小説「右岸」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
辻仁成の「右岸」は、江國香織の「左岸」と対になっていて、同じ人物とモチーフを共有しながら、視点だけが変わっていく仕掛けが肝なんですよね。共作という挑戦そのものが、物語の読み味に直結しています。
文庫版の「右岸(上)(下)」は、集英社文庫として刊行され、内容紹介が公式に出ています。読む前に輪郭をつかみたい方にも助かるはずです。
ここでは「右岸」を初見の方でも迷わないように、まずは結末手前までのあらすじを整えて、その後に踏み込んだ話も書いていきます。単行本と文庫の情報も合わせて触れていきますね。
「右岸」のあらすじ
舞台は福岡から始まります。主人公の祖父江九は、複雑な家庭事情を背負って生まれ、祖父母のもとで育ちます。隣家には茉莉と兄の惣一郎がいて、九はふたりに強く惹かれ、家族のような距離で幼少期を過ごしていきます。
やがて九は、自分でも説明しきれない“不思議な力”に触れ始めます。その力は、祝福というよりも、周囲の視線や出来事を呼び込み、九の人生を静かに、しかし決定的に曲げていきます。惣一郎の存在もまた、九の心に深い刻印を残します。
少年期の出来事は、九に「誰かを救う」とは何かを突きつけます。力があるのに届かない、気持ちはあるのに間に合わない。その空白の痛みが、九を家の外へ、世界の広さへ押し出していきます。
九は出会いと別れを重ね、旅をし、やがてパリへも辿り着きます。茉莉は近いのに遠い存在のまま、九の内側に居続けますが、この先の結末や最終的な帰着点には、ここでは触れないでおきます。
「右岸」の長文感想(ネタバレあり)
まず「右岸」の強さは、主人公・祖父江九が“特別である”ことを、安易な成功談にせず、むしろ生きづらさとして積み上げていくところにあります。力を持った瞬間に人生が開けるのではなく、力があるからこそ誤解され、消費され、孤独が濃くなる。その逆説が、序盤からじわじわ効いてくるんです。
つぎに胸に残るのは、九の原点が「家」ではなく「隣」から始まっている点です。茉莉と惣一郎の家は、九にとって羨望であり、避難所であり、同時に届きそうで届かない岸でもある。とりわけ惣一郎の存在は、兄のようで、先生のようで、九の倫理の芯を形づくっていきます。
ここで大きな転回として惣一郎の死が来ます。九の人生にとって、これは単なる悲劇ではなく、世界のルールがねじれる瞬間として描かれる。茉莉を守りたい、惣一郎のように在りたい、でも自分は間に合わないかもしれない。その焦りが、九の“力”の輪郭をいっそう歪ませていくんですよね。
また「右岸」は、父の影を徹底して消さない作品でもあります。九は血縁から逃げたいのに、血縁の因果が追いかけてくる。どれだけ別の生を選ぼうとしても、出生の事情が社会の視線を連れてくる。その息苦しさが、九の“救いたい衝動”を、純粋さと危うさの両方に変えていきます。
そして、九がサーカスへ寄っていく流れが面白いんです。サーカスは、現実と虚構の境目を職業として引き受ける場所ですよね。九の力が「奇跡」ではなく「芸」として配置されることで、救いの形が少し変わる。人を驚かせること、笑顔にすること、生活を守ること。救済が日銭の感触を帯びてくるのが、妙にリアルです。
それでも九は、どこかで「本当に救えているのか」を疑い続けます。旅に出るのは、自由のためというより、罪悪感の置き場所を探すために見える瞬間がある。ここが「右岸」の痛いところで、善意が強い人ほど、自分の善意に裁かれてしまうんですよね。
さらに物語がパリへ移ると、「右岸」は急に呼吸が変わります。街の湿度、異国語の距離、文化の違い。九は“誰でもない自分”になれる余白を得る一方で、“誰でもない”ことの寂しさも引き受ける。だからこそ、ネネとの出会いが、人生の輪郭を一度くっきり描き直してしまうんです。
ネネとの生活は、九がようやく「力の使い道」ではなく「生の手触り」を学ぶ章だと感じました。夫であること、父であること、ただ同じ家に帰ること。奇跡ではない日常に、九が救われていく。その静かな幸福が描けるから、次に来る喪失が残酷に刺さります。
