、よりスリリングな展開になったのではないかと惜しまれます。乱歩個人の空想の域を出て、一大スペクタクルとして昇華するには、もう少し何かが足りなかったのかもしれません。
この物語の悪役である大曾根竜次が、結局のところ、壮大な悪のカリスマというよりは、どこか小悪党的な印象を拭いきれないのも、この「大暗室」というテーマを最大限に活かしきれなかった一因かもしれません。彼の動機や思想には、深みが感じられず、ただ歪んだ欲望や自己顕示欲を満たそうとしているように見えてしまいます。もう少し竜次のキャラクターに厚みがあれば、物語全体も、より重層的なものになったのではないでしょうか。
それでも、この作品のラストシーンは、非常に強烈な印象を残します。追い詰められた竜次が、自分を信奉する女性たちを道連れにし、崖の上で血まみれになって踊り狂い、自刃する。その描写は、まさに乱歩ならではのグロテスクで耽美的な世界です。「そのなんとも形容のできないぶきみな表情が、みるみる大きく大きく広がっていって、やがて、人々の全視野をおおいつくしてしまったのである。」という最後の文章。これは一体何を意味するのでしょうか。現実の描写なのか、それとも友之助の、あるいは読者の幻覚なのか。全てが夢だったとでも言うのでしょうか。この唐突な、読者に解釈を委ねるような終わり方は、当時の読者を戸惑わせたのではないでしょうか。
改めて考えてみると、この物語の真の主役は、友之助ではなく、むしろ骸骨面の久留須だったのかもしれません。彼の執念深い復讐心が、友之助を動かし、物語全体を牽引していたようにも思えます。友之助は、あくまで久留須の復讐の道具、あるいは善の象徴として配置された存在だったのかもしれません。そう考えると、この物語は、単純な善悪対決の冒険活劇というよりも、一人の男の壮絶な復讐譚としての側面も持っていると言えるでしょう。
明智小五郎が登場しない乱歩長編としては、異色作と言えるかもしれません。その荒唐無稽さ、ご都合主義的な展開、キャラクター造形のアンバランスさなど、現代的なミステリやエンターテイメントの基準から見れば、突っ込みどころも多いでしょう。映像化されにくいのも、そのあたりが理由かもしれません。しかし、そうした欠点を補って余りある、独特の怪しい魅力、ページをめくる手を止めさせない勢い、そして随所にちりばめられた乱歩ならではの異様なイメージ。それらが渾然一体となって、『大暗室』という作品を忘れがたいものにしているのだと感じます。
まとめ
江戸川乱歩の『大暗室』は、探偵・明智小五郎が登場しない、壮大なスケールの冒険活劇です。海難事故を発端とする陰謀と裏切り、二世代にわたる復讐劇、そして善悪の宿命を背負った兄弟の対決が、息もつかせぬ勢いで描かれます。
物語の核心には、東京の地下深くに築かれた秘密基地「大暗室」が存在します。悪役・大曾根竜次が作り上げたこの奇怪な空間は、乱歩ならではのグロテスクで耽美的な想像力の産物と言えるでしょう。変装、暗号、秘密兵器、美女の誘拐といった、乱歩作品でおなじみの要素もふんだんに盛り込まれています。
一方で、物語の展開には荒唐無稽な部分や、キャラクターの動機付けにやや弱い部分も見受けられます。特に、主人公であるはずの友之助よりも、復讐に燃える骸骨面の久留須や、悪役である竜次の方が印象に残るかもしれません。しかし、そうした点を差し引いても、読者を引きつけてやまない独特の魅力とエネルギーに満ちた作品です。
善と悪、光と闇、現実と幻想が入り混じる、乱歩の描く暗黒の世界。その一端に触れることができる『大暗室』は、乱歩ファンはもちろん、奇妙で怪しい物語が好きな方にも、ぜひ一度読んでいただきたい一作です。きっと、その不可思議な魅力の虜になることでしょう。