小説『命売ります』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
三島由紀夫の異色作『命売ります』は、1968年に連載が開始され、同年単行本として発表されました。この発表時期は、作者である三島由紀夫が自決するわずか2年前という、彼の生涯において極めて重要な時期にあたるため、本作には彼の死生観が色濃く反映されていると多くの読者によって指摘されています。この時間的な近接性は、物語の根底に流れる生と死の葛藤に、作者自身の内面的な探求が深く投影されている可能性を示唆しているのです。
本作は、三島作品の中では異色とも評されるハードボイルドなエンターテイメントの要素を強く持ちながらも、その根底には深遠な哲学的テーマが内包されています。一般的に純文学や思想性の強い作品で知られる三島由紀夫が、このような大衆的な要素を強く持つ作品を発表したことは、単なる作風の転換以上の意味合いを持ちます。これは、三島が自身の哲学や死生観といった重厚なテーマを、より広範な読者層に、あるいは異なる角度から提示しようとした試みと解釈できるでしょう。彼が自身の思想を、よりアクセスしやすい物語形式で表現する道を探ったとも考えられるのです。物語はスリルとサスペンスに満ちた展開を見せつつも、人間存在の本質に軽やかに迫るという、三島文学の多様性を示す一作と言えます。
特に、本作が三島自身の自決のわずか2年前に執筆・発表されたという事実は、主人公・山田羽仁男が「死にたい」という願望から「生への執着」へと変化する心理過程に、三島自身の内面における生と死の葛藤が深く投影されている可能性を強く示唆します。三島が第二次世界大戦で生き残ったことへの「恥」や「申し訳なさ」を感じていたという指摘は、羽仁男が「決死から生き延び(てしまい)途方に暮れる」境遇と重なり、作品に作者自身の深い苦悩が込められていることを示唆するでしょう。この作品は、単なるフィクションとしてだけでなく、作者自身の極めて個人的な、そして最終的に現実となる運命と深く結びついている可能性を読者に提示します。羽仁男の心理変化は、三島自身の死生観の複雑さ、特に「生命として寿命を全うしたい本能と、いっそ華々しく意味があり価値ある死を遂げたいデストルドーが拮抗する『矛盾』」を垣間見せる鏡として機能しているのです。
小説『命売ります』のあらすじ
物語の主人公は、大手広告会社でコピーライターとして働く27歳の山田羽仁男です。彼は社会的に成功し、仕事も生活も順風満帆なエリートであったにもかかわらず、ある日突然、生きることの意味を根底から見失うという、極めて個人的かつ衝撃的な体験をします。
その決定的なきっかけは、行きつけのスナックで新聞を読んでいた際、目の前の活字が突然ゴキブリに見え、たちまち逃げ去ってしまったように感じられたことです。この現象は、世界を構成するはずのきちんとして見えるものが、実は無意味な部分の集成によって全体が成り立っているという、いわゆる「ゲシュタルト崩壊」に似た感覚を羽仁男に与え、彼は突然「むしょうに死にたくなってしまった」のです。この描写は、単なる幻覚や精神的な不調に留まりません。これは、当時の現代社会における「人生の無意味」「情熱の消滅」「喜びも楽しみも、チューインガムのように噛んでいるうちに、忽ち味がなくなって、おしまいには路ばたにぺッと吐き捨てられるほかはないたよりなさ」といった都会の空虚さや、消費社会の病理を象徴しているのです。表面的な意味や秩序が崩壊し、その根底にある無意味さが露呈するこの現象は、個人の内面的な崩壊が、社会全体の構造的な問題と深く結びついていることを示唆しています。羽仁男の個人的な体験は、高度経済成長期の日本社会、特に大都会東京における人々の内面的なフラストレーションや虚無感を鋭く捉えていた三島の視点を示すものでしょう。