やがてネネを事故で失い、九自身も事故に巻き込まれ、人生は一気に崩れます。ここは読んでいて息が詰まるところで、喪失が連鎖する時、人は「悲しむ」以前に「壊れる」んだと突きつけられる。記憶の欠落が、単なる設定ではなく、心の防衛として立ち上がってくるんですよね。
しかも帰国後の九は、“力”が再び注目されることで、今度は別の檻に入れられていきます。奇跡を求める群衆は、九本人の傷には関心がない。九は求められるほど空洞になる。この構図が本当に苦くて、救いの物語として読みたい気持ちを、簡単には許してくれません。
それでも「右岸」は、周囲の手が差し出される描写を丁寧に拾っていきます。茉莉の存在は、恋人でも妻でもないのに、九の人生の基準点として戻ってくる。ここが不思議で、関係性の名前を決めないからこそ、関係性が大きくなるんですよね。
終盤、九が再びサーカスに関わり、力を“見世物”ではなく“誰かの生活をつなぐ技”として使う場面が出てきます。サーカスの危機を支えるのは、奇跡の派手さではなく、同じ場所で働く人たちへの責任感です。九の力はようやく、自己証明から他者への贈り物へと転じていく。
また、息子との距離が再び動き出すところが、この作品の核心だと思いました。血縁とは何か、親であるとは何か。九は“守れなかった自分”を抱えたまま、関係を作り直すほうへ進む。ここで「勝ち」や「成功」に回収しないのが、「右岸」の誠実さなんです。
そして最後、九は博多へ戻り、茉莉がいる隣へ帰ってきます。恋愛の成就ではなく、長い歳月の果てに、同じ場所へ戻ってくるという帰還。交わらないのに寄り添う、という構図が、作品名の意味を静かに回収します。読み終えたあと、派手な感動よりも、遅れてくる温度が残るんですよね。
読後にいちばん強く思うのは、「右岸」が“特別な人”の物語であると同時に、“特別になれない自分”の物語でもあることです。救えなさ、間に合わなさ、誤解される痛み。それでも誰かを思い続ける、その執念だけは手放さない。だからこの長編は、人生のうねりを一度くぐった人ほど、刺さり方が変わるはずです。
「右岸」はこんな人にオススメ
「右岸」を薦めたいのは、恋愛の成就や明快な結論よりも、関係が長い時間をかけて変質していく過程に惹かれる方です。茉莉と九の距離は、わかりやすい名前に落ちません。その落ちなさが、むしろ“人生の関係”として手触りを持ってくるんですよね。
「右岸」は、人生の不条理を真正面から受け止める章が多いので、軽い気持ちで癒やされたい時より、「どうしてこうなるんだろう」と立ち止まれる時に合います。九が力を持ちながら救えない苦しみを抱えるところは、読者の実感にもつながりやすいはずです。
また、江國香織の「左岸」を読んだ方が「右岸」を読むと、同じ出来事が別の角度で見え、記憶が塗り替わる感覚が出ます。逆順でも成立しますが、読み順の好みが分かれるタイプでもあります。
長い物語の中で、土地が変わり、仕事が変わり、家族が変わっていく。その変化に耐えながら、それでも人を思い続ける姿に触れたい方には、「右岸」は強く残る一冊になると思います。
まとめ:「右岸」のあらすじ・ネタバレ・長文感想
- 「右岸」は“力”を祝福にせず、生きづらさとして描きます
- 九の原点が「隣」にあるため、帰還の意味が深くなります
- 惣一郎の死が、九の倫理と運命を大きくねじります
- 血縁の因果が、逃げたい九を何度も引き戻します
- サーカスは奇跡を日常へ落とし込み、救いを現実の手触りにします
- パリ編で九は“誰でもない自由”と“誰でもない孤独”を引き受けます
- ネネとの生活が、九に日常の幸福を教えます
- 事故と記憶の欠落が、喪失の暴力性をむき出しにします
- 後半は“見世物”から“責任”へ、力の意味が変わっていきます
- 結末は成就ではなく帰還で、題名の構図が静かに回収されます





















