この唐突な死への衝動に駆られた羽仁男は、睡眠薬を大量服用し自殺を図ります。彼は駅の水飲み場で薬を服用した後、終電車に乗るのですが、あろうことか誰かに助けられ、自殺は失敗に終わってしまうのです。この自殺未遂の「失敗」は、羽仁男にとって死への執着を失わせると同時に、皮肉にも「自由な世界が開いた」と感じさせます。彼は「死ぬことに失敗した」ため、自ら死を繰り返すことが億劫になり、他者に殺されることを望むという、受動的な死の願望へと移行するのです。この「失敗」は、物語の出発点であり、羽仁男が自らの意志で死ぬことを放棄し、受動的に死を求めるという、特異な「商売」へと彼を駆り立てる原動力となります。これは、死への能動的な行動が不発に終わったことで、かえって「死への無関心」という新たな心理状態が生まれ、それが奇妙な冒険の引き金となるという、物語の根幹をなす因果関係を確立しているでしょう。
自殺に失敗し、もはや自分の命を必要と思わなくなった羽仁男は、勤めていた広告会社を辞め、新聞の求職欄に「命売ります。お好きな目的にお使い下さい。二十七歳男子。秘密は一切守り、決して迷惑はおかけしません。」という突飛な広告を掲載します。彼のこの行動の意図は、自ら死ぬことの億劫さから、誰かにあまり深い意味もなく、あっさり殺されたいという受動的な死の願望であったのです。彼は命を売ることで、金を得て死ぬことを目論んでいたでしょう。
広告を出すと、早速「訳ありげな怪しい人物」たちが羽仁男の元を訪れるようになります。最初の客は金持ちの老人で、ヤクザの愛人になって出て行った若く美しい妻・岸るり子への復讐を望んでいました。依頼内容は、羽仁男がその妻るり子の愛人となり、ヤクザにその浮気現場を見つかって、妻と共に殺されることでした。羽仁男は指示通りに行動し、死を期待するのですが、ヤクザは二人の情交をスケッチしただけで、羽仁男はなぜか無事に帰還してしまうのです。その後日、るり子は水死体で発見されるという皮肉な結末を迎えます。羽仁男が死を望む状況に身を置くにもかかわらず、毎回「運良く死なずに生き延びてしまう」というパターンが、この最初の依頼から確立されるのです。
様々な依頼をこなすうちに、羽仁男は同居人である倉本玲子との生活を始めます。この生活の中で、彼は「新婚生活のような幸せまで手に入れてしまう」のです。この平穏で幸福な生活は、羽仁男の心境に大きな変化をもたらします。彼は「普通の生活」に嫌気がさして生を捨てたはずであったのですが、玲子との生活を通じて「生活に喜びを感じ始めた」とき、今度は「死から逃げたくなった」と感じるようになるのです。羽仁男の周りには、謎の外国人や秘密組織の影がちらつき始めます。彼は、これまで全く別々の案件だと思っていた依頼人たちが、やがて一つの線で繋がっていくことに気づき、自分が「遠くから監視されている、時期が来たら消されるだろう」と忠告を受けるのです。命が狙われていることに気づいた羽仁男は、それまでの死への無関心とは打って変わり、死からの逃走生活を始めることになります。彼は東京から逃げ出すのが一番だと考え、その動機は「死の恐怖」そのものであったのです。
小説『命売ります』の長文感想(ネタバレあり)
三島由紀夫の『命売ります』を読み終えて、まず感じたのは、人間の本質とはかくも複雑で、皮肉に満ちたものであるか、という驚きでした。主人公の山田羽仁男が、生きる意味を見失い、自ら死を望むところから物語が始まるのですが、その死を求める行為が、結果として彼を生へと強く引き戻していくという、この逆説的な展開に心を掴まれました。まるで、人生というものは、望まぬ形で、あるいは意識せぬうちに、私たちをある方向へと導いていくものなのだ、と語りかけられているようでした。
物語の冒頭、羽仁男が活字をゴキブリに見るという描写は、彼の内面的な崩壊、すなわち「ゲシュタルト崩壊」を鮮やかに示しています。この瞬間、彼にとって世界は意味を失い、すべてが無意味なものの集成となってしまうのです。この感覚は、現代社会を生きる私たちにとっても、どこか共感を覚える部分があるのではないでしょうか。高度に情報化され、消費社会の中で、私たちは時に、自分が何のために生きているのか、という問いに直面することがあります。羽仁男の抱いた虚無感は、当時の日本の社会状況、特に大都市の空虚さを鋭く捉えていた三島の視点を示すもので、単なる個人の精神的な不調に留まらない、普遍的なテーマを内包していると感じました。
そして、その虚無感から、彼は自殺を試みます。しかし、それも失敗に終わる。この「失敗」が、物語の大きな転換点となるわけですが、この皮肉な展開こそが、この作品の真骨頂だと感じました。自らの手で死ぬことすら億劫になった羽仁男が、「命売ります」という突飛な広告を出す。この行為は、彼の「死への無関心」を象徴していると同時に、現代社会におけるあらゆるものの「商品化」への痛烈な風刺でもあります。彼の職業がコピーライターであることも、広告の空虚さと、命を売るという行為の間に、さらに深い皮肉な関連性を持たせているのです。命という最も根源的なものが売買の対象となることで、人間存在の価値や意味が相対化され、消費社会の極端な姿が浮き彫りにされる様は、まさに三島が現代社会に対して投げかけた警鐘であったように思えてなりません。
「命売ります」の広告に現れる依頼人たちの個性もまた、この作品の魅力の一つです。最初の依頼、金持ちの老人から依頼された岸るり子との関係。ヤクザに殺されることを期待する羽仁男が、結局スケッチされただけで助かるという展開は、彼の「死にたい」という願望と、彼を取り巻く世界の「死を拒絶する」かのような出来事との間の、奇妙なコントラストを生み出します。この「運良く死なずに生き延びてしまう」パターンは、物語を通じて繰り返され、羽仁男の「生きるための器量の良さ」や「運の良さ」が、彼の死の願望を阻害する要因として機能していることを示唆しています。人間の本能的な生存欲求が、意識的な死の願望を凌駕するというテーマは、深く考えさせられるものでした。
2番目の依頼、井上薫の母親である吸血鬼の女とのエピソードは、特に印象的でした。血を吸われ、痩せ衰えていく中で、「これでやっと死ねる」と思う羽仁男の心理は、まさしく虚無の極致です。しかし、ここでも彼は死を免れ、母親が自殺してしまうという結末を迎えます。このエピソードは、羽仁男の死への無関心が、いかに徹底したものであるかを示すと同時に、彼が自ら死を招くことはできないという、運命的な皮肉を強調しています。まるで、彼自身が死を望むほどに、生が彼を掴んで離さないかのようでした。
そして、彼の人生に変化をもたらす倉本玲子との出会い。様々な依頼をこなしながら、彼が同居を始めるこの女性との生活は、彼にとって「新婚生活のような幸せ」をもたらします。皮肉なことに、この「普通の生活」への嫌悪から死を望んだはずの羽仁男が、玲子との生活を通じて「生活に喜びを感じ始めた」とき、今度は「死から逃げたくなった」と感じるようになるのです。幸福や生への執着が、同時に死への恐怖を呼び起こすという二律背反は、人間の存在論的な矛盾を深く掘り下げています。彼が「生きることがすなわち不安だという感覚を、ずいぶん久しい間、彼は忘れていたような気がする」と自覚するに至る過程は、非常に人間臭く、読む者の胸に迫るものがありました。これは、人間が「何も感じない」虚無の状態から解放され、「不安を感じる」ことで初めて「生きている」ことを実感するという、三島が提示する「生」の本質を浮き彫りにしています。死への無関心から「死への恐怖」へと心理が変化し、その恐怖が「生きている」ことの証であると認識するのです。この変化は、彼が当初抱いていた「人生の無意味」という虚無の状態から脱却し、実存主義的な思想に通じる、自らの「本質」を生きる意味として探求し始める過程と解釈できます。
さらに、彼の周りにちらつく謎の外国人や秘密組織の影は、物語にサスペンスを加え、彼の個人的な死の願望や生への回帰というテーマを超え、個人が社会や巨大な組織の思惑に巻き込まれていく構図を提示しています。三島は「社会は人を無にしていく」とも表現しており、羽仁男が社会から外れることを望んだにもかかわらず、最終的に「社会から外れた人間に巻き込まれ、悔いていく」姿は、社会の持つ抑圧性や、個人を無力化する作用を示唆しているように思えます。この要素は、作品が単なる個人の内面描写に留まらず、社会批評としての側面も持つことを示しているのです。
クライマックスでは、これまでの依頼人たちが揃って羽仁男を誘拐し、彼を本当の死の危機に直面させます。彼らは、羽仁男が「命売ります」の広告で自分たちをおびき寄せたおとり捜査官だと勘違いしていたという展開は、まさに物語の集大成です。羽仁男は間一髪のところで、事前に仕込んでおいた偽小型爆弾で彼らを脅し、なんとか逃走に成功します。この場面は、彼の機転と生き抜くための器量の良さが極限まで発揮された瞬間です。彼の生への本能的な適応能力が極限まで発揮された瞬間であり、彼の「死にたい」という意識的な願望とは裏腹に、彼の無意識の生存本能が常に彼を「生」へと引き戻してきたという、物語の根幹をなす因果関係がここで決定的に示されるのです。
秘密組織からの逃走後、羽仁男は警察に匿ってもらおうと必死で訴えます。しかし、警察は彼の話を聞き入れてくれず、彼は警察署を追い出され、一人涙をこぼすことになります。この警察とのやり取りは、物語の中で最も恐ろしい場面の一つとして描かれています。社会が彼の特異な状況を理解できない、あるいは理解しようとしない冷淡さを象徴しているのです。全てを手放したからこそ相手にされない羽仁男の姿は、読者に暗い気持ちを残します。これは、社会が「博愛で薄情」であるという感覚を提示し、羽仁男が死を求める過程で得た「生への執着」が、社会との断絶という新たな孤独をもたらすという皮肉な結末を示唆しています。羽仁男が「決死から生き延び(てしまい)途方に暮れる」境遇は、三島自身が戦争で生き残ったことへの感情と重ねて解釈されることもあり、警察に追い出される場面は、三島が感じたかもしれない社会からの「見捨てられた」感覚を反映している可能性も指摘されるでしょう。
物語の冒頭で羽仁男が新聞の活字をゴキブリに見ることで生きる意味を見失ったのに対し、最終的に物語では、彼の目に映る世界が美しい星空に変わります。これは、羽仁男にとっての生きることの無意味と意味を象徴する対比的な関係として描かれているのです。彼は、死ぬことを目的として命を売り始めたにもかかわらず、なぜだか運良く死なずに生き延び、思いがけずお金を儲け、人との繋がりを持ち、そして最終的には死への恐怖を覚え、必死に生きようと足掻くようになります。彼の死への渇望は薄れ、いざ死を目の前にすると人間らしく生き生きと立ち回る姿が描かれるのです。
この物語の結末は、読者に多様な解釈を委ねます。彼は、死を追いかけていたのが死から追いかけられる存在へと変化し、お金は意味のないものだったはずが「儲けのいい仕事」となるのです。この結末は、三島由紀夫自身の死生観の複雑さを反映していると解釈されることが多いでしょう。物語全体を通じて、死を求めるが死ねないという皮肉な状況が繰り返され、最終的に生への執着へと転じる。これは、「世界が意味があるものに変われば、死んでも悔いないという気持ちと、世界が無意味だから、死んでもかまわないという気持ちとは、どこで折れ合うのだろうか」という問いを読者に投げかけます。三島は、この作品を通じて、人生の無意味さを認識しながらも、その無意味さを生き抜くための「強力なエネルギー」の必要性を提示したかったのかもしれない、と深く感じました。
まとめ
三島由紀夫の『命売ります』は、一人の男が自らの命を売るという特異な設定を通じて、生と死、虚無と実存、そして社会と個人の関係性を深く問いかける作品です。主人公・山田羽仁男は、日常の崩壊と自殺未遂を経験し、死への無関心から「命売ります」という奇妙な商売を始めます。しかし、皮肉にも彼は死を求めるたびに生き残り、富や人間関係を築いていくのです。
この物語の核心は、羽仁男の心理の劇的な変化にあります。当初、死に対して何の不安も抱かなかった彼は、同居人・倉本玲子との生活や秘密組織からの追跡を通じて、死への恐怖を再認識し、生への強烈な執着を抱くようになります。この変化は、人間が虚無の状態から脱却し、不安を感じることで初めて「生きている」ことを実感するという、三島が提示する「生」の本質を浮き彫りにしているのです。
最終的に、羽仁男は秘密組織から決死の逃走を果たし、生への本能的な適応能力の極致を見せます。しかし、彼が助けを求めた社会(警察)からは冷淡に拒絶され、孤独な境遇に置かれます。この結末は、個人が社会の複雑なシステムや冷酷さに直面する際の無力感、そして生への回帰が必ずしも幸福や安寧をもたらすわけではないという、実存的な孤独を提示しているでしょう。
『命売ります』は、単なる娯楽の枠を超え、三島由紀夫自身の死生観や社会批評が色濃く反映された多層的な作品です。人生の意味、消費社会の空虚さ、そして人間の根源的な生存本能といった普遍的なテーマを、スリリングな物語の中に巧みに織り込むことで、読者に深い問いかけを促します。その多義的な結末は、読者一人ひとりに「生」の価値と意味を再考させる、文学作品としての永続的な力を示しているのです。